閑話:銀の記憶 ――リーナ・過去編――
夜。 王都下層、薄暗い宿の一室。 リーナは窓辺に腰掛け、夜の静寂に身を浸していた。
窓の外を見つめるその瞳は、何かを探すように、あるいは慈しむように、夜空の一点を見つめている。
空には、満月。 冷たくも優しい銀の光が、王都の汚れを覆い隠すように降り注いでいた。
「……きれい」
リーナは小さく呟く。 銀狼族の象徴とも言える銀色の髪が、月光に透けて淡く輝いた。 その光に導かれるように、彼女の意識は、遠い、遠い日の記憶へと引き戻されていく。
それは、もう二度と戻れない、銀色の世界の記憶。
リーナがまだ幼かった頃。 彼女は獣人自治区のさらに奥、切り立った崖の狭間に築かれた「グレイウルフの里」で暮らしていた。
人間たちの迫害から逃れ、同胞たちが寄り添って生きる隠れ里。 そこには百人ほどの家族がいて、皆が穏やかに笑っていた。
父、グレン。 村一番の狩人で、誰よりも鼻が利き、そして誰よりも温かい手を持っていた。
母、セレナ。 美しい銀髪をなびかせ、薬草を煎じるその指先は、いつも優しくリーナの頬を撫でてくれた。
「リーナ、こっちへおいで」
父の声が、深い森のさざめきに混じって響く。 幼いリーナは、尻尾を弾ませて駆け寄った。 狼の耳が、喜びでぴょこんと跳ねる。
「父様、どうしたの?」
「見てごらん」
父が指差したのは、古い大樹の根元だった。 そこには、透き通るような青い花がひっそりと咲いている。
「きれい……。この花、なあに?」
「月花というんだ。満月の夜にだけ咲く、特別な花さ」
父は膝をつき、リーナと目線を合わせた。
「いいかい、リーナ。この花の匂いを、鼻の奥に刻んでおくんだ。こいつは『危険』を教えてくれる」
「におい……?」
「ああ。この花は、邪悪なものが近づくと匂いを変える。……リーナなら、すぐにわかるようになる。お前は里の誰よりも、優れた嗅覚を持っているからね」
リーナは花に顔を寄せ、深く、息を吸い込んだ。 甘く、どこか懐かしい、優しい香り。 それが、リーナにとっての「平和」の匂いだった。
「父様。リーナ、もっと強くなる。父様みたいに」
「はは、頼もしいな。だがリーナ」
父の微笑みに、わずかな翳が差したのを、子供心に覚えている。
「強さだけがすべてじゃない。何よりも大事なのは……生き延びることだ。どんなに泥を啜っても、明日を捕まえる。わかったかい?」
「……うん、わかった」
その意味を、当時のリーナは理解できなかった。 ただ、父との約束が嬉しくて、無邪気に頷いただけだった。
その夜の里は、満月の祭りに沸いていた。 焚き火が爆ぜ、歌声が響く。 母の腕の中でまどろみながら、リーナは確信していた。 この幸せが、永遠に続くのだと。
だが――。 幸福とは、脆い硝子の細工に過ぎなかった。
三日後の、夜明け前。 里を包んだのは、甘い花の香りではなく、鼻を突く「鉄と油」の匂い。
「――敵襲ッ! 人間の兵士だ!」
見張りの悲鳴が、平和な眠りを切り裂いた。 リーナは、跳ね起きた。 外からは怒号、そして、肉を断つ嫌な音が聞こえてくる。
「リーナ、行くぞ!」
父が部屋へ飛び込んできた。その顔は、かつてないほどに険しい。 外に出ると、里は地獄に変わっていた。 王国の兵士たちが、松明を手に獣人を狩っている。 剣で貫き、網で捕らえ、抵抗する者を容赦なく蹂躙していく。
「奴隷狩りだ……!」
誰かの絶望的な叫び。
「セレナ! リーナを連れて裏から逃げろ! 俺が食い止める!」
「でも、あなたは……!」
「いいから行け! リーナを……俺たちの宝を、頼む!」
父が抜剣し、兵士の群れへと突っ込んでいく。 それが、リーナが見た父の最後の背中だった。
母は震える手でリーナを抱きかかえ、死に物狂いで森を駆けた。 だが、追っ手は逃がしてくれない。
「逃がさねえよ、高価な仔狼ちゃんが!」
立ち塞がる兵士たち。母はリーナを背後に隠した。
「リーナ、聞きなさい。お母様が合図したら、後ろを向かずに走りなさい。森の奥の洞窟に隠れるのよ」
「母様も一緒に……!」
「私は――あなたを、守る。約束よ、生き延びて!」
母が叫ぶと同時に、兵士に向かって躍り出た。 牙を剥き、爪を立て、己の身を盾にして。
「今よ! 走ってッ!!」
「……母様っ!!」
リーナは、走った。 背後で聞こえる母の悲鳴を、耳を塞ぎたくなるような衝撃音を、すべて置き去りにして。 足に刺さる茨も、顔を打つ枝も感じなかった。 ただ、父と母の言葉だけが、呪文のように頭の中で繰り返されていた。
『生き延びるんだ』
洞窟の奥深くで、リーナは一人、膝を抱えて震えていた。 外の騒がしさが消え、恐ろしいほどの静寂が森を支配しても、彼女は動けなかった。 嗅覚が告げていた。 父の匂いも、母の匂いも、もうこの森からは消えてしまったことを。
それから三年間。 リーナは、たった一人で「獣」として生きた。
木の実を齧り、川の水を啜り、敵の匂いから逃げ続ける日々。 言葉は、喉の奥に沈んで消えた。 心は、氷のように冷え切っていった。
人間は、敵だ。 人間は、すべてを奪う化け物だ。
そう自分に言い聞かせ、牙を研ぐ毎日。 だが、運命の日。リーナは森の中で「彼」を見つけた。
血を流し、大樹の根元で倒れている一人の青年。
殺そう、と思った。 殺さなければ、殺される。それが森の掟だ。
だが、足を止めたのは「匂い」だった。
これまでの人間とは、決定的に違う。 鼻の奥を焼くような、凄まじい「熱」。 それなのに、どこか深く、底知れない「哀しみ」の香りが混じっている。
リーナは躊躇し、そして気付いた。 彼が倒れている場所には、あの『月花』が咲いていた。 花は――危険を知らせる匂いを、出していなかった。
「……あ」
気付けば、リーナは彼を洞窟へと運んでいた。 三年間、誰にも触れさせなかった自分の聖域。 そこで、懸命に彼を介抱した。なぜかはわからない。 ただ、その「熱い匂い」を消したくないと思った。
三日後。 青年が、ゆっくりと目を開けた。
「……ここは?」
「……ッ」
リーナは威嚇するように身を引いた。 だが、青年は怯えなかった。ただ静かに、リーナを見つめた。
「君が……助けてくれたのか?」
「…………」
「ありがとう。君のおかげで、僕はまだ、死なずに済んだようだ」
青年が、ふっと微笑んだ。 その瞬間。 リーナの三年間凍りついていた心が、春の陽だまりに触れたように、溶け出した。
「……なまえ」
掠れた声。 久しぶりに使う人間の言葉は、ひどく不格好だった。
「君の、なまえ……」
「ああ、失礼したね。僕はロラン。ロラン・フォン・アシュベルというんだ」
「ロラン……」
「君は?」
「……リーナ」
「リーナか。いい名前だ。……本当に、ありがとう」
ロランは、大きな手でリーナの頭を撫でた。 その手は、父のものとは違ったけれど、同じくらい温かかった。
その時、リーナは決めたのだ。 この人を、この熱い匂いのする人を、守り抜こうと。 父と母が自分に繋いでくれた命を、今度はこの人のために使おうと。
「主様」
「……えっ?」
「主様……リーナを、助けた。だから、リーナも、主様を守る。ずっと」
ロランは少し困ったように笑ったが、最後には「よろしく、リーナ」と、彼女の手を握り返してくれた。
それが、リーナにとっての「新しい世界」の始まりだった。
窓を吹き抜ける夜風が、リーナの意識を現在へと連れ戻す。
「主様……」
空の月は、あの日の夜と同じ、銀色の輝きを放っている。 父と母が愛した月。そして、主様と出会った夜の月。
今のロランには、この月の銀色も、月花の青色も、もう見えていないのかもしれない。 彼が代償として失っていく「彩り」を、リーナは知っている。
だから――。
「主様、熱い」
リーナは、胸元に手を当てた。 「でも、リーナが、冷やす」
彼が世界を解析し、その身を焼くのなら。 自分は彼の鼻になり、耳になり、言葉で世界を塗り直そう。
父様、母様。 リーナは約束を守ってるよ。 生き延びて、そして――誰よりも大切な人を、守ってる。
銀色の月が、窓辺の少女を静かに、いつまでも照らし続けていた。




