第39話:黄金の糸
地下水道の湿った空気が、ぴんと張り詰める。
影爪は短剣を構えたまま、獲物を値踏みするようにロランを凝視していた。 リーナもまた、指先に魔力を込め、いつでも飛びかかれるよう膝を沈めている。
だが――ロランだけは、死の淵にあっても驚くほど冷静だった。
「影爪さん。あなたは賞金稼ぎ、あるいは利に聡い傭兵だ」
「そうだ」 影爪の声が、暗がりに低く響く。 「金貨千枚。それがお前の首の値段。裏切る理由はない」
「では、私はその一・五倍を提示しましょう」
ロランの瞳が、真っ直ぐに影爪を捉えた。
「金貨千五百枚。私を捕らえるのではなく、私を『守って』いただきたい」
影爪の眉が、わずかに動いた。 「守る……だと?」
「ええ。私たちが王都で目的を果たす間、黒犬部隊の追撃から私を、そして仲間を護衛してほしい。いわば、二重契約です」
「……正気か? 俺は黒犬部隊の長だ。仲間を売れと言うのか」
「裏切りではありません。より条件の良い『取引』に乗り換えるだけのことです」
ロランは淡々と、事務的に告げた。 「あなたは金が欲しい。私は安全が欲しい。これ以上に簡潔な式はないはずだ」
影爪は沈黙した。 地下水道を流れる水の音だけが、数秒の静寂を埋める。 やがて、影爪はふっと肩の力を抜き、短剣を鞘に収めた。
「……面白い」
男の口元に、愉悦の笑みが浮かぶ。 「だが、どうやって千五百枚もの大金を用意する? 今の貴様は、ただの逃亡者のはずだ」
「今はありません。ですが――三日後、あなたの手元に届くよう『演算』しました」
「三日……。いいだろう、乗ったよ」
影爪の体が、足元の闇へ泥のように溶けていく。 「お前は面白い。そのハッタリ、最後まで突き通してみせろ」
気配が完全に消えた。 リーナがようやく短剣を下ろすが、その顔には不安が隠せない。
「主様、本当に大丈夫……?」
「ええ。何とか『時間』は買えました。……さて、次は『資金』を調達しましょう」
翌朝。 ロランはエレンを呼び、王都の心臓部を突くためのデータを求めた。
「エレンさん。カイン・フォン・アシュベルの個人資産について、詳細を」
「カイン様の……?」 エレンは驚きに目を見開く。「お兄様の財布を狙うのですか?」
「ええ。彼は王都の『三大商会』に莫大な投資を行っている。その生命線を、三日で断ち切ります」
数時間後、エレンが持参した資料は、カインの「慢心」を如実に物語っていた。
一つ、高級織物の『ゴールドリーフ商会』。 二つ、宝飾品製造の『シルバーウイング商会』。 三つ、新鋭魔導具の『クリムゾンフレイム商会』。
「カインの投資額は、金貨換算で約三千枚。……そしてここが急所です」
ロランは資料の一点を指差した。 「この三社、すべてが王都中央銀行からの『短期融資』で首が回らなくなっている」
「その通りです。季節ごとの仕入れに、莫大な運転資金を必要とする商売ですから」
「……ならば、その『信用』を内部から腐らせましょう」
ロランは、タクティカル・ビューを部分起動させた。 視界が青く染まり、商会の帳簿データが空中へ展開されていく。 流動資産、負債比率、不渡りの確率――。
「デマを流します。……いえ、半分は真実を混ぜた『毒』を」
ロランの指が、チェスの駒を動かすように地図をなぞる。
「ゴールドリーフの織物に有毒染料の疑い。シルバーウイングの宝石に贋作の混入。クリムゾンフレイムの魔導具による爆発事故。……サイラス。街のネズミたちを使い、この噂を『貴族の社交場』から順に広めてください」
「承知いたしました。……お手の物です」
影の中から、サイラスの冷淡な声が応えた。
作戦は、面白いほどに「演算」通りに進んだ。
噂は下層から上層へ、まるで疫病のように駆け巡った。 一度「疑念」という種が植えられれば、大衆は自らそれを育て、肥大化させる。
二日目には商会の前に怒号が飛び交い、三日目には中央銀行が融資の回収を宣言した。 信用の崩壊。 カインが投じた金貨三千枚は、文字通り「紙屑」へと変わった。
その夜。 カイン・フォン・アシュベルは、自室で頭を抱え、絶叫していた。
「なぜだ! なぜこんな、あり得ないことが同時に起きる!?」
父から預かった軍資金。それが、一夜にして消失した。 弟を「無能」と見下していた彼は、まだ気づいていない。 自分を破滅させたのが、魔力も持たぬ「鼠」の仕業であることを。
同じ頃。ゾフィアの工房。 エレンが、誇らしげに羊皮紙を広げた。
「商会の資産、安値ですべて買い叩けました。換算して金貨二千枚相当です」
「十分です。そこから影爪へ千五百枚を。これで私たちの背後は守られます」
ロランは短く答え、椅子に深く身を沈めた。 ……頭が、焼けるように熱い。 タクティカル・ビューの酷使が、限界を超えようとしていた。
「ロラン、顔色が悪いわ。少し休みなさい」
「ええ……。少し、横になります」
リーナが差し出したコップの水を、ロランは一口飲んだ。 ……冷たい。 氷のように冷えた感覚だけが、喉を通っていく。
だが。 水の清涼感も、喉を潤す喜びも、そこにはなかった。 味覚。 その最後の残滓さえ、今の演算で削り落とされてしまった。
(ああ……水が、ただの『冷たい液体』になった……)
「主様、ごはん。チーズ、食べる……?」
リーナが差し出した食事を、ロランは黙って受け取った。 噛み締めても、そこにあるのは「固形物」という質感だけ。 香ばしさも、コクも、もはや遠い記憶の中だけのものだ。
「……味、わかる?」
リーナの震える声。 彼女の鋭い五感は、主の異変を正確に捉えていた。
「……いいえ」 ロランは正直に、だが優しく答えた。 「もう、何も感じません。ですが――」
ロランは、リーナの小さな手を握った。 味も色もない世界。 それでも、手のひらから伝わるこの「温もり」だけは、確かに数式を超えて届いている。
「この温かさだけは、まだ、覚えています」
「主様……」
リーナが、ロランの腕にしがみついた。 失われていく感覚。 削られていく命。 それでも、軍師の瞳は、灰色の世界の向こう側にある「勝利」だけを、冷徹に見据えていた。




