第32話:灰色の王都
ヴァルターとの死闘から、一日。 アシュベル独立連隊は、王都へと続く最後の街道を南下していた。
そして――。 緩やかな丘を越えたその先に、巨大な石造りの威容、王都ルミナスが姿を現した。
「あれが……王都……」
アルベルトが、あえぐように呟いた。 その声には、故郷を追われた王子の万感の思いが込められている。
ロランもまた、馬を止めて都を見つめた。 だが、その瞳に映るのは、かつての記憶にある輝きではない。
白亜の尖塔。雲を突く空中庭園。浮遊石の淡い青光――。 かつて色彩の暴力とも言えるほど華やかだった都は、今のロランにとっては、死んだ石の街でしかなかった。
空の青も、庭園の緑も、すべてが灰色。 濃淡の差異だけが、かろうじてその形を定義している。
(これが……僕の生まれた場所か)
胸を突くのは、懐かしさではなく底知れない空虚だった。 五感が死んでいく。 世界から美しさが、温もりが、砂が零れるように失われていく。
「ロラン」
アルベルトが馬を寄せてくる。
「どうだい? 久しぶりの王都は」 「……ええ。変わりませんね」
嘘をついた。 王都は変わっていない。変わってしまったのは、自分だ。 花の香りも、風の色彩も、今の自分には届かない。
「主様」
斥候から戻ったリーナが、ロランの顔をじっと覗き込んだ。
「……悲しいの?」
その言葉に、ロランは微かに目を見開いた。 リーナはいつも、ロランが隠そうとする感情の揺らぎを、剥き出しの感性で拾い上げる。
「……少し、ね。昔の王都は、もっと綺麗だったから」 「今も、綺麗だよ」
リーナは、灰色の空を指差して静かに告げた。
「真っ白な建物。抜けるような青い空。燃えるような緑の木」 「……主様に、これを見せてあげたい」
不意に、視界が滲んだ。 リーナは、僕の失われた感性を、言葉で塗り直そうとしてくれている。 味を、匂いを。そして、今はこの「世界」そのものを。
「ありがとう、リーナ」
ロランはリーナの頭を撫でた。 少女は嬉しそうに、けれどどこか切なげに、その温もりを受け入れた。
*
独立連隊は、再び進軍を開始した。 都が近づくにつれ、ロランの脳裏にルミナスの「構造」が浮かび上がる。
王都ルミナスは、峻厳な三層構造を成している。
上層――王宮と空中庭園が鎮座する、選ばれた貴族たちの街。 中層――商業区と兵舎が混在する、一般市民の街。 下層――「影の街」と呼ばれる、巨大なスラム。
魔力を持つ者は上へ、持たぬ者は下へ。 ここは、この国の歪な階級制度そのものを形にした都だ。
ロランはかつて、最上層にいた。アシュベル家の次男として。 だが、魔力がないという一点だけで、この都から叩き出された。
(今、僕はどこに属しているのだろう)
自分に問いかける。 貴族でもなく、平民でもない。ただの『零級者』。 だが、後ろを振り返れば、百名を超える兵士たちがいた。
彼らは「無能」と蔑まれた僕を信じ、命を預けてここまで来た。 もはや、自分は一人ではない。
*
夕暮れ時。 連隊は王都の門前、最後の宿場町に野営を張った。 ガルドが作った肉のスープを、ロランは無表情で受け取った。
温かい湯気が立ち上る。だが、香りは届かない。 一口飲む。 温かさはわかる。だが、味は――無機質な水と変わらない。
「主様」
リーナが隣に座り、囁く。
「お肉、柔らかいよ。お野菜は、とっても甘い。……お日様の匂いがする、優しい味」
ロランはリーナの声に導かれるように、スープを飲み下した。 味覚は死んでも、仲間の優しさという熱量だけは、確かに心に蓄積されていく。
食後、ロランは一人で宿の外に出た。 見上げる夜空には、灰色の闇に散らばる「白い点」が瞬いている。 それが、今のロランが見ることのできる星空の限界だった。
「ロラン、準備はよろしいですか?」
夜風を纏って、エレンが現れた。
「ええ」 「あなたの父、アーサー公爵が待っていますわ」
「わかっています。父と決着をつける……。それが、僕がここに戻ってきた唯一の理由です」
エレンは、ロランの冷徹なまでに研ぎ澄まされた横顔を見つめた。
「あなたは強い人ですね。色彩を失い、味覚を失い……。それでも一度も足を止めない」
ロランは答えなかった。 絶望がないわけではない。ただ、立ち止まってしまえば、この仲間たちの期待に、王子の夢に、顔向けができない。
「明日、何が起きるかわかりませんが……」 「やめてください、ロラン」
エレンが鋭い声で遮った。
「弱気な台詞は、あなたらしくありません。あなたは必ず勝ちますわ」 「……」 「そして、アルベルト様を王にする。私はそれを信じて全財産を賭けていますの。損はさせないでくださいね?」
「……わかりました。勝ちましょう」
*
翌朝。 王都ルミナスの巨大な門の前に、独立連隊が布陣した。 兵士たちの顔には緊張が走っている。だが、そこには恐怖ではなく、一兵卒としての誇りがあった。
ロランが前に出た。 抜いた剣が、灰色の光を反射する。
「皆、聞いてほしい」
静かな声が、軍勢に響き渡る。
「これから僕たちは、王都へ入る。そこには王国最強の魔法使い、アーサー・フォン・アシュベルがいる」
兵士たちが息を呑む。 大陸全土にその武名を轟かせる、絶対的な「重力の王」。
「ですが、恐れる必要はありません。物理法則は魔法を超えます。数式は権力を粉砕します」
ロランの瞳が、青い演算の光を帯びる。
「そして――僕たちには絆があります。一人では届かない領域へ、僕たちはこの集団の力で到達する」
「「「おおおおおッ!!!」」」
ハンスが吠え、兵士たちが剣を掲げた。 アルベルトも一歩前に出、ロランの隣に立つ。
「僕も、ロランと共に戦う。この国の歴史を、今日、塗り替えるために」
王子の言葉が、兵士たちの士気を極限まで引き上げた。
ロランは前を見据えた。 灰色の都。その最深部に、父がいる。
決着の時だ。 独立連隊は、地鳴りのような足音を立て、運命の王都へと踏み出した。




