閑話:虹の記憶 ――ロラン・母との日々――
朝、ロランは目を覚ました。 窓から差し込む光が、無機質な部屋を照らし出している。
だが、その光に「色」はなかった。
まばゆい白。沈み込むような灰。そして、底の見えない黒。 色彩の死んだ、コントラストだけの世界。
ロランは、重い体を引きずるようにして起き上がった。 エレンが用意してくれた宿の部屋は、清潔で機能的だ。 しかし、今の彼にとっては、ただの灰色の箱に過ぎない。
(……ああ。そうだった)
ふと、自分の手を見る。 そこにあるのは、血色の通わない、白と黒の濃淡。 かつてはこの手にも、生きた人間らしい、淡い肌の色があったはずだ。 だが――もう二度と、その輝きが戻ることはない。
窓辺に立ち、外の景色を眺める。 王都の喧騒。行き交う人々。流れる雲。 すべてが、古い活動写真(映画)のように色褪せて見えた。
その時――。 記憶の底から、ある情景が浮かび上がった。 遠い、遠い昔。まだ世界が、鮮やかな虹色に満ちていた頃の記憶。
大好きだった母と、共に過ごした日々の断片だ。
ロランが五歳の頃。 アシュベル家の庭園は、季節ごとの花々で溢れていた。 燃えるような赤の薔薇。汚れなき白の百合。太陽を映したような黄の向日葵。
「ロラン、きれいでしょう?」
母、エレナ・フォン・アシュベルが、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。 柔らかな栗色の髪。温かな茶色の瞳。 その微笑みは、幼いロランにとって世界のすべてだった。
「うん! すごくきれい!」
ロランは母の細い指先を追い、目を輝かせた。
「母上、このお花はなんていう色?」
「これは『赤』よ。情熱の色。強くて、美しい色なの」
「じゃあ、あっちの大きいのは?」
「あれは『黄色』。太陽の色ね。見ているだけで、元気が出てくるでしょう?」
「母様は、何色が一番好き?」
ロランの無邪気な問いに、エレナは少しだけ考え込み、それから優しく微笑んだ。
「私は……虹色が好きかしら」
「にじいろ?」
「ええ。赤も、青も、黄色も――すべての色が混じり合って、ひとつに輝く虹。世界にはたくさんの色があって、それぞれに大切な意味があるの。だから、その全部を愛せたら、それが一番素敵だと思わない?」
幼いロランは、母の言葉を噛みしめるように空を仰いだ。 すると、雨上がりの午後の空に、奇跡のような橋が架かっていた。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。 天を裂くように現れた、七色の輝き。
「母上、見て! 虹だよ!」
「まあ……本当に、きれいね」
母と子は、その色が薄れ、空に溶けていくまで、ずっと手を繋いで眺めていた。
「ロラン。世界はこんなにも美しいのよ。だから、あなたもこの世界を、ずっと大切にしてね」
「うん! 僕、この世界が大好きだよ!」
母と一緒にいる、この鮮やかな世界が。 そう答えたロランに、エレナは微笑みを返した。 だが、その瞳の奥には、わずかな「影」が潜んでいたことを、当時のロランは知る由もなかった。
それから二年後。 ロランが七歳を迎えた、運命の日。 アシュベル家の謁見の間で、魔力測定の儀式が行われた。
父、アーサー・フォン・アシュベルが冷徹な眼差しで見下ろし、兄のカインが勝ち誇ったような笑みを浮かべる。 母のエレナだけが、祈るように両手を握りしめていた。
「始めよ」
アーサーの短い命令。 魔導師が差し出した測定石を、ロランが握りしめる。 本来なら、その石は持ち主の魔力に反応し、まばゆい光を放つはずだった。
だが――。 石は、冷たい沈黙を保ったままだった。 光も、熱も、微塵の反応すら示さない。
「……もう一度だ」
アーサーの声が低くなる。 二度目、三度目。異なる測定石が用意されたが、結果はすべて同じだった。
「……零級者。魔力が、全く存在しません」
魔導師の宣告が、静寂を切り裂いた。 貴族社会において、魔力を持たぬ者は「人間」ですらない。
アーサーの顔が、醜く歪んだ。
「……アシュベルの恥め」
その一言が、ロランの心を粉々に砕いた。 カインがここぞとばかりに嘲笑を浴びせる。
「零級者だと? 出来損ないにも程がある。父上、こんなゴミは今すぐ――」
「カイン、黙れ」
アーサーが冷たく息子を制し、ロランを見据えた。
「ロラン・フォン・アシュベル。貴様には、生存のための最低限の価値を証明させる。魔力がないのなら、せめて知識で役に立て。……それすら叶わぬ時は、分かっているな?」
その日から、ロランの世界から「自由」が消えた。 花咲く庭を歩くことは許されず、朝から晩まで地下の書庫に閉じ込められた。 数学、物理、地政学、戦術論。 狂ったような密度の教育が、幼い彼に叩き込まれた。
唯一の救いは、夜に母が運んでくれる温かいミルクだけだった。
「母上……僕、役に立てるかな。魔力がなくても……」
「大丈夫よ。あなたは、誰よりも賢い子。きっと、誰にもできないやり方で、素晴らしい人になれるわ」
「でも、父上は……」
「お父様は、厳しいけれど……あなたのことを、本当は……」
エレナは言葉を濁し、悲しげに微笑んだ。 ロランはその嘘を信じることはできなかったが、母の温もりだけは、信じることができた。
「母上。あの……また、虹を見たいな」
その言葉に、エレナは一瞬だけ驚いた顔をし、それから慈しむように彼の頭を撫でた。
「ええ。いつか、また一緒に見ましょう。約束よ」
だが、その約束が果たされることはなかった。 翌年、母は急死した。 ロランが八歳の、冷え込む冬の日だった。
最期の瞬間、ロランは母の側にいることすら許されなかった。 「葬儀の準備をする暇があるなら、一問でも多く数式を解け」 父の冷酷な命令により、彼は勉強部屋に監禁されていた。
母が亡くなったと聞かされた時、ロランの瞳から涙は出なかった。 感情を殺さなければ、壊れてしまうほどの重圧の中にいたからだ。 だが、その日を境に、彼の心の中から何かが決定的に欠落していった。
現在。 ロランは窓辺で、記憶の虹を見つめていた。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。 脳裏に焼き付いたその色彩は、今も鮮明だ。 だが、現実の視界には、ただの灰色の空が広がっている。 色を失った今、虹を見上げても、それは不気味な灰色の弧に過ぎないだろう。
(母上……)
心の中で呟く。 (僕は今、あなたの愛した世界を、正しく守れているでしょうか)
答えは返ってこない。ただ、風の音だけが部屋に響く。 そこへ、ドアをノックする音が重なった。
「ロラン、起きてるかい?」
アルベルトの声だ。
「ええ。おはようございます、アルベルト」
振り返ると、親友が柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
「おはよう。今日はいい天気だね。空が抜けるように青い」
「……そうですね。きっと、美しい空なのでしょう」
ロランは、もう見ることのできない「青」を想像する。
「ロラン。何か考え事か?」
「いえ……少し、母と虹を見た日のことを思い出していました」
「虹、か……」
アルベルトが歩み寄り、ロランの肩に手を置いた。 魔力暴走の後遺症に苦しむ彼の手は、どこか、母の温もりに似ていた。
「君の目には、もう見えないのかもしれない。でも――僕が伝えてあげるよ。空の色も、街の輝きも、いつかまた架かる虹の色も。僕が、君の『目』になる」
その言葉に、ロランは目を見開いた。 そして、ふっと、この数年で一番穏やかな笑みを漏らした。
「ありがとうございます。ですが……いいんです。僕には、母が教えてくれた記憶があります」
ロランは再び、灰色の世界を向いた。 そこには、自分にしか見えない色が、確かに存在していた。
赤い薔薇。 黄色い向日葵。 そして、天を彩る七色の虹。
網膜からは消えても、魂に刻まれた色彩は、何者にも奪えない。
(母上。約束します)
ロランは、静かに拳を握った。
(僕は、この世界を守ります。あなたが愛した、彩りに満ちたこの世界を。たとえ、僕の視界が永遠に闇に閉ざされることになろうとも――)
朝の光が、モノクロの部屋に降り注ぐ。 その光の中で、軍師は再び、戦うための数式を脳内に展開し始めた。
失われた虹を、その胸に抱いたまま。




