第46話:兄カインの断罪
翌朝――王都ルミナスの空気は、劇的に変貌していた。
昨夜、晩餐会の席でぶちまけられた「真実」が、貴族街から下町までを瞬く間に駆け巡ったのだ。 ダリウス大臣の不正。大規模な賄賂と、血税の私的流用。
地下水道の隠れ家で、ロランはその「熱」を報告として受け取っていた。
「大成功だ、ロラン! 王国軍がダリウスの屋敷へ突入したそうだよ」
アルベルトが興奮を隠しきれない様子で告げる。 ロランは、色彩を欠いた二階調の視界で、主君の輝くような笑顔を見つめた。 喜悦の色は見えない。だが、その声の弾みだけは、確かに耳に届く。
「……そうですか」 「ロラン、君は本当にすごい。これで王都の腐敗も一掃される」 「まだです」
ロランは、アルベルトの言葉を冷然と遮った。 「ダリウスは、ただの駒に過ぎません」 「駒……? どういう意味だ?」
「ダリウスの背後で糸を引き、財を吸い上げていた真の『寄生虫』がいます」 ロランの瞳が、無機質な光を放つ。 「僕の兄――カイン・フォン・アシュベルです」
その名を聞いた瞬間、アルベルトは息を呑んだ。 ロランは懐から、もう一束の書類を取り出す。それはダリウスの不正よりもさらに深く、王国の根幹を蝕むカインの悪行の記録だった。
「兄は、アシュベル家の権力を傘に、ダリウスを操っていました。……このまま野放しにすれば、王国は内側から腐り落ちます」 「……」 「だから、アルベルト様。兄を――カインを、断罪しなければなりません」
アルベルトは沈黙した。 ロランにとってカインは血を分けた兄だ。それを自らの手で地獄へ突き落とそうというのか。 だが、ロランの横顔に迷いは微塵もない。
「……わかった。やろう」 アルベルトの瞳に、王としての冷徹な覚悟が宿る。 「君の家族だ。だが、今の僕は……君の意志と、王国の未来を信じる」
「ありがとうございます」
ロランは微笑もうとした。 だが、その表情はやはり、壊れた時計の針のように不自然に歪んでいた。 それを見たアルベルトの胸に、鋭い痛みが走る。
(ロラン……君は、一体どれだけの心を削ってしまったんだ……)
その問いに、ロランが答えることはなかった。
―――
同じ頃、カイン・フォン・アシュベルは自邸で狂乱していた。
「くそ! ダリウスの無能めが! あれほど証拠は消せと言ったのに!」
机の上の調度品を叩き伏せ、カインは荒い息を吐く。 執事が青ざめた顔で報告を続ける。 「だ、旦那様……あの書類には、旦那様の直筆の署名も含まれていたとの噂が……」
「わかっている! そんなことは、百も承知だ!」
カインの額から、嫌な汗が止まらない。 昨夜の晩餐会。あの壁に貼られた紙面を見た瞬間、自分の心臓が凍りつく音がした。
「父上に……アーサー公爵に連絡を! 父上なら、こんな不祥事、力ずくでもみ消せるはずだ!」
カインは必死に縋ろうとしていた。自分を見捨てたはずの「力」に。 だが、彼は気づいていない。 屋敷の影、日の光さえ届かない場所から、鋭い殺気が自分を見張っていることに。
「……カイン・フォン・アシュベル。お前の運命は、もう確定している」
影爪が、闇の中で静かに呟く。 その報告は、即座にロランへと共有された。
地下水道。 ロランの脳内では、未だかつてない速度で「演算」が実行されていた。
脳内温度が急上昇する。 装着した冷却冠が悲鳴のような駆動音を上げ、冷気を送り込むが、それでも追いつかない。
(もう少しだ……。この一手で、すべてを終わらせる……)
視界を青いグリッドが埋め尽くす。 『タクティカル・ビュー』の強制起動。
【カイン・フォン・アシュベル――王宮への逃走確率 93.2%】 【父アーサーによる救済確率 10.3%(下方修正中)】 【民衆の暴動発生確率 99.1%】
数式が、残酷な結論を導き出す。 カインに、もう逃げ場はない。
「っ……あ……!」 激しい頭痛がロランを襲う。
【警告:脳内温度 38.7℃。これ以上の演算継続は脳細胞に不可逆な損傷を与える恐れがあります】
「……主様!」 異変に気づいたリーナが、慌ててロランの体を支えた。 視界から青い文字が消え、再び灰色の世界が戻ってくる。
「大丈夫、です……。少し、熱を持っただけだ」 「全然大丈夫じゃない! すごく熱いよ……!」
リーナの手の温もり。 それだけが、オーバーヒートしかけたロランの意識を、現実へと繋ぎ止めるアンカーだった。
その日の午後。 王宮前の広場は、一万人を超える民衆の怒りに包まれていた。
「ダリウスを処刑しろ!」 「アシュベルの寄生虫を許すな!」
地の底から響くような怒号。 ロランは地下水道の出口から、その「灰色の津波」を静かに見つめていた。 色彩はなくても、空気を震わせる憎悪の波動は、肌に刺さるほどに生々しい。
「計画通りです……。民の怒りは、もはや誰にも止められない」 「……すごい人数だ。ロラン、これが君の見た景色なのか?」 アルベルトが、隣で震える声を出す。
「ですが、ロラン。カインは君の兄だ。本当に……これでいいのか?」
ロランは、しばしの沈黙の後、淡々と答えた。 「兄は僕を無能と蔑み、死地へ追いやった。……それだけのことです」
「……」 「僕の中に、彼に対する感情はもう残っていません。ただ、排除すべき不純物である。それだけです」
ロランの声には、憎しみすらも宿っていなかった。 それが、何よりも恐ろしかった。 アルベルトがロランの手を握る。……その手は、真冬の死体のように冷え切っていた。
「……あ、あれを見ろ!」
群衆の声が一段と高まる。 王宮の入り口に、カイン・フォン・アシュベルが現れた。
「違う! 私は嵌められたんだ! あの書類は偽物だ!」 必死に叫ぶカインだったが、その声は民衆の罵声にかき消される。
「嘘つき!」 「証拠は上がってるんだよ!」
カインは、救いを求めるように王宮の奥を見た。 「父上! アーサー公爵! 助けてください!」
だが――。 王宮の深淵から、重力魔法使いアーサーが現れることはなかった。 無能な敗者に、最強の公爵が割く時間は、一秒たりとも残されていない。
「カイン・フォン・アシュベル。反逆および横領の容疑で拘束する」
王国軍の兵士たちが、カインの腕を掴む。 「離せ! 私は貴族だぞ! アシュベル家の次期当主だぞ……っ!」
惨めな悲鳴を上げながら、カインは引きずられていく。 民衆からは、地を揺らすような歓声が上がった。
ロランはその光景を、ただじっと見つめていた。 目的の達成。 兄の破滅。 本来なら込み上げるはずの、復讐の達成感さえ――今のロランには、理解できない「遠い国の概念」だった。
(感情が……消えたな)
憎むことすら、もうできない。 ただ、演算の結果として不確定要素を排除した。それだけ。 その事実が、ロランの胸に、かつてない虚無を刻んだ。
―――
夜。 地下水道の隠れ家で、ロランはガルドの作ったスープを口に運んでいた。
立ち上る湯気。 だが、香りは一切しない。
一口、飲む。 ……味が、しない。
以前、ガルドが作ってくれたあのスープは、もっと喉の奥に染みるような旨味があったはずだ。 だが今は、ただの「熱い無味の液体」が胃に落ちていくだけ。
(……味覚も、完全に消失したか)
ロランは、静かにスプーンを置いた。 砂を噛むような勝利の味。 代償は、確実に彼の人間性を食いつぶしている。
だが――。 「主様……スープ、温かいうちに飲んでね」
リーナが、そっと背中に手を添える。 その一点から伝わる熱だけが、ロランがまだ「死んでいない」ことを証明していた。
(もう少し……あと少しだ)
ロランは自分に言い聞かせるように、再びスプーンを手に取った。 灰色の世界で、一人きりの救世主は、次の戦場を見据えていた。




