第18話:数式が示す真実
中央銀行付近での潜入が失敗に終わってから、二日が経過した。
ロランは、エレンの執務室で机にかじりついていた。 広げられた帳簿と計算用紙。そこには狂気じみた密度の数式が書き連ねられている。
「くそっ……」
ロランは、珍しく剥き出しの悪態をついた。 ペンを叩きつけ、髪を掻き乱す。
「何か、決定的な『変数』があるはずなんだ。ボルドーという怪物を、一撃で仕留めるための隙が……」
エレンは、かける言葉を見つけられず、ただ静かにロランを見守っていた。 投資家としての冷静さを保とうとしているが、彼女の瞳にも焦燥の色が混じっている。
「ロラン。少し、休んだらどうですか?」
「休んでいる時間などありません。資金は、あと十二日で尽きる」
ロランは椅子を蹴るようにして立ち上がった。 だが、その瞬間に膝が折れる。
「――っ」
「無理をしすぎです」
エレンが咄嗟に駆け寄り、ロランの額に手を当てた。
「酷い熱……。また、脳がオーバーヒートしているわ」
「……大丈夫です」
ロランはエレンの手を振り払った。 だが、その視界が不自然に揺らぐ。
――まただ。
エレンの鮮やかな赤い髪が、色褪せ、濁った灰色へと変わっていく。 世界から、鮮やかさが奪われていく感覚。
ロランは強く目を閉じ、深く呼吸を繰り返した。 数秒後、ようやく色は戻ったが、心臓の鼓動は早鐘のように打ち鳴らされている。
「ロラン?」
「……少し、外の空気を吸ってきます」
心配するエレンを背に、ロランは逃げるように執務室を飛び出した。
◇
エモンの街は、相変わらず活気に満ちていた。 運河を行き交う小舟、商人たちの怒号のような呼び込み。
ロランは目的もなく、ふらふらと雑踏を歩く。 熱を帯びた脳を冷やすには、この喧騒さえも遠くの波音のように感じられた。
不意に、ロランの足が止まった。 運河沿いにある、一軒の両替商の前だ。
『金貨・紙幣 交換手数料無料キャンペーン中!』
そんな看板の前には、不自然なほどの長蛇の列ができていた。
「おい、本当に金貨に換えてくれるんだろうな?」 「ああ、今のうちに現物を握っておかないと安心できねえよ」
並んでいる人々から漏れる、さざ波のような不安の声。 ロランは、その会話に全神経を集中させた。
「お前、知らないのか? 噂だが……エモン中央銀行の地下金庫は、実はもう空っぽだって話だ」 「まさか、ボルドー様がそんなヘマをするはずが……」 「いいや、最近の発行枚数は異常だ。信用できるかよ、あんな紙切れ!」
脳内で、バラバラだったパズルが凄まじい速度で組み上がっていく。
(そうか……。これだ。これこそが『変数』の正体……!)
ロランは熱さを忘れ、全速力で商会へと引き返した。
◇
「エレンさん! 方法が見つかりました!」
執務室のドアを乱暴に開け、ロランが叫ぶ。
「街の人々は、もう本能的に気づき始めている。エモン紙幣が、ただの『偽りの信用』でしかないことに!」
ロランは地図を広げ、街中にペンで印を打っていく。
「両替商に列ができています。これは、紙幣の価値が暴落する前触れだ」
「でも、まだ決定的な破綻は起きていませんわ。中央銀行の権威は健在よ」
「だから、解析するんです。市場という名の戦場を」
ロランは瞳を青く光らせた。 『タクティカル・ビュー』――全面起動。
ハンスとリーナを呼び、ロランは指示を飛ばす。
「エモン中の両替商を回ってください。金貨と紙幣の『裏の交換比率』。表向きのレートではなく、商人が実際に要求しているリアルな数字を、一刻も早く!」
◇
夕刻。 ハンスたちが持ち帰ったデータが、ロランの脳内で数式へと変換される。
「見てください、エレンさん。これが『真実』です」
ロランが描き出したグラフは、無慈悲な右肩上がりを描いていた。
「北部の商業街では、金貨一枚に対し紙幣十一枚。東部の倉庫街では十二枚、南部では十三枚……。紙幣の価値が、公定レートを無視して日々削られている」
「……この傾向、あまりに早すぎるわ」
「ええ。そして、この傾向から導き出される『Xデー』は――」
ロランの瞳が、冷徹な計算結果を突きつける。
「あと五日。五日後、市中の両替商から金貨の在庫が完全に消滅します」
「在庫が消える……。それが何を意味するか、分かっているの?」
「パニックです。金貨に換えたくても換えられない。そうなれば、紙幣への信用は一晩でゼロになる。エモン全土を巻き込む『取り付け騒ぎ』の発生です」
エレンは、少年の予測に戦慄を覚えた。 目の前の少年は、一滴の血も流さず、この巨大な都市の心臓を止めようとしている。
「ボルドーは言い訳をするでしょう。一時的な混乱だと。……だから、僕たちが止めを刺す(・・・・・・)」
ロランは新しい図面を引き、新たな計画を構築する。 必要な人員、タイミング、そして群衆の心理。 すべてが青いグリッドの中で、精密な歯車のように噛み合っていく。
「五日後、僕たちはかき集めた紙幣を持って、中央銀行の本店へ乗り込みます。そして――目の前で、全額の金貨交換を要求する」
「……ボルドーは拒否するわね。そんな予備の金貨、あそこにはないはずだもの」
「ええ。その『拒否した瞬間』を、エモン中の商人と民衆に見せつける。王者の嘘が剥がれ落ちる、決定的な瞬間を」
エレンは、ロランの恐ろしさに身体を震わせた。 だが、その震えは恐怖だけではない。 目の前の「投資対象」が、世界を塗り替えようとしていることへの、狂おしいほどの期待。
「……やりましょう。ローウェル商会の全権を、あなたに預けるわ」
「ありがとうございます。必ず、彼をゼロにします」
◇
その夜。 一人残った執務室で、ロランは窓の外を見つめていた。
美しく輝く水の都の夜景。 だが――やはり、色は淡い。 オレンジ色の灯火は死んだような灰色に沈み、世界の輪郭がぼやけている。
「……ふふ」
ロランは自嘲気味に笑った。 代償は重い。タクティカル・ビューを酷使するたび、自分の中から「生」の色彩が失われていく。
いつか、真っ白な闇の中で、数式だけを数え続けるだけの存在になるのかもしれない。
だが、後悔はなかった。
「計算は、終わった……」
灰色の世界で、ロランは静かに目を閉じた。 五日後。 金の亡者たちが支配するこの都で、数式という名の刃が、偽りの王の首を撥ねる。




