第3話:覚醒の代償
――カン、カン、カン、カンッ!
夜明けの静寂を切り裂き、高く鋭い警鐘が鳴り響いた。 砦全体を震わせるその金属音は、死の訪れを告げる合図だ。
「敵襲ッ! 帝国軍だ! 帝国軍が来たぞ!」
見張り台からの悲鳴に近い叫びが、眠っていた兵士たちを叩き起こす。 ロランは既に起きていた。 昨夜から一睡もせず、砦の構造と周辺の地形データを脳内で精査し続けていたのだ。
「全員、配置につけ! 盾を構えて城壁へ上がれッ!」
ハンスの怒号が響き渡る。 新兵たちはパニックに陥りながらも、支給されたばかりの古びた装備を掴み、階段を駆け上がっていった。
城壁の上。 そこから見える光景は、まさに絶望だった。
北の平原を、黒い波が埋め尽くしている。 バルムンク帝国軍――その数、少なくとも三千。
陽光を反射する鋼鉄の鎧。 統制の取れた不気味な足音。 そして軍の中央には、禍々しい巨躯を横たえる攻城兵器があった。
魔導砲。 膨大なマナを圧縮し、一撃で城門をも粉砕する帝国の主力兵器だ。
対するアイギス砦の守備兵は、わずか五百。 その大半が、戦う前から膝を震わせている老兵か、剣の握り方すら怪しい新兵だった。
「終わった……」 隣にいた若い兵士が、ガチガチと歯を鳴らしながら呟く。 「あんな数、勝てるわけがない。ここは…… 墓場だ……」
「黙れ! 持ち場を離れるな!」 ハンスが叱り飛ばすが、その横顔には隠しきれない諦念が張り付いていた。
城壁には、アルベルトの姿もあった。 剣の柄を握りしめ、敵軍を凝視している。 その碧い瞳にあるのは恐怖ではない。 自らの運命を呪うような、深い悲しみだった。
「全軍、突撃準備ッ!」
砦の中央から、場にそぐわない高慢な声が響いた。 ギルマー男爵だ。 彼はあろうことか、城門を開けさせようとしていた。
「門を開けい! 全兵をもって突撃する! 帝国の小僧どもを蹴散らしてやるのだ!」
狂気の沙汰だった。 圧倒的な数的不利。 防御に徹しても厳しい状況で、守りを捨てて平原へ打って出るなど、自殺志願者のすることだ。
「待ってください、男爵! 正気ですか!?」 ハンスが身を乗り出して叫ぶ。 「あんな大軍に突撃したら、それこそ一瞬で全滅します!」
「黙れ、下賤の者が!」 ギルマーはハンスを汚物を見るような目で見据えた。 「貴様らは私の命令に従えばいいのだ! 死ぬのが怖いのか? 臆病者め!」
ギルマーの瞳に、戦術の輝きなど微塵もない。 あるのは浅ましい功名心。 …… いや、それだけではない。
(…… なるほど。 囮か)
ロランは、ギルマーの真意を即座に演算した。 兵士たちを城外に放り出し、肉の壁として時間を稼がせる。 その混乱に乗じて、自分だけは後方の安全なルートから逃げ出す算段だ。
「ふざけるな」
ロランの口から、冷たい言葉が漏れた。 周囲の視線が、一斉に彼へと集まる。
「――お前たちを、こんな無能の保身のために死なせるわけにはいかない」
その声は静かだったが、不思議なほどに周囲の喧騒を鎮めた。
「誰だ、貴様はッ!?」 ギルマーが顔を真っ赤にして怒鳴る。
だが、ロランは答えなかった。 代わりに――彼の世界が、変容した。
視界が青い光に満たされる。 あらゆる物体に、膨大な数式とグリッドが浮かび上がった。
城壁の質量。 石材の密度。 敵の進軍速度。 風向き、気温、湿度、マナの揺らぎ――。 数万のデータが、光速でロランの脳内を駆け抜ける。
――タクティカル・ビュー。 覚醒。
「…… 見える」
ロランが呟く。 もはや、そこにあるのは戦場ではない。 解くべき数式に満ちた盤面だ。
敵軍の隊列、魔導砲の充填速度、城壁の構造的欠陥。 そして――勝利への唯一の細い糸。
脳内で無数の「未来」がシミュレートされていく。
ギルマーの命令に従った場合:生存率 0.2%。 城壁で漫然と防衛戦を続けた場合:三時間後の突破率 87.3%。
だが――この条件を揃えれば。
「ハンスさん」 ロランは、驚くほど冷静な声で告げた。 「門は絶対に開けないでください。代わりに、城壁の『北東の角』に全兵力を集中させて」
「…… あ、あそこか? だが何のために――」
「魔導砲が発射される瞬間…… 全員、その場に伏せてください。 それだけでいい」
「何を――」
「信じてください」
ロランの瞳が、ハンスを射抜いた。 その目には、未来を確定させた者だけが持つ、絶対的な確信が宿っていた。
「…… ッ、野郎ども! 北東城壁へ移動だ! 急げッ!」 ハンスは吼えた。 長年の戦場で培われた勘が、この青年の言葉に従えと命じていた。
「貴様ら、命令違反だぞ! 処刑だ、処刑してやる!」 ギルマーが泡を吹いて喚き散らすが、もう誰も聞きはしない。
その時、帝国軍の魔導砲が眩い光を放ち始めた。 砲口に巨大なエネルギーの球体が形成される。
ロランの視界には、その死の軌道が一本の青い線として描かれていた。
発射角度:45.2度。 着弾予定地点――城壁の中央。 まさに、今もなお喚き続けているギルマー男爵の真上。
「三…… 二…… 一。 伏せろッ!」
ロランの叫びと同時に、世界が白く染まった。
ドォォォォォォン!
大地を揺るがす轟音。 魔導砲の直撃を受け、城壁の中央部が爆発と共に霧散した。
砕け散った石材が雨のように降り注ぎ、黒煙が天を覆う。 先ほどまでギルマーが立っていた場所は、跡形もなく消滅していた。
「男爵が…… 消えた……」 誰かが呆然と呟く。 だが、ロランに感傷に浸る暇など与えるつもりはなかった。
「まだ終わりじゃない。敵の第二波が来る。 全員、弓を構えろ」
脳内の演算は既に次を導き出している。 城壁が崩れたのを見て、帝国軍は「好機」と判断する。 必ず、あの破壊口に戦力を集中させ、一気に雪崩れ込んでくる。
そこが――計算された死地だ。
「破壊口へ敵が殺到したら、左右から矢を放て。密集したところを狙うんだ」
「だがロラン、俺たちの弓じゃ帝国の鎧は抜けないぞ!」
「鎧は狙わなくていい。……『足』を狙ってください」
ロランは冷徹に言い放った。
「足を撃たれた兵士が倒れれば、後続が転ぶ。この狭い破壊口なら、すぐに将棋倒しになる。 そこへさらに撃ち込み、肉の壁を作るんです」
予測通り、帝国軍の歩兵部隊が歓声を上げて破壊口へと殺到した。 兵士たちが一斉に矢を放つ。
次々と、帝国兵の足元に矢が突き刺さった。 悲鳴が上がり、最前列が崩れる。 勢いをつけていた後続が、回避できずに重なり合って転倒していく。
破壊口は、瞬く間に「生きた肉の山」によって塞がれた。
「…… すげえ。 本当に、止まりやがった……」 ハンスが戦慄したように声を漏らす。
だが、ロランの額からは、異常なまでの汗が吹き出していた。 頭が、熱い。 脳が物理的に発熱し、視界の端がチカチカと明滅する。
これが、タクティカル・ビューの代償――過負荷。
帝国軍は予想外の被害と混乱に陥り、一時撤退を余儀なくされた。 砦の兵士たちは、血の臭いと砂埃の中で、一人の青年を見つめていた。
「お前…… 一体、何者なんだ」 ハンスが、畏怖を込めて尋ねる。 「魔法も使わず…… どうしてこれほどのことが……」
「計算しただけです」 ロランは荒い息を整えながら、熱を持った額を拭った。 「物理的な法則と、確率。そして――無能な人間が取る、もっとも愚かな選択肢。 それを導き出したに過ぎません」
その時、アルベルトが歩み寄ってきた。 「ロラン。君は…… 君の力は、希望だ」
「いえ、まだ終わってはいませんよ」 ロランは北の地平線を、霞む視界で見つめた。 「敵は必ずまた来ます。次は、もっと狡猾に」
自分の視界が、僅かに色を失っている。 この力を使い続ければ、いつか脳が焼き切れる。
だが、ロランは思考を止めた。 今はただ、目の前の「変えられないはずの未来」を、数式でねじ伏せるだけだ。
「ロラン」 アルベルトが、そっと彼の肩を支えた。 「君を、死なせはしない。僕が、君の盾になる」
その言葉に、ロランは何も答えられなかった。 ただ、演算では導き出せない微かな温もりが、熱を帯びた脳を少しだけ冷ましてくれた。




