第12話:戦後の現実
帝国軍が撤退してから、三日が経過した。
アイギス砦には、ようやく平穏が訪れていた。 兵士たちは崩れた城壁の修復に追われ、戦死者の埋葬を行い、負傷者の手当てに奔走している。
だが――その表情に、以前のような絶望はない。 そこにあるのは深い疲労と、それ以上の確かな達成感。
自分たちは、あの圧倒的な大軍を相手に生き延びたのだ。
そんな喧騒から離れた一室で、ロランはようやくベッドから起き上がることができた。 三日間、泥のように眠り続けていた。
体はまだ重いが、脳を焼くようなあの頭痛は和らいでいる。
「主様、起きた」
傍らから、鈴を転がすような声。 銀狼族の少女、リーナだった。
彼女は、この三日間ずっとロランのそばを離れなかった。 その証拠に、彼女の服の袖には少しばかりの看病の跡がある。
「リーナ…… ずっと、ついていてくれたんですか?」
「うん」
リーナは短く、素っ気なく答えた。 だが、その潤んだ瞳には隠しようのない安堵の色が浮かんでいる。
「もう、大丈夫?」
「ええ。おかげさまで、視界もしっかりしています」
ロランはゆっくりとベッドから降りた。 膝が軽く笑ったが、壁に手をついて何とか立つ。
「外の様子は…… どうなっていますか?」
「みんな、頑張ってる。城壁、直してる。 主様のおかげって、みんな言ってる」
「そうですか……」
ロランは窓の外を見下ろした。 かつて「ゴミ溜め」と呼ばれた砦の兵たちが、今は互いに肩を貸し合い、協力して作業に当たっている。
その光景が――冷徹な演算を繰り返してきたロランの胸に、かすかな熱を灯した。
◇
中庭に降りると、巨大な鍋から美味そうな湯気が上がっていた。
「おお、先生! 起きたのか!」
巨漢の料理人ガルドが、お玉を片手に満面の笑みを浮かべた。
「良かった! まだ顔色が真っ白だが、死神には見放されたようだな」
「ええ。心配をかけました」
「何言ってんだ。先生のおかげで、俺たちは今こうして腹を空かせることができてるんだ。 これ以上の恩義はねえよ」
ガルドは、年季の入った木の椀になみなみとスープを注いで差し出した。
「さあ、食ってくれ。先生の細い体じゃ、風が吹いたら飛ばされちまう」
受け取ったスープからは、野生のハーブと肉の力強い匂いがした。 一口飲むと――。 熱い液体が、空っぽの胃袋に染み渡っていく。
「…… 美味しい。 生き返るようです」
「そうか! ガハハ、ならおかわりも用意してやる!」
豪快に笑うガルド。 だが、その瞳の奥にはふとした陰りがあった。 彼はロランの様子を伺うように、声を低める。
「…… 先生、一つ相談があるんだが。 少し、まずいことになってる」
「何ですか?」
「食糧だ。備蓄が、もう底を突きかけてる」
ガルドの説明は深刻だった。 戦闘が予想以上に激化したことで、緊急用のレーションまで使い果たしてしまったのだという。
「このままじゃ、一週間も持たねえ。戦士より先に餓死者が出ちまう」
ガルドは困り果てたように、逞しい腕を組んだ。
「王都に補給を頼もうにも、あのギルマーの野郎が逃げちまった。今さら『助けてくれ』と言ったところで、あいつが握りつぶすに決まってやがる」
「そうですね……」
ロランは思考を巡らせる。 食糧がなければ、兵たちの士気は一瞬で崩壊する。
「近くの村から、買い付けることはできませんか?」
「それがな、この辺りの村は帝国軍の進軍ルートだった。略奪し尽くされて、自分たちの食い扶持だけで精一杯なんだよ」
八方塞がり。 ロランは地図を脳内に展開する。 導き出される目的地は、ただ一つ。
自由都市エモン。 大陸最大の物流を誇る、中立の商業都市。 あそこなら、必要な物資はすべて揃うだろう。 だが――。
「…… 金がない」
今の彼らは、国家から見捨てられた独立部隊だ。 軍資金など、どこにもない。
その時だった。 砦の正門から、重厚な轍の音が響いた。
現れたのは、豪華な装飾が施された高級馬車。 泥だらけの砦には似つかわしくない、洗練された姿だ。
「誰だッ!」
ハンスが即座に反応し、抜剣して馬車の前に立ちはだかる。
「止まれ! ここは軍事拠点だ。 許可のない者の立ち入りは禁止されている!」
馬車が静かに止まり、扉が開いた。 降りてきたのは、一人の女性。
燃えるような赤髪を美しく結い、知性を感じさせる眼鏡をかけた美女だった。 高価なドレスを纏いながらも、その佇まいは凛としており、兵たちの殺気に微塵も動じていない。
「失礼いたします」
女性は優雅に一礼した。
「私はエレン・ローウェル。ローウェル商会の代表を務めております」
「ローウェル商会……!?」
ハンスが驚きに目を見開く。 王国東部、いや大陸全土でもその名を知らぬ者はいない、巨大商会だ。
「何の用だ。こんな最前線の砦に、商会のトップが何の御用だ?」
「アルベルト・フォン・レガリア様に、お会いしに参りました」
その名が出た瞬間、周囲の兵たちがざわめいた。 王位継承権を剥奪されたはずの「亡命王子」を、これほどの大商人が訪ねてくるとは。
◇
数分後。 報告を受けたアルベルトが姿を現した。
エレンは彼を見るなり、地面に膝を突き、深く頭を垂れた。
「お久しぶりです、アルベルト様」
「エレン……! 君、どうしてここがわかったんだ?」
「商人の情報網を侮らないでください」
エレンは眼鏡を直し、立ち上がった。
「毒を盛られ、汚名を着せられて追放されたと聞いた時は、肝を冷やしました。ですが……」
彼女の視線が、砦の周囲に巡らされる。 帝国の死体、破壊された攻城兵器、そして――生き残った兵たちの目。
「どうやら、余計な心配だったようですね」
「ああ……。僕はもう、かつての無力な王子じゃない。 ただの――」
「いいえ」
エレンは、アルベルトの言葉を鋭く遮った。
「あなたは、王です。…… 少なくとも、私にとっては」
確信に満ちた言葉に、アルベルトが息を呑む。
「私はあなたに、『投資』をしに来ました」
「投資、だと?」
「ええ。あなたは必ず王座へ至り、この腐敗した国を根底から変える。 私はその未来に、ローウェル商会の全資産を賭けます」
エレンの瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く光った。
彼女はアルベルトとの挨拶を終えると、その視線を隣に立つ少年に移した。
「…… あなたが、ロラン・フォン・アシュベルさんですね?」
「初めまして、エレンさん。僕のこともご存知で?」
「ええ。魔力ゼロでありながら、五千の帝国軍をわずか百名で退けた『奇跡の軍師』。 その噂は、すでにエモンの商人間で高値で取引されています」
エレンは、食い入るようにロランを見つめた。
「物理と、確率と、心理……。魔法を介さない戦術計算。 失礼ですが、あなたの脳内はどうなっているのですか?」
「ただの計算です。感情を排し、変数を積み上げれば、答えは自ずと出ます」
「素晴らしい……!」
エレンは眼鏡の奥の瞳を細めた。
「では、ロランさん。『経済戦』への関心はありますか?」
「経済戦……?」
「数字と心理。そして、見えない流れを制御する戦い。 あなたの得意分野そのものだと思うのですが?」
ロランは直感した。 この女性は、ただの支援者ではない。 彼女もまた、この世界の理不尽に抗うために「力」を求めている同類なのだと。
◇
その夜、作戦室に主要メンバーが集まった。
「単刀直入に申し上げます」
エレンは、テーブルに詳細な周辺地図を広げた。
「この砦の食糧は、あと数日分しかありませんね?」
「…… 何でもお見通しだな、お嬢ちゃん」
ハンスが苦々しく言う。 エレンは涼しい顔で続けた。
「食糧、冬用の衣類、高度な医薬品。すべてローウェル商会が即座に手配しましょう」
「その代わり…… 見返りがあるんだな?」
ロランが問うと、エレンは不敵に微笑んだ。
「話が早くて助かります。条件は二つ」
彼女は指を二本立てた。
「一つ。アルベルト様が王位に就いた際、国内の物流・関税の特権を我が商会に付与すること」
「それは…… 国の財布を君が握る、ということか?」
「支配ではなく、最適化と言ってください。そして、もう一つ」
エレンはロランを真っ直ぐに指差した。
「ロランさん。私を、あなたの『軍師補佐』として雇ってください」
「えっ!?」
思わぬ要求に、ロランだけでなく、黙って控えていたリーナまでがピクリと反応した。
「商会の代表が、一介の軍師の補佐に?」
「商会の実務は、すでに優秀な部下たちに任せてあります」
エレンは、眼鏡を直して一歩踏み出した。
「私は、あなたの戦い方に興味がある。数学で世界を屈服させるその手腕を、最も近い場所で見学させてほしい。 それが、私の個人的な報酬です」
ロランはエレンの目を見た。 そこにあるのは、純粋な好奇心と――そして、深い怒り。
「…… わかりました。 あなたの『投資』、確かにお受けします」
ロランが右手を差し出すと、エレンはその手を力強く握り返した。
「契約成立です。史上最高の、投資対象さん」
こうして、アシュベル独立連隊に最強の「財布」と「頭脳」が加わった。 彼らの逆襲は、ここから加速していくことになる。




