第5話:銀狼の忠誠
ロランが意識を取り戻したのは、翌朝のことだった。
窓から差し込む朝の光が、質素な石造りの部屋を照らしている。 体はまだ鉛のように重いが、あの割れるような頭痛は引いていた。
ゆっくりとベッドから上体を起こすと――。 部屋の隅に、影のような「誰か」が潜んでいることに気づいた。
透き通るような銀色の髪。 鋭くも、どこか哀しげな灰色の瞳。 そして、頭上にあるのは人間のものではない――ふさふさとした獣の耳。
獣人だ。
「…… 起きた」
少女は短く呟いた。 感情を押し殺したような、低く静かな声。
「あなたは……?」
ロランが問いかけると、彼女は音もなく立ち上がった。 細身ながら、しなやかな筋肉の躍動が服の上からでも見て取れる。 まごうことなき、戦士の体だ。
「リーナ。斥候」 彼女は淡々と、必要最低限の言葉だけを返した。 「…… あなたを見張ってた」
「見張り?」
「アルベルト様の命令。あなたが倒れたから」
リーナは歩み寄り、ロランの額へ手を伸ばす。 だが、肌に触れる直前でピタリと指先を止めた。
「…… まだ、熱い」
「え?」
「あなたの体温。普通じゃない。 高すぎる」 リーナの鼻が、ヒク、と微かに動く。 彼女は「におい」で体調を判別しているのだ。
「…… 脳が、焼けてるにおいがする」
ロランは一瞬、息を呑んだ。 獣人の嗅覚が鋭いとは聞いていたが、まさか演算による脳の過負荷まで嗅ぎ分けるとは。
「大丈夫です。もう、だいぶ楽になりましたから」
「嘘」 リーナは即座に断じた。 「心拍、速い。呼吸も、浅い。 まだ無理してる」
ロランは言い返せなかった。 この少女の観察眼――いや、五感による「感知」は並外れている。
「あなた、死ぬ」 リーナは、まるで明日の天気を告げるかのように言った。 「そのまま、その力を使い続けたら」
「…… わかっています」 ロランは静かに、自嘲気味な笑みを浮かべた。 「ですが、使わなければ僕も、みんなも死にます」
「なら、あなたが死んだ後は?」
リーナの鋭い問いに、ロランは言葉を失った。 その通りだ。 自分が力尽きれば、この砦の守りは一瞬で瓦解する。
「…… 考えます。 最善の策を」
「嘘つき」 リーナはロランをじっと見つめる。 その瞳の奥には、どこか鏡のように、自分と同じ「孤独」の色がある気がした。
「あなた、自分の命、軽く見すぎ。…… でも、わかる」
リーナは視線を窓の外、荒野へと向けた。 「私も、同じ。使い捨てられるだけの、道具だから」
その日の昼。 ロランは砦の食堂へと足を運んだ。
粗末な木造テーブルを囲み、兵士たちが賑やかに集まっている。 その中心で、一際大きな笑い声を上げている大男がいた。
身長は二メートルを優に超え、筋肉の塊のような体躯。 だがその相貌は穏やかで、太陽のような快活な笑みを浮かべている。
「おお! 噂の軍師様のお出ましじゃねえか!」
男はロランに気づくや否や、豪快に笑いながら手招きをした。 「俺はガルド! まあ、見ての通りのしがない料理番よ!」
ガルドは大きな鍋を抱えていた。 中からは、食欲をそそる芳醇な湯気が立ち上っている。
「さあさあ座れ! 今日は特別だ。 俺自慢の特製シチュー、たっぷり食わせてやるからな!」
勧められるまま、ロランは席に着いた。 周囲の兵士たちが、まるで英雄を迎えるような熱烈な眼差しを向けてくる。
「ガルドの飯は、この砦で唯一の救いなんだ。遠慮すんな」 隣に座ったハンスが、ニカッと笑って背中を叩く。
ガルドが、並々とシチューを注いだ木の椀を差し出した。 野菜と肉が溶け込むほど煮込まれた、素朴だが温かな一皿。
ロランがそれを一口、口に運ぶ。 ――美味い。 素材は決して上等ではないはずだ。 だが、丁寧な下処理と絶妙な味付けが、疲れ切った体に染み渡っていく。
「どうだ?」 ガルドが、期待に満ちた顔でのぞき込んでくる。
「…… 美味しいです。 本当に」
ロランの率直な言葉に、ガルドは顔をクシャクシャにして笑った。 「はっはー! そうかそうか! 嬉しいねえ!」
「ガルドはな、元は名のある傭兵だったんだ」 ハンスが小声で教えてくれた。 「だが、戦場で仲間を救えなかった。それ以来、剣を鍋に持ち替えたのさ」
「おいおい、そんな昔の話はいいんだよ」 ガルドは照れくさそうに大きな頭を掻く。 「俺はもう、人を殺すより、腹を空かせた奴を笑わせる方が性に合ってるんでね」
その瞳には、確かな覚悟があった。 戦うことよりも、人を生かす道を選んだ男の誇り。
「ロラン先生。…… 一つ、頼みがある」
不意に、ガルドの目が真剣なものに変わった。
「この砦の連中を、生きて帰してやってくれねえか」
「先生、ですか?」
「ああ。お前さんは、俺たちに『生きる理由』を教えてくれた。 …… 昨日まで、ここの連中は死ぬ順番を待つだけの屍だったんだ」
ガルドは周囲の兵士たちを、愛おしそうに見回した。 「でも、今は違う。お前さんが来てから、みんな『生き延びられるかもしれない』って、前を向けるようになった」
兵士たちが、力強く頷く。 そこにあるのは、ギルマー男爵に向けられていた諦念ではない。 確かな「希望」だ。
「だから、頼む。俺たちを導いてくれ、大軍師様」
ロランは、答えに窮した。 自分はただ、生き延びるために最適な演算をしているだけ。 誰かを導くなんて、そんな大層な人間ではない。
だが、この温かいシチューを作ってくれた男の願いを、無碍にはできなかった。
「…… わかりました。 最善を尽くします」
ロランが静かに頷くと、食堂は割れんばかりの歓声に包まれた。
食事の後。 ロランは再び城壁に立ち、冷たい風に当たっていた。 防衛網の再構築、罠の設置、物資の回転率――。
脳内でデータの海を泳いでいると。 音もなく、影が隣に寄り添った。 リーナだ。
「…… また、考えてる」
「ええ。次の襲来に備えてね」
「いつ来る?」
「おそらく、三日以内」 ロランは、重く垂れ込める北の空を見上げた。 「次は、本気で来ます。帝国も、この砦の異変に気づいたはずだ」
「勝てる?」
「…… 現状では五分五分です。 だから、確実な罠を張る必要がある」
無意識のうちに『タクティカル・ビュー』が起動する。 青いグリッドが視界を覆い、膨大な数値が駆け巡ったその瞬間――。
ツー、と。 ロランの鼻から、一筋の血が垂れた。
「!」 リーナが弾かれたように、ロランの額に手を当てる。 「熱い。また、脳が燃えてる」
「大丈夫だ…… これくらい」
「嘘。 強がり」 リーナはロランの顔を覗き込んだ。 その瞳には、いつしか哀しみではなく、強い意志が宿っていた。 「…… 私が、守る」
「リーナ?」
「あなたの代わりに、私が走る。敵を見る。 情報を集める。 …… あなたが脳を焼く回数を、私が減らす」
リーナは、ロランの服の袖をギュッと握りしめた。 「あなたは、一人じゃない。忘れないで」
その言葉が、凍りついていたロランの心を、シチューのように温めた。 そうだ。 自分はもう、独りではない。 アルベルトがいて、ハンスがいて、ガルドがいて。 そして今、この少女が手を握ってくれている。
「…… ありがとう、リーナ」
初めて名を呼ぶと、リーナは微かに頬を染めた。 そして、決然とした口調で告げる。
「主様」
「え……?」
「あなたのこと、そう呼ぶ。…… 私が決めた」
ロランは苦笑して頷いた。 この少女も、一度決めたら譲らないタイプらしい。
「わかったよ、リーナ。…… 明日から、北の偵察を任せてもいいか?」
「任せて。…… 死なせない、絶対に」
その夜、アルベルトも部屋を訪ねてきた。 二人は窓辺で、遠く帝国領の篝火を見つめる。
「ロラン。リーナから聞いたよ。 君は、僕たちの希望なんだってね」
「…… 買い被りすぎですよ」
「いや、事実さ。僕だって、君がいてくれて、ようやく自分がこの国で何をすべきか、見え始めた気がするんだ」 アルベルトは晴れやかな顔で笑った。
北の空に、不吉な赤い閃光が走る。 嵐の前の、静かな夜。
だが、ロランの隣には、もう信頼できる仲間がいた。 孤独な軍師の物語は、ここから「組織」の物語へと加速していく。




