第53話:ロランの限界
三日間――。 ロランは、一度もベッドから起き上がることができなかった。
脳への負荷が、もはや修復不可能な段階に達していた。
地下水道の隠れ家。 薄暗い部屋の中で、ロランはただ天井を見つめ続けている。
灰色の天井。灰色の世界。 意識の輪郭はぼやけ、時折、視界が奇妙に歪んだ。
意図しない『タクティカル・ビュー』の断片的な起動。 無機質なグリッドが網膜に現れては、ノイズを撒き散らして消えていく。 思考の制御装置が、内側から壊れ始めていた。
「主様……」
リーナが、壊れ物に触れるような手つきでロランの頬を撫でる。
「大丈夫ですか……。今、お水を……」
「ええ……」
ロランは、掠れた声で短く応じた。 だが、頭蓋の奥では、絶え間なく脳が焼かれるような劇痛が走っている。
診察を終えたゾフィアが、震える手で診断結果を記した羊皮紙を握りしめた。
「脳内温度、三十八・九度」
彼女の呟きは、絶望に近い響きを帯びていた。
「まだ下がらないわ。それに――」
「損傷が、見られるのですね」
ロランが代わりに言葉を継ぐと、ゾフィアは顔を歪めて頷いた。
「ええ。演算の過負荷で、神経細胞の一部が……。これ以上は、もう……」
「あと、どれくらい持ちますか?」
ロランの問いは、自分のことではないかのように淡々としていた。 ゾフィアは唇を噛み、涙を堪えながら答える。
「このまま演算を続ければ、一週間……。いえ、三日も持たないかもしれないわ」
「そうですか。……十分です」
「やめて!」
リーナが叫び、ロランの胸に顔を埋めた。
「主様、お願いです! もう、これ以上はやめてください!」
ロランの頬に、リーナの熱い涙が落ちる。 ――熱い。 温度だけは、まだ鮮明に感じられる。
だが、ロランにはもう、彼女の悲しみを理解し、共鳴する「情緒」が残っていなかった。
「ごめんなさい、リーナ。……でも、僕にはこれしかないんです」
泣き崩れるリーナを、ロランは感情の消えた瞳で見つめ返すことしかできなかった。
――◆――
ガルドが運んできた食事も、もはや燃料を摂取するだけの作業だった。
灰色のスープを一口、飲み干す。 温かさは伝わるが、味は完全に失われ、泥水を啜っているのと変わらない。
ガルドは、機械的に喉を鳴らすロランの姿を見て、音もなく拳を握りしめた。 自分が精魂込めて作った料理が、一人の少年を喜ばせることさえできない。 その残酷な現実に、料理人の誇りはズタズタに引き裂かれていた。
夜。 アルベルトが一人、ロランの部屋を訪れた。
「ロラン、話せるか」
「はい、アルベルト様」
アルベルトは、ベッドの横に腰を下ろした。 彼の顔には、王族としての威厳ではなく、友を失うことを恐れる一人の少年の顔があった。
「僕は、君を止めたい。……君は僕のために、王都を、国を取り戻すために戦ってくれている。だが、それで君が死んでしまったら、僕は……何のために王になればいいんだ?」
ロランは、空虚な瞳を親友に向けた。
「アルベルト様。僕は……もう、人間ではないのかもしれません」
「何を……言っているんだ……」
「色は見えず、味も匂いも分からない。そして――感情さえ、霧の向こうに消えてしまいました」
ロランの瞳が、無機質に光る。
「僕に残っているのは、演算という『機能』だけ。だから……僕は戦い続けます」
「そんなこと、言うな!」
アルベルトが、激しくロランを抱きしめた。
「君は人間だ! 僕の大切な友達なんだ! 機能だなんて、そんな悲しいことを言うな……!」
肩に伝わる、アルベルトの激しい鼓動と、熱。 ロランはそれを受け止めながら、心の中でただ「熱いな」とだけ思っていた。 親友の魂の叫びさえ、今の彼には解析すべき「音波」の一部でしかなかった。
「……ありがとうございます。でも」
ロランの瞼が、静かに閉じられた。
「僕は、戦います。……それが僕の、最後のアイデンティティですから」
――◆――
翌朝。 ロランは重い体を引きずり、机に向かった。
空間圧縮魔法の構造。中心核の座標。 その攻略パターンを、最後の一片まで詰め切るために。
視界を白黒のグリッドが覆う。 記憶の中のアーサーを再生し、その絶対的な盾を数式で切り刻む。
【中心核への干渉方法:最適化完了】 【必要音波:単一周波数 九・七掛ける十の十五乗ヘルツ】 【成功確率:七十八・四パーセント】
(まだだ……。八割に満たない成功率は、僕の死を意味する……!)
演算をさらに加速させる。 脳内温度が急上昇し、冷却冠が悲鳴を上げた。
【警告:脳内温度 三十九・三度 危険域】
その時。 視界のグリッドが、激しく明滅し始めた。
「くっ……!?」
タクティカル・ビューが暴走を始める。 無数の数式と座標が、ロランの意志を無視して網膜を駆け抜けていく。 脳が内側から弾けるような、絶叫すら許されない劇痛。
「止まれ……止まれ……ッ!」
頭を抱えて蹲る。 視界が真っ白に染まり、思考が濁流に飲み込まれていく。
「主様っ! どうしたんですか!」 「ロラン! 脳内温度が上がってる、出力を最大に!」
リーナとゾフィアの声が遠くに聞こえる。 三十九・九度。 脳が、物理的に焼けていく音が聞こえるようだった。
死の淵で、意識の糸がぷつりと切れた。 直後、すべてのグリッドが消え、静寂な灰色の世界が戻る。
「主様……主様……っ」
リーナの腕の中で、ロランは浅い呼吸を繰り返した。 脳内温度がわずかに下がり、死の淵から引き戻される。
「ごめんなさい、リーナ……。少し、無理をしました」
震える声で謝りながら、ロランは確信していた。 もう、猶予はない。 自分の脳は、あと一度の全力演算にしか耐えられないだろう。
その夜。 ロランは一人、震える指で羊皮紙に文字を刻んだ。 色彩のない世界で、灰色の文字が綴られていく。
『アルベルト様へ。 もし、僕が死んだら――。 どうか、王になってください。 正しい国に。 僕は、それだけを願っています。 ロラン・フォン・アシュベル』
それは、感情を失いかけた少年に残された、最後の一滴の人間性だった。
手紙を引き出しの奥へ隠し、ロランは静かに目を閉じる。
明日――。 すべてが終わる。
灰色の世界で。 少年は、自らを焼き切るための戦場へ向かう。




