第43話:灰色の舞踏会
晩餐会、当日。
朝の鉄黒城――。 カインは、父アーサーの執務室へと呼び出されていた。
「期限は、今日だったな」
アーサーの声が、冷たく、重く響く。 カインは膝をつき、壊れた人形のように震えながら頭を下げた。
「父上……申し訳、ございません……」 「金貨三千枚。用意できたのか?」 「……それが……」
カインは、肺に残った空気をすべて絞り出すように言った。 「金貨……五百枚しか……」
刹那、執務室の空気が一変した。 物理的な質量を伴った「重圧」が、部屋全体を支配する。 アーサーの重力魔法だ。
「ぐっ、あ……っ!」
カインの体が、逃れようのない力で床に叩きつけられる。 肺が圧迫され、呼吸すらままならない。
「五百枚……?」
アーサーが、ゆっくりと立ち上がった。 一歩。彼が踏み出すたびに、重力はさらに増し、床にひび割れが走る。
「うっ……父、上……っ!」 「貴様は、アシュベルの資産、三千枚を失った」
アーサーの瞳には、怒りすら宿っていない。 そこにあるのは、ただ無機質な切り捨ての意思だ。
「そして、たった五百枚しか用意できなかった。……無能が」 「申し訳……ございま……せん……」 「謝罪など不要だ」
アーサーは、泥を掃くような冷徹な視線を息子へ向けた。 「貴様を、本日をもってアシュベル家から勘当する」
「……っ!? ち、父上! お待ちください!」 「去れ」
アーサーが手をかざした瞬間、指向性を伴った重力がカインを弾き飛ばした。 物理的に扉まで押し出され、廊下へと転がり出る。
「二度と、アシュベルの名を名乗るな」
重厚な扉が、無情な音を立てて閉まった。 残されたカインは――底知れぬ絶望の淵へと沈んでいった。
―――
同じ頃。 ゾフィアの工房では、ロランが「準備」を整えていた。
地味な灰色の侍女服。 鏡に映る自分は――やはり、灰色だ。
「……意外と、似合ってるじゃない」 エレンが、満足げに頷いた。 「髪を束ねて、冷却冠も隠したわ。これなら近くで見られない限り、バレない」
「ええ。侍女は風景の一部ですから」 ロランは、鏡の中の自分を見つめる。 色彩を失った視界では、自分の肌も、服も、世界も、すべてが同じ灰色の階調に溶けていた。
「ロラン」 エレンが、ロランの両手を包み込む。 「必ず、無事に戻ってきて」 「約束します、エレンさん」
ロランは微笑もうとした。 だが、頬の動きはやはり歪で、どこか作り物めいている。 感情が、もう筋肉を正しく動かしてくれない。
「主様!」 リーナが、タタタッと駆け寄ってきた。 「これ……持ってて」
渡されたのは、小さな布の端切れ。 かつて、ロランの匂いが染み込んでいたものだ。
「もし迷ったら、これを嗅いで」 「……ありがとう。でも、僕はもう、匂いがわからないんだ」 「私がわかるから!」
リーナの瞳は、真っ直ぐにロランを射抜いた。 「主様がどこにいても、私が絶対に見つける。だから、大丈夫」
ロランは、リーナの頭を撫でた。 嗅覚はなくても、彼女の髪の柔らかさは、まだ手に伝わってくる。
「……助かるよ。行ってくる」
ガルドもまた、無言で小さなパンを差し出した。 「先生、腹が減ったら食え。……生きて帰ってこいよ」 「ええ、ガルドさん」
午後。 ロランは地下水道の連絡路を通り、マリアと合流した。
「ロラン様、準備は整いました」 「お願いします、マリアさん」
案内するマリアの背を追う。 すると、背後の影がゆらりと揺れ、影爪が現れた。
「……行くんだな、雇い主」 「ああ。影爪、僕の背中は任せるよ」 「金貨千五百枚分の仕事だ。死なせやしねえよ」
影爪は短剣を抜き放ち、再び影の中へと溶けていった。
マリアの案内で、裏門から王宮へ。 警備兵はマリアの顔を見ると、欠伸混じりに頷いた。
「いつもの侍女か」 「はい。新人を一人、補充しました」
警備兵はロランを一瞥したが、興味なさそうに視線を外した。 「……行け行け」
透明な存在。 誰も、侍女の顔など覚えてはいない。
王宮の廊下を進む。 ロランの視界には、豪華絢爛なはずの世界が「灰色の地獄」として映っていた。
金色の装飾も、紅の絨毯も、すべてが死んだ色をしている。
(……タクティカル・ビュー、部分起動)
視界の隅に、青い数式が展開される。 扉の向こう、参加人数、約五十名。 警備の周期、逃走経路の最適化――。 世界が数式に変換されるたび、ロランの脳は「効率」へと特化していく。
「ロラン様、あの先が会場です」 マリアが小声で囁いた。 「レオナード団長は東棟の地下牢。地図の通りです」 「わかった。マリアさんは、予定通り会場の攪乱を」
ロランが扉へ向かおうとした、その時。
廊下の先から、心臓を直接握りつぶされるような「圧」が迫ってきた。 重い、あまりにも威圧的な足音。
ロランとマリアは、反射的に壁際へと身を寄せ、深く頭を下げた。
アーサー・フォン・アシュベル。 実の父が、すぐ側を通る。
空気が重い。 重力魔法の余波が、ロランの肩に物理的な重みとしてのしかかる。
(……来る)
一瞬、アーサーの視線が、深く頭を下げた「侍女」に向けられた。 ロランは息を止め、ただの石像になりきる。
……足音は、遠ざかっていった。
父は、何も言わなかった。 彼にとって、魔力なき息子はもはや記憶の彼方であり、目の前の侍女は風景の塵に過ぎない。
「……危なかった」 マリアが、震える声で息を吐く。 「ええ。……ですが、これで証明されました。今の僕は、誰の目にも映らない」
ロランは冷や汗を拭い、会場の扉を見据えた。 影から顔を出した影爪が、呆れたように呟く。
「……あの男、化物だな。あれとやり合う気か?」 「ええ。今日ではありませんが……いつか、必ず」
夕刻。 晩餐会の喧騒が、扉の向こうから漏れ聞こえてくる。
ロランは皿を手に取り、群衆の中へと紛れ込んだ。 鼻をつくはずの料理の匂いも、むせ返るような香水の香りも、今の彼には一切届かない。
ただ、この皿の重み。 そして、仲間に託された「想い」の熱だけが、彼を支えていた。
(……始まる)
大広間の扉が開く。 主催者、大臣ダリウスが、肥満体を揺らして現れた。
「皆様! よくぞ参られた!」
灰色の世界で、傲慢な笑い声が響く。 ロランは会場の隅に立ち、静かに、その時を待った。
救済と断罪の幕が、今、上がる。




