第26話:灰色の世界で
ゼノスとの死闘から、五日が経過した。
エモンの街は、独立連隊がもたらした奇跡的な勝利に沸き立っていた。
「あの帝国軍を退けたらしいぞ!」 「魔力ゼロの軍師が、最新鋭の魔導外骨格を叩き壊したんだってよ!」
噂は瞬く間に街中を駆け巡り、人々は畏敬を込めてロランをこう呼んだ。 ――『灰色の救世主』と。
だが、その救世主は今、部屋で一人、窓の外を虚ろに見つめていた。
灰色の空。灰色の街並み。行き交う灰色の人々。 すべてが、光を失った無機質な濃淡でしかない。
(これが、僕の世界……)
自分の手を見ても、皮膚の赤みも、血管の青さも、もうわからない。 ただ、そこにある温度だけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる。
コンコン、と静かなノックが響いた。
「ロラン、入ってもいいかな」 「……どうぞ、アルベルト様」
部屋に入ってきたアルベルトは、灰色の髪に灰色の服、灰色の顔をしていた。 ロランには、彼の輝くような金髪も、澄んだ碧眼も、もう見ることができない。
「調子はどうだい?」 「……大丈夫です。問題ありません」 「嘘だね」
アルベルトはロランの隣に腰を下ろした。
「君は、僕にだけは本当のことを話してくれた。……だから、僕の前でまで無理をしないでくれ」
その穏やかな声に、ロランの胸が疼いた。
「ロラン、君は十分すぎるほど頑張ったんだ。色が見えなくても、匂いがわからなくても、味がわからなくても――」 「君は、僕たちの誇り高い軍師だ」
ロランは視線を落とした。 感謝の言葉を口にしようとして、喉が詰まる。 もはや感情の波さえも、この灰色の景色に飲み込まれて鈍くなっているようだった。
「ありがとうございます。……ですが、まだ戦いは終わっていません。王都ルミナスへ行くまでは」 「ああ。いずれは、避けて通れない道だね」
アルベルトは窓の外、遠い空を見据えた。
「でも、今は少しだけ休もう。君が壊れてしまったら、僕は何のために王を目指すのかわからなくなってしまう」
*
夕方。ガルドが温かいスープを運んできた。
「先生、特製スープだぜ! 野菜と肉をこれでもかってくらい煮込んだんだ。食ってくれ!」
差し出された椀。立ち上る湯気。 だが、ロランにはその芳しい匂いが届かない。 一口含んでも、塩味なのか、旨味なのか、それとも甘みなのか――判別がつかなかった。
「どうだ? 美味いか?」 「……ええ。美味しいです、ガルドさん」
期待に満ちたガルドの笑顔に、ロランは精一杯の嘘を返した。 満足そうに笑う巨漢の背中を見送りながら、ロランの心に黒い罪悪感が沈殿していく。
(また、嘘をついた……)
その夜。 音もなく部屋に現れたのは、リーナだった。
「主様」 「リーナ……どうしたんですか、こんな時間に」 「……お話、ある」
椅子に座ったリーナの表情は、かつてないほど真剣だった。
「主様、変わった。匂いも、目の色も、声の震えも」 「……疲れているだけですよ」 「嘘、つかないでッ!」
リーナがロランの手を、痛いほど強く握りしめた。 彼女の瞳には、大粒の涙が溜まっている。
「主様に嘘つかれるの……私、悲しい。すごく、悲しい」 「リーナ……」 「わかるの。主様、本当は苦しんでる。一人で痛がってる。なのに、なんで……なんで、私たちに言ってくれないの?」
絞り出すようなリーナの声。 ロランは長い沈黙の後、ようやく重い口を開いた。
「……心配、させたくなかったんです。みんなに余計な重荷を背負わせたくなくて」 「馬鹿」
リーナが、涙を流しながら言い放った。
「主様が隠すから、私たちはもっと不安になるの。主様が一人でボロボロになるのが、一番……一番、辛いんだから!」
リーナに抱きしめられ、その温もりと震えが、ロランの凍りついた心を溶かしていく。
「ごめんなさい、リーナ……。色彩が、見えなくなりました。匂いも、味も……。これが、代償です」
ようやく吐き出せた真実。 リーナは静かに涙を拭い、顔を上げた。
「主様は、一人じゃない。私がいる。アルベルト様も、みんなもいる。……だから、もう隠さないで」
*
翌朝。エレンに呼び出された執務室には、一通の手紙が置かれていた。
「ロラン、いよいよですわ。王都ルミナスのアーサー公爵――あなたの実父が、正式にあなたの『追討令』を発令しました」
ロランは、その言葉を静かに咀嚼した。 ついに、父が自分を「国家の敵」として指名したのだ。
「つまり、僕は名実ともに反逆者になったわけですね」 「ええ。ですが、これは好機でもあります」
エレンは不敵に微笑み、眼鏡の奥の瞳を光らせた。
「あなたが『絶対的な悪』とされることで、アルベルト様の『正統性』が際立つ。旧態依然とした王国に弓を引く、民衆の希望としての象徴になれるのですわ」
「僕の汚れが、アルベルト様の光になる……。いい戦略です」 「ロラン、あなたはそれで……本当にいいのですか?」
エレンの問いに、ロランは迷わず頷いた。 五感を失い、色彩を失った。ならば、名声などという不確かなものに未練はない。
「僕は、アルベルト様を王にするためにここにいます。自分がどう思われようと、構いません」
*
その日の午後。独立連隊の全員が中庭に集結した。 ロランは、灰色の視界の中に立つ仲間たちの前に進み出る。
「皆さん、聞いてください。……これから、我々は最大の激戦地へ向かいます」
ざわめきが止まる。
「目的地は、王都ルミナス。今までで最も危険で、困難な戦いになるでしょう」
ロランは隣に立つアルベルトに視線を送った。 アルベルトが前に出て、その抜けるような(ロランには見えない)声を響かせる。
「皆に、無理強いはしない。ここで引き返したい者がいれば、私はそれを止めない。……だが!」
アルベルトが剣を掲げた。
「もし、僕と共に戦ってくれるなら――僕は君たちを必ず守る。そして、この腐りきった国を、内側から変えてみせる!」
「「「アルベルト様、万歳ッ!!!」」」
地鳴りのような歓声。 ロランはそれを聞きながら、静かに微笑んだ。
色彩は見えない。味も匂いもわからない。 だが――。 仲間たちの放つ熱気だけは、この灰色の世界を確かに焦がしていた。
(これが、僕たちの答えだ……)
仲間と共に、王都へ。 軍師ロランの、本当の叛逆が今、始まる。




