第47話:父アーサー降臨
その夜――王都ルミナスに、異変が起きた。
突如として、空気が爆ぜるように重くなる。 いや、正確には「空間」そのものが歪んでいた。
地下水道の隠れ家で、ロランはその変調を敏感に察知する。
「これは……」
思考より先に、脳が警報を鳴らした。 意識の底から『タクティカル・ビュー』がせり上がってくる。
色彩のない、白と黒だけの二階調の世界。 その無機質な視界に、幾何学的なグリッドラインが走る。
そして――「視えた」。
王都全域を覆い尽くす、巨大な重力場。 空間の密度が異常なまでに圧縮され、光さえもが歪曲している。
【警告:広域重力魔法の展開を検知】 【出力規模:推定 G=2.5】 【術者:特級魔導師 アーサー・フォン・アシュベル】
ロランは、わずかに息を呑んだ。
「父上が……来た……」
「なんだと!?」
隣にいたアルベルトが、戦慄に顔を引きつらせる。
「アーサー公爵が、自ら動いたというのか……!」
「ええ。おそらく、カインを回収するために」
その直後、地下水道全体が悲鳴を上げた。 凄まじい振動。天井から土砂がこぼれ落ちる。
「主様っ……!」
怯えるリーナが、ロランの腕にしがみついた。 その「熱」だけが、冷え切ったロランの感覚を現世に繋ぎ止める。
「重力魔法です。父上が、王都そのものを力で押さえつけている」
「く、そ……体が、鉛のように重い……ッ!」
壁に手をつき、荒い息を吐くガルド。 常人には、立っていることすら困難な高重力。 肺が圧迫され、呼吸の一つひとつが苦痛へと変わる。
ロランは構わず、タクティカル・ビューの演算速度を上げた。 白黒の視界の中で、空間の歪みが数式へと置換されていく。
魔力の潮流、重力ベクトル、集束点――。
【重力場中心:王宮前広場】 【波形パターン:3.7掛ける10のマイナス8乗メートル】 【構造的支点:36箇所】 【干渉可能性:解析率不足により不可】
(まだだ……まだ読み切れない)
アシュベル家当主の魔法。 その構造は、ロランの予想を遥かに上回る複雑怪奇な「螺旋」を描いていた。
「ロラン! 大大丈夫か!」
アルベルトが肩を揺さぶる。 ロランは、思考の海から無理やり意識を引き戻した。
タクティカル・ビューを強制終了する。 視界から数式が消え、元の灰色の世界が戻ってきた。
同時に、焼けるような劇痛が脳を突き抜ける。
【警告:脳内温度 39.1度 危険域接近】
「……っ」
額に脂汗がにじむ。 鼻の奥で、鉄の味がした。
「主様! 無理をしないでください!」
「……大丈夫です。行きましょう」
震える足に力を込め、ロランは立ち上がる。
「行くって……どこへだ!?」
「王宮前広場。父上が、そこにいます」
ロランの瞳が、静かに、だが鋭く光った。
「待て! 今の君が行くのは危険すぎる!」
「このままでは、カインが回収されます。そうなれば、僕たちの反撃の芽は摘まれる」
アルベルトは苦渋の表情で沈黙し――やがて、覚悟を決めたように頷いた。
「わかった。……僕も行く。君を一人にはさせない」
ロランは、微かに口角を上げた。 だが、その表情はどこか歪んでいる。 顔の筋肉の動かし方さえ、今の彼には計算で導き出す「記号」に過ぎなかった。
――◆――
王宮前広場は、地獄と化していた。
民衆は地面に這いつくばり、絶叫すら上げられずに悶えている。 その中央。 暴虐な重力の渦中で、一人の男が泰然と立っていた。
アーサー・フォン・アシュベル。
鉄黒色の鎧に身を包んだその威容は、まさに動かざる山の如し。 彼の周囲だけが、まるで別世界のように重力から守られていた。
「愚かなことだ」
アーサーの低い声が、広場に響き渡る。
「我が息子カインを、反逆者と呼び、石を投げるか」
冷酷な眼光が、地に伏せる民衆を射抜く。
「笑止千万」
アーサーが、ゆっくりと右手を掲げた。 それだけで、重力の檻がさらに収縮する。
人々の骨が軋む音が、ロランの耳に届く。 色彩を失った視界の中で、苦悶に歪む人々の顔がスローモーションのように流れていった。
(変わっていない……)
ロランは、その光景を冷徹に観察する。 力ですべてを支配し、跪かせる。 それがアシュベルの血に流れる、傲慢なまでの自負。
「父上! 父上、こちらです!」
拘束を解かれたカインが、なりふり構わずアーサーへ縋り付いた。 かつての尊大な態度は消え失せ、必死に命乞いをする姿は見苦しいの一言に尽きる。
「私は無実です! あの書類は……あの無能のロランが捏造した偽物なのです!」
アーサーは、足元に這いつくばる息子を冷ややかに出迎えた。
「カイン」
「は、はいっ!」
「お前は……期待を裏切るのが得意なようだな」
氷のような声に、カインの体がガチガチと震え始める。
「証拠を残すなと、あれほど教えたはずだ。それを、あのような小細工で足元を掬われるとは」
「も、申し訳ございません! ですが、私はアシュベルの跡継ぎです! お助けください!」
アーサーは、しばらく無言でカインを見下ろしていたが、やがて短く吐き捨てた。
「よかろう。お前がどれほど愚かであろうと、アシュベルの血を外に流させるわけにはいかん。……私が、守ってやる」
カインの顔に、下卑た安堵が浮かぶ。 だが――その安堵を切り裂くように、一人の少年が歩み出た。
灰色のメイド服を纏った、小柄な人影。 ロラン・フォン・アシュベル。
アーサーの目が、わずかに細められた。
「ロラン……」
地を這うような重低音。
「お前か」
ロランは、アーサーの正面、十メートルの位置で足を止めた。 重力魔法の有効圏内ギリギリ。
「お久しぶりです、父上」
感情の起伏を感じさせない、淡々とした挨拶。 アーサーの瞳に、怒りと、失望、そして未知の「違和感」に対する興味が混ざり合う。
「貴様が、この騒動の絵を描いたのか」
「はい。カインの不正を暴き、民衆の前に引きずり出したのは僕です」
「ふん。無能の分際で、鼠のような真似を」
アーサーが嘲笑う。
「だが、それで何が変わる? カインは私が連れ帰る。貴様の小細工など、この圧倒的な力の前には無意味だ」
ロランは、その言葉を聞いて静かに口角を上げた。 不自然に歪んだ、どこか壊れた人形のような笑み。
「力で、すべてを捻じ伏せると?」
「当然だ。民衆など、所詮は家畜に過ぎん。導く必要はない。ただ、支配すればいい」
ロランの心は、凪いでいた。 怒りも、悲しみも、とっくに脳の加熱で焼き切れている。 ただ、冷徹な演算だけが答えを導き出す。
(この男は、倒すべき対象だ)
視界を、青白いグリッドが埋め尽くす。 再起動したタクティカル・ビュー。 アーサーが展開する重力魔法の、その「核」を射抜くための計算が始まった。
【重力魔法:詳細解析を開始】 【干渉方法:音波共振による逆位相相殺】 【成功確率:32.7パーセント】
(まだだ……足りない。もっと「深部」を視せろ)
脳が悲鳴を上げる。 視神経が焼けるような熱。
「父上」
ロランは、鼻から流れる血を拭うことさえせず、アーサーを見据えた。
「あなたのその魔法……。僕が、必ず解析します」
「ほう?」
アーサーの瞳に、初めて明確な殺意が宿った。
「無能と呼ばれた貴様が、私の重力に挑むというのか」
「はい。……必ず」
その眼差しには、一切の迷いがない。 アーサーは、ロランの変化に気づいていた。 かつて自分の影に怯えていた出来損ないの面影は、もうどこにもない。
「ならば、試してみるがいい。……この圧に、いつまで耐えられるかな!」
重力が、一気に倍加した。 広場の石畳がバキバキと砕け、空気が悲鳴を上げる。 だが、ロランは一歩も引かない。
【警告:脳内温度 39.8度 危険域到達】
目からも血が溢れ、視界が真っ赤に染まる。 それでも――白黒の世界の中に浮かぶ「数式」だけは離さない。
(もう少し……あと少しで、構造が……!)
その時。 背後から、温かな感触がロランを包み込んだ。
「主様、もういいです! やめてください!」
リーナの声。 彼女の体温が、ロランの限界を超えた脳を、優しく現実へと引き戻す。
ロランは、タクティカル・ビューを遮断した。 グリッドが消え、世界が元の灰褐色に沈む。
膝から崩れ落ちそうになる体を、リーナが必死に支えていた。
「主様……ひどい顔です……」
「……すみません。……でも、データは取れました」
ロランは、リーナの腕の中で、自分の鼻血を拭った。 感じるのは「熱」だけ。 それが、自分がまだ生きている唯一の証明。
アーサーは、その光景を見て重力を解除した。
「ロラン。貴様、何を変えた……?」
「…………」
「……まあいい。所詮、無能は無能だ。私の魔法に触れることなど、一生かかっても不可能よ」
アーサーは、腰を抜かしたカインの襟首を掴み、背を向けた。 歪む空間の中へと、その姿が消えていく。
ロランは、去りゆく父の背中を、ただ静かに、灰色の視界で見つめていた。
「次は……必ず」
誰にも聞こえない、小さな呟き。 物語は、絶望の淵で、着実な「反撃」の種を宿していた。




