第52話:空間圧縮魔法発動
十日間――。 ロランは、ほとんど眠らずに演算を続けた。
地下水道の隠れ家。 薄暗い部屋で、彼はただ羊皮紙に数式を刻み続ける。
灰色の紙に、灰色の文字。 世界から色彩が消えて久しいが、今のロランにとって必要なのは、網膜に映る現実ではなく、脳内に構築される「理」だった。
『タクティカル・ビュー』が、記憶の中の光景を幾度も反芻する。 白黒のグリッドが視界を覆い、アーサーの放った絶技をスローモーションで解体していく。
【空間圧縮魔法:構造解析 試行四十七回目】 【層数:推定百二十七層】 【各層の位相差:不規則】 【共振周波数:測定不可】 【解析成功確率:四・三パーセント】
確率は、依然として地を這っている。 重力魔法の六層とは比較にならない、圧倒的な積層構造。 ロランの脳は、限界を超えて熱を帯び始めた。
【警告:脳内温度 三十九・一度 危険域接近】
冷却冠が耳障りな駆動音を立てる。 だが、ロランは止めない。止めるわけにはいかない。 演算を止めれば、自分を自分たらしめている唯一の価値が消えてしまう気がした。
その時、扉が荒々しく開いた。 ゾフィアが、鈍い銀光を放つ金属箱を抱えて立っていた。
「ロラン、できたわよ!」
ロランはタクティカル・ビューを遮断した。 グリッドが消え、静止画のような灰色の世界が戻る。
「ゾフィアさん……」
立ち上がろうとしたが、膝が笑っていた。 倒れそうになる体を、ゾフィアが慌てて支える。
「あんた……また徹夜したわね。死にたいの?」
「……解析を、進めなければならないので」
ロランの蒼白な顔、深く窪んだ眼窩。 ゾフィアは唇を噛み、言葉を飲み込んで装置を差し出した。
「空間圧縮魔法用、多層干渉装置よ。百二十七種類の周波数を同時に吐き出せるわ」
ロランはそのずっしりと重い箱を受け取る。 中には、極小の振動子が密集し、精密な鼓動を刻んでいた。
「ただし、出力は前回の半分以下。射程はせいぜい半径三メートルよ。……懐まで飛び込む覚悟はある?」
「ええ。十分に戦えます」
「……あと、これも持っていきなさい」
差し出されたのは、さらに大型化した『冷却装置・改良三号』。
「冷却能力は限界まで引き上げた。……けど、これ以上は人間の脳に触れる温度じゃないわ。氷点下の冷気が脳を直接洗う……一歩間違えれば、凍傷で廃人よ」
「……助かります。ありがとうございます」
――◆――
その日の午後。 一行は、再び王宮前広場へと足を踏み入れた。
広場を埋め尽くしていたのは、一万人を超える民衆の波だった。 彼らは息を呑み、中央に立つ「巨人」と、対峙する「少年」を見つめている。
「ロラン! 頑張れ!」 「無能の英雄! 俺たちの希望だ!」
民衆の声。 けれど、今のロランにはそれを歓声として受け取る情緒が残っていない。 自分は英雄か? それとも希望か? そんなことはどうでもいい。ただ、目の前の「事象」を崩壊させる。それだけが目的だった。
「来たか、ロラン」
父、アーサー・フォン・アシュベルの声が響く。
「はい、父上。準備は整いました」
アーサーは沈黙し、静かに手を掲げた。
「では――始めよう」
刹那。 世界が押し潰された。
前回を遥かに凌駕する、空間圧縮。 ロランは即座にタクティカル・ビューを起動した。
白黒の視界に、百二十七層の複雑怪奇な断層が浮かび上がる。 各層がバラバラの周期で振動し、接近するあらゆる物理干渉を拒絶していた。
【空間圧縮魔法:展開を確認】 【圧縮率:推定九十二パーセント】 【干渉を開始する】
ロランは多層干渉装置を起動した。 百二十七個の振動子が一斉に咆哮を上げ、不可視の音波を吐き出す。
【干渉開始――第一層から第三層、共振を確認】
一つ、また一つと空間の壁が剥がれていく。 だが、重力魔法の時とは決定的に違っていた。 崩した先から、層が自己再生を繰り返しているのだ。
(くっ……再生速度が計算を上回っている……!)
出力が足りない。距離が遠い。 ロランは無理やり足を一歩、前に踏み出した。 脳内温度が、爆発的に跳ね上がる。
【警告:脳内温度 三十九・八度 危険域到達】
改良三号の冷却冠が悲鳴を上げ、ロランの脳を極低温で凍らせようとする。 灼熱と極寒の相克。 額から流れる鮮血が、視界を赤く染め上げた。
「主様っ……!」
リーナの叫び。 だが、ロランは止まらない。さらに演算の深度を深める。
(どこだ……。どこかに、この多層構造を支える『一点』があるはずだ……!)
アーサーが指を動かす。 圧縮率が九十五パーセントへ上昇。 ロランの周囲の空間が、極限まで狭まった。距離の概念が消滅し、呼吸さえもが空間に固定され、肺に入ってこない。
脳内温度、四十度を突破。
【警告:脳内温度 四十・二度 臨界点を突破】
意識が白く弾ける。 自らの脳が融けていくような、形容し難い恐怖。 だが、その死の淵で――ロランは「視た」。
百二十七層の断層の最奥。 術者アーサーの足元、わずか数十センチの位置に、すべての層が収束する「核」が存在している。
【発見――中心核の座標を特定】 【ここを叩けば、すべてが瓦解する】
演算結果が、絶望的な成功確率を塗り替えた。
【干渉成功確率:六十三・八パーセント】
「……見つけた……」
ロランは、満足げに呟いた。 直後、すべての糸が切れたように彼の体から力が抜ける。
アーサーが異変に気づき、慌てて魔法を解除した。 地面に崩れ落ちるロラン。
「主様! 主様!」
駆け寄るリーナの温もり。 遠のいていく意識の中で、ロランはその「熱」だけを頼りに、自らの演算結果を脳に深く刻み込んだ。
――◆――
数時間後。 地下水道の隠れ家で、ロランは目を開けた。
色彩のない、灰色の天井。 額に触れる、ゾフィアの手。
「三十九・八度。……よく生きてたわね、あんた」
「ゾフィア、さん……」
「喋らなくていい。脳がオーバーヒートして、死ぬ一歩手前だったんだから」
ロランは、何も感じなかった。 死への恐怖も、生き残った安堵も。 ただ、目的に王手をかけたという「事実」だけがあった。
「主様……もう、やめてください……」
手を握り、涙を流すリーナ。 ロランは、その指先の温かさを感じながら、静かに告げた。
「見つけました。……空間圧縮の、中心核を」
その場にいた全員が絶句する中、アルベルトが部屋に踏み込んできた。
「ロラン。……もういい、次は、ないぞ」
「ですが……」
「ないと言ったら、ない!」
アルベルトの叫び。 友を失う恐怖に、彼の声は激しく震えていた。
「君はもう十分に戦った! これ以上やれば、君は本当に死んでしまう!」
ロランは答えず、ただ静かに目を閉じた。 脳内には、まだあの白黒のグリッドと、特定した座標が焼き付いている。
アルベルトの叫びも、リーナの涙も、今のロランには遠い国の出来事のようにしか感じられない。
灰色の世界で。 少年はただ一人、父を越えるための最後のパズルを、解き進めていた。




