閑話:金の毒杯 ――アルベルト・王宮編――
夜。 王都下層の隠れ家、その一室。 アルベルトは、窓辺に立ち尽くしていた。
遠く、闇の向こうにそびえる王都上層。 銀の月明かりに照らされた白亜の宮殿は、まるで冷たい墓標のように静まり返っている。 かつて、自分が「家」と呼んでいた場所。 今はもう、戻ることの叶わない――断絶された聖域。
(父上……母上……)
アルベルトは、唇を噛んだ。 視線を落とせば、己の手は微かに震えている。 記憶の澱から、黄金色に輝いていたあの頃の光景が、鮮やかに蘇ってくる。
アルベルトが十二歳の時。 レガリア王国の王宮は、希望そのものだった。 光を反射する黄金の装飾。芳香を放つ庭園。たゆたう優雅な旋律。 そして、何よりも温かな「家族」がそこにあった。
第三王子として生を受けたアルベルトは、兄たちを凌駕する魔力を秘めていた。 特級に届かんとする、一級魔法の才。 誰もが、この少年の未来を確信していた。
「アルベルト。よくできましたね」
母、エリザベス王妃が優しく微笑む。 アルベルトが受け継いだ、輝くような金髪と碧眼。彼女の慈愛は、宮殿の何よりも眩しかった。
「焦ることはありません。大切なのは強さだけではないのよ。優しさと、正しさ。それがあれば、あなたはきっと素晴らしい王になれるわ」
「優しさと、正しさ……」
「ええ。あなたには人を信じ、愛する力がある。それがいつか、この国を救う光になる」
母の言葉を、アルベルトは守り神のように心に刻んだ。 一方、父であるヴィクター三世は、鉄のような厳格さを持つ王だった。
「アルベルト。お前は優しすぎる」
ある日、父は冷徹な眼差しで告げた。
「それは美徳だが、王には時に『冷酷さ』が必要だ。民を守るため、誰かを切り捨てねばならぬ時がある。……お前に、それができるか?」
「……わかりません」
アルベルトは正直に答えた。 人を救うために魔法を学んできた。誰かを捨てるなど、当時の彼には想像もつかなかったのだ。
「それでいい。わからないと言えるのもまた、王の資質だ。時間をかけて、学んでいくがいい」
父の大きな手が、肩に置かれた。 厳格だが公正。国を愛する父を、アルベルトは心から尊敬していた。 自分もいつか、そんな王になりたい。そう願っていた。
だが――その夢は、十五歳の誕生日に血塗られた。
盛大な晩餐会。 祝福の声と音楽が渦巻く中、アルベルトは奇妙な違和感を覚えていた。 列席する貴族たちの笑顔が、どこか貼り付けたような仮面に見える。
そして、兄たち。 長兄エドワードと次兄フィリップの瞳には、かつてないほどの冷気が宿っていた。
「さあ、乾杯しよう。アルベルトの門出を祝して」
父が杯を掲げ、全員がそれに倣う。 アルベルトもまた、深紅のワインが満ちた杯を口にした。 芳醇な香りが鼻を抜け、喉を通った――その、直後。
「――ッ!?」
世界が、爆ぜた。 喉を焼くような、凄まじい激痛。 指先から力が抜け、杯が床に落ちて砕け散る。
「アルベルト!?」
母の悲鳴が遠のいていく。 床に崩れ落ち、霞む視界の中で、アルベルトは見た。
兄・エドワードの口角が、わずかに吊り上がったのを。 そこにあったのは、肉親への情など微塵もない、醜悪なまでの「満足」だった。
(兄上……あなたが……)
その疑念を最後に、アルベルトの意識は深い闇へと沈んだ。
三週間の昏睡。 目覚めたとき、アルベルトの世界は一変していた。
「……あなたのマナ回路が、損傷してしまったの」
泣き崩れる母から告げられたのは、残酷な真実。 毒の後遺症により、膨大な魔力を制御する「弁」が破壊されていた。 魔法を練れば暴走し、己と周囲を焼き尽くす。 かつての天才は、一晩にして「壊れた魔力炉」へと成り果てたのだ。
「そして……父上が下した。あなたの王位継承権を、剥奪すると」
その言葉が、止めを刺した。 長兄たちの関与は、証拠不十分として闇に葬られた。 それどころか兄たちは「弟を心配する良き兄」を演じ、王位から遠ざけられたアルベルトを嘲笑っていた。
(すべては、仕組まれていたんだ)
信頼も、才能も、未来も。 すべてを毒杯の中に溶かされ、アルベルトは王宮を追われた。 「療養」という名の厄介払い。 辺境の地を転々とし、行き着いた先が――あのアイギス砦だった。
そこで、彼は出会った。 魔力を一切持たず、無能と蔑まれていた「零級者」。 ロラン・フォン・アシュベル。
ロランは、絶望の淵にいたアルベルトに、新しい「理」を示してくれた。 魔力がないからこそ、数式で世界をねじ伏せる。 絶望している暇があるなら、勝つための演算をしろ。
「ロラン……君だけは、信じられる」
裏切られ、毒を盛られた自分。 五感を失いながらも、仲間のために脳を焼く彼。 自分たちは似たもの同士なのかもしれない。
(だから、僕は決めたんだ)
窓辺から離れ、アルベルトは鏡に映る自分を見つめる。 その碧眼には、かつての弱々しさはもうない。
「いつか戻るよ、兄上。……でも、それは復讐のためじゃない」
ロランと共に。 この歪んだ国を、根底から書き換えるために。
毒の後遺症はいまだアルベルトを苛んでいる。 だが、暴走するほどの魔力があるのなら、それを「守るための力」に変える術を、軍師が教えてくれるはずだ。
「優しさと、正しさ。……それを捨てずに、僕は強くなる」
月明かりの下、アルベルトは静かに横になった。 明日もまた、過酷な戦いが待っている。 けれど、もう独りではない。
閉じた瞼の裏には、灰色の世界で戦い続ける親友の背中があった。 彼が倒れないよう、自分が盾になる。 それこそが、王冠を捨てたアルベルトの、新しい誇りだった。




