第49話:構造解析開始
三日間。 ロランは、ほとんど眠らなかった。
重力魔法の解析。その一点に、全神経を注ぎ込む。
地下水道の隠れ家。 薄暗い部屋の中で、ロランは羊皮紙に数式を書き殴り続けた。
灰色の紙に、灰色の文字。 もはや、彼にとって世界は「色彩」という意味を失っている。
だが――その無彩色の数式の中にこそ、答えがあった。
『タクティカル・ビュー』を再起動する。 強制的に引きずり出される、白黒のグリッドライン。 記憶に刻まれたアーサーの魔法を、仮想空間上で幾度も再生、解体、再構築する。
【重力魔法:構造解析 深度レベル3】 【螺旋の巻き数:n = 6】 【各層の位相差:60度】 【共振周波数:8.1掛ける10の15乗ヘルツ】
「見つけた……」
ロランは、掠れた声で呟いた。
螺旋は、六層の構造になっていた。 各層が、わずかずつ位相をずらして重なり合っている。 これこそが、アーサーの魔法を「絶対」たらしめている強度の正体。
ならば、その六層すべてを同時に崩せばいい。 六つの異なる周波数を、同時にぶつけるのだ。
【必要音波:六種類】 【周波数1:8.1掛ける10の15乗ヘルツ】 【周波数2:8.3掛ける10の15乗ヘルツ】 【周波数3:8.5掛ける10の15乗ヘルツ】 【周波数4:8.7掛ける10の15乗ヘルツ】 【周波数5:8.9掛ける10の15乗ヘルツ】 【周波数6:9.1掛ける10の15乗ヘルツ】
脳内で、冷徹な演算結果が弾き出される。
【干渉成功確率:91.2パーセント】
九割を超えた。 これなら――勝てる。
タクティカル・ビューを遮断する。 グリッドが消え、静寂な灰色の世界が戻る。
ロランは立ち上がろうとした。 だが、膝に力が入らない。 疲労は、とっくに限界を超えていた。
「主様っ!」
駆け寄ってきたリーナが、崩れ落ちそうになるロランを抱きとめる。
「大丈夫ですか! 顔色が……!」
「ええ……解析が、終わりました……」
安堵するリーナ。 だが、ロランの顔を見た彼女は、息を呑んで絶句した。
蒼白を通り越した顔。深く窪んだ眼窩。 かつての少年の面影は、削り取られたように痩せ細っていた。
「主様……お願いです、休んでください……」
「まだです。止まるわけにはいかない」
リーナに肩を貸してもらい、ロランはゾフィアの工房へと向かう。 リーナの体温が伝わってくる。 この「熱」だけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる。
――◆――
「ゾフィアさん」
ロランが声をかけると、工房の主は振り向いた。 そして、ロランの姿を見るなり、苦虫を噛み潰したような顔をする。
「……また徹夜したわね。死ぬわよ、本当に」
「解析が終わりました。これを見てください」
ロランは書き殴った数式を差し出す。 六種類の周波数を同時に発生させる装置。その理論的背景を説明する。
ゾフィアは数式を追ううちに、不機嫌さを忘れて目を見開いた。
「重力魔法を……ここまで丸裸にしたっていうの?」
「作れますか? 六重の逆位相共振を発生させる装置を」
ゾフィアはしばらく考え込み、やがて力強く頷いた。
「作ってやるわよ。ただし、二日はもらいなさい。最高傑作にしてやるわ」
ゾフィアの目が、職人としての熱を帯びる。 ロランは歪な笑みを浮かべ、短く礼を言った。
――◆――
その日の昼。 ガルドが用意した食事を、ロランは機械的に口へ運んでいた。
灰色のパン。灰色のスープ。 匂いは分からない。
パンを一口、齧る。 ――温かい。
だが、ただそれだけだ。 味は完全に消失していた。 噛み砕く感覚は、まるで不快な砂を噛んでいるかのよう。
それでも、ロランは無理やり飲み込んだ。 戦うための「燃料」が必要だからだ。
(味が、しない……)
かつて、ガルドの料理は美味しかったはずだ。 喜びを感じさせてくれたはずだ。 だが今のロランにとって、食事は単なる化学エネルギーの摂取でしかなかった。
壁際で、ガルドがその様子をじっと見つめている。 表情を失くし、淡々と砂のようなパンを咀嚼するロラン。 ガルドの目に、熱いものが浮かんだ。
(ロラン様……。俺は、あんたに何を食わせているんだ……!)
料理人として、これ以上の屈辱はない。 だが、ガルドは何も言わなかった。 ただ、次はさらに「食感」を研ぎ澄ませた、感覚を揺さぶる一皿を作ると心に誓う。
――◆――
食事の後、アルベルトがロランの元を訪れた。
「ロラン。少し、話せるか」
「はい、アルベルト様」
二人は部屋の隅へ移動する。 アルベルトは、痛ましそうにロランを凝視した。
「君は……本当に、大丈夫なのか?」
その声は、震えていた。
「君が、どんどん変わっていく。笑顔さえ、記号のようになってしまった。食事も楽しめず、その目は……どんどん冷たくなっていく」
アルベルトの瞳に、涙が溜まる。
「ロラン、君は……人間であることを、捨てようとしているのか?」
ロランは、その問いに何も感じなかった。 悲しみも、罪悪感も。 ただ、事実として淡々と受け止める。
「すみません。ですが、これが僕の戦い方なんです」
「ロラン……!」
アルベルトが、ロランの手を握った。 その手は氷のように冷たかった。生気が、指先からこぼれ落ちている。
「君を救いたい……。なのに、僕には何もできない……!」
ロランは、握られた手の「温もり」を感じる。 それだけが、唯一の救いだった。
「大丈夫です。僕は、まだ戦えますから」
微笑もうとするが、やはり顔は不自然に歪む。 アルベルトは、その表情を見て、胸を締め付けられる思いで顔を背けた。
――◆――
夜。 ゾフィアが試作装置を完成させた。
「できたわ。音波発生装置、試作一号よ」
銀色の、小さな箱。 その中には、ロランの理論を形にする六つの振動子が組み込まれている。
「出力範囲は半径五メートル。これ以上は、精度が保証できないわ」
「十分です。ありがとうございます」
ロランは装置を受け取る。 これが、父を討つための「牙」になる。
「それと、これも。脳の冷却装置、改良二号よ。冷却能力をさらに五十パーセント上乗せしたわ」
ずっしりと重い。 だが、これがロランの寿命を少しだけ先延ばしにする命綱だ。
「お礼はいい。その代わり――生きて帰りなさい。いいわね?」
「……善処します」
ロランは短く答え、部屋を出た。
廊下には、リーナが待っていた。 彼女は何も言わず、ロランの手を握った。
灰色の銀髪、灰色の瞳。 ロランには色彩は見えない。 けれど、握られた手の熱は、誰よりも鮮明に感じられた。
翌朝。 新しい冷却冠を装着し、音波装置を懐に忍ばせる。
アルベルトが、ロランの前に立った。
「行くんだな」
「はい。父上と――アシュベルと、決着をつけます」
「わかった。僕も行く。……最後まで、君の隣にいる」
ロランは、歪な笑顔を浮かべて頷いた。
「ありがとうございます」
灰色の空の下。 一行は王宮へと歩み出す。
一人の少年が、自らの命を燃やし尽くして挑む、最後の演算が始まろうとしていた。




