第11話:男爵の逃走
魔導砲が爆発し、戦場を揺るがした轟音が止んでから一時間が過ぎた。
帝国軍は、未曾有の損害に動揺していた。 頼みの綱である城壁破壊用の破城槌は砕かれ、最大火力の魔導砲も失った。 さらには、指揮官たちが次々と「見えない弾丸」によって狙撃され、軍の統制はガタガタだ。
だが――それでも敵軍は撤退していない。 数的な優位は依然として帝国側にある。 彼らはまだ、この砦を飲み込めるだけの牙を残していた。
一方、アイギス砦の一室。 ロランは、冷たい水で濡らした布を額に当てられ、横になっていた。
「先生、無理すんなって……」
巨漢の料理人ガルドが、大きな手を震わせながら心配そうに声をかける。
「あんた、もう限界だろ。顔が真っ赤だ。 脳みそが沸騰しちまってるんじゃねえのか」
「大丈夫、です……。まだ、計算は……」
ロランはふらつく体で起き上がろうとするが、ガルドの太い腕に優しく、けれど断固として押さえ込まれた。
「だめだ。今は休め。 これ以上はあんたが死んじまう」
「でも、みんなが戦っているのに、僕だけ……」
「みんなは、あんたが教えてくれた通りに戦ってる。あんたの『知略』が、みんなに勇気を分けたんだ」
ガルドは窓の外、松明の光に照らされた城壁を指差した。
「ハンスが現場を回し、アルベルト様が兵たちを鼓舞してる。…… あんたが繋いだ希望だ。 無駄にするような連中じゃねえよ」
ロランはその言葉を聞き、ゆっくりと視線を落とした。 視界はまだチカチカと点滅し、世界から色が失われたような感覚が残っている。
「…… 少しだけ、休みます」
「ああ。そうしてくれ」
ガルドの安堵したような吐息を子守唄に、ロランは深く、熱い意識の底へと沈んでいった。
◇
その頃、城壁の上では、全く異なる光景が広がっていた。
「急げ! 荷物をまとめろ! 馬車を、一番速い馬車を用意しろ!」
ギルマー男爵が、引きつった顔で兵士たちに怒鳴り散らしている。 その目は泳ぎ、額からは卑屈な汗が流れていた。
「男爵、どうされたのですか? 戦闘はまだ続いておりますが……」
怪訝そうな顔で問いかけた兵士を、ギルマーは血走った眼で睨みつける。
「決まっている! この砦はもうおしまいだ! あの『零級者』の小細工など、いつまで持つものか!」
ギルマーは震える手で宝飾品の詰まった鞄を抱え込んだ。
「私は王都へ戻る! 援軍を要請するという大任があるのだ! 貴様らのような平民と、ここで心中するつもりはない!」
「ですが、今指揮官が離脱すれば士気が――」
「黙れ! 黙れ黙れ! 貴様ら家畜が、私の行動に口を出すな!」
ギルマーは兵士を突き飛ばし、足早に執務室へと消えていった。 残された兵士たちは、冷めた視線をその背中に向ける。
「あの野郎…… 逃げる気だな」
「援軍なんて建前だ。自分だけ助かろうとしてやがる……」
そんなやり取りを、少し離れた場所でハンスが聞いていた。 彼は深く、忌々しそうに舌打ちをする。
「やっぱりな。あの腐れ貴族、しっぽを巻いて逃げ出しやがった」
「どうします、ハンスさん。止めますか?」
近くの兵士が問いかけるが、ハンスは首を振った。
「いや、放っておけ。あんなゴミ屑、いても戦力にならねえ。 むしろいない方が清々するってもんだ」
ハンスは城壁の端まで歩くと、眼下の兵士たちを見下ろした。 その声は、かつてないほど野太く、力強く響く。
「野郎ども、聞いてくれ!」
兵士たちの視線が、ハンスに集まる。
「悲報だ! ギルマー男爵が、この砦を見捨ててお逃げあそばされるそうだ!」
兵士たちの間に、嘲笑と怒りが混じったどよめきが広がる。
「だがな! 俺たちは逃げねえ。 逃げる必要もねえ!」
ハンスは剣を抜き、夜空を指した。
「俺たちにはロラン先生がいる! アルベルト様がいる! そして、隣でお前を支えてくれる戦友がいる! あの腰抜け貴族がいなくたって、俺たちは負けねえ!」
その言葉は、兵士たちの心に火をつけた。 絶望ではなく、解放感に近い高揚。
「応よ! 守り抜いてやろうじゃねえか!」
「独立連隊の意地を見せてやる!」
怒号のような勝鬨が、夜の砦に響き渡った。
◇
その夜更け。 ギルマー男爵は、こっそりと砦の裏門から抜け出そうとしていた。
金目のものを詰め込んだ馬車に乗り、数名の護衛を従えている。
「ふん、無能どもめ。ここで帝国軍に蹂躙されるがいい……」
ギルマーは歪んだ笑みを浮かべ、御者に合図を送ろうとした。 だが――。
裏門の前に、一人の少女が立ちはだかっていた。
「…… どこへ行くの?」
銀狼族の少女、リーナ。 その静かな声が、夜の冷気に溶け込む。
「き、貴様! 獣人風情が、私の道を塞ぐか!」
ギルマーは顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「どけ! さもないと、王都に戻った後に貴様の同胞を皆殺しにしてくれるぞ!」
脅迫。 けれど、リーナの瞳は揺るがない。 ただ、ゴミを見るような冷徹な視線が、ギルマーを射抜く。
「主様は、脳を焼きながら…… 死ぬ思いで、みんなを守ってる」
リーナの一歩。 その殺気に、馬が怯えていなないた。
「あなたは、逃げる。…… 卑怯者」
「な、何だと…… ッ!」
ギルマーは屈辱に震え、護衛の兵士たちに命令を飛ばす。
「何を突っ立っている! その獣人を斬れ! 排除しろと言っているんだ!」
…… しかし、護衛たちは動かない。 それどころか、彼らは手にしていた松明を、地面に投げ捨てた。
「貴様ら! なぜ動かぬ! 反逆か!?」
「…… すみません、男爵」
護衛の一人が、静かに剣を鞘に収めた。
「俺たち、もうあんたの命令を聞くのが嫌になったんですわ」
「な、何……?」
「俺たちは『アシュベル独立連隊』として、ロラン先生とアルベルト様のために戦います。あんたみたいな背中を見せて逃げる奴のために、命を捨てる気はありません」
護衛たちはギルマーを無視し、砦の中へと戻っていく。 暗闇の中、一人馬車に残されたギルマーは、絶望に顔を歪めた。
「く、くそ……! どいつもこいつも狂ってやがる!」
ギルマーは震える手で手綱を握り、闇雲に馬を走らせた。 その背中を見送る者は、一人もいなかった。
◇
翌朝。 ロランは、ようやく意識を浮上させた。
頭を割るような痛みは引いたが、鉛を飲んだように体が重い。
「先生、目が覚めたか」
部屋に入ってきたハンスが、明るい声を出す。
「ギルマー男爵が、昨夜のうちに逃げ出しましたよ」
「…… そうですか」
ロランは驚かなかった。 むしろ、計算通りだ。 あの男がいれば、今後の「独立」の障害になるだけだった。
「困りましたか? 王家への報告が面倒になるかもしれませんが」
「いや、むしろ清々した。あんな重石がない方が、よっぽど自由に戦えます」
ロランは窓の外を見やった。 地平線には、依然として帝国軍の陣営がある。
「敵は、まだ諦めていませんね」
「ああ。だが、昨日までのような勢いはねえな。 本国からの指示を待ってるのか、あるいは……」
「…… 攻めあぐねている。 ならば、その隙を突き(・・)ましょう」
ロランの瞳に、演算の青い光が僅かに宿る。
「反撃の準備を始めます」
◇
その日の午後。 ロランは砦に生き残った全兵士、約百名を中庭に集めた。
誰もが泥に汚れ、傷ついている。 けれど、その目には「無能の使い捨て」だった頃にはなかった、強い光が宿っていた。
「みなさん」
ロランは静かに、けれど全員に届く声で話し始めた。
「ギルマー男爵は、この砦を捨てて逃げました。レガリア王国も、僕たちを助けるつもりはないでしょう」
兵士たちの間に緊張が走る。
「ですが、僕は逃げません。ここを僕たちの『居場所』にするために、守り抜きます」
「サー!」
一人の若い兵士が叫ぶように言った。
「俺たち、本当に…… 勝てるんですか? あんな大軍相手に」
「…… 正直に言いましょう。 勝てる保証はありません。 確率は、まだ五分と言ったところです」
ロランは嘘をつかなかった。 甘い言葉ではなく、真実を告げることで、彼は信頼を築いてきた。
「でも――僕は、みなさんを信じています」
ロランは兵士たち一人一人の顔を見つめる。
「みなさんは強い。勇気がある。 そして何より…… 隣にいる仲間を見捨てない心を持っている。 それは、どんな魔法よりも、どんな大軍よりも、僕の演算を狂わせる(・・・・)大きな力です」
兵士たちの胸に、熱いものがこみ上げる。 「無能」と蔑まれた自分たちを、これほどまでに真っ直ぐ肯定してくれた者が、かつていただろうか。
「だから、僕たちは負けません。…… 僕に、力を貸してください」
「先生、万歳ッ!」
「ロラン先生! 俺たちの命、あんたに預けるぜ!」
爆発的な歓声。 アルベルトがロランの隣に立ち、剣を高く掲げた。
「みんな、ロランの言う通りだ! 我らはもはや、王国の捨て駒ではない! 自由を掴むための軍、アシュベル独立連隊だ!」
「おおおおおッ!」
◇
その日の夜。 見張り台に立つロランの隣に、影が落ちた。
「主様」
リーナだ。
「また、考えてる」
「ええ。次の一手を、ね」
ロランは隣の少女を見つめ、少しだけ照れくさそうに笑った。
「リーナ。昨夜は、その…… 助かった。 ありがとう」
「…… 止めてない。 見送っただけ」
リーナは素っ気なく答えるが、その耳は微かに赤くなっている。
「あの男、卑怯者。主様とは、全然違う」
「僕は…… 卑怯じゃないですか? 真正面から戦わず、罠にはめて敵を殺している」
「違う」
リーナが、ロランの手をそっと握った。 小さくて、けれど温かい手だ。
「主様は、みんなを守るために自分を削ってる。それは…… 一番、かっこいい」
「…… ありがとう、リーナ」
二人はしばらく無言で、星の瞬く夜空を見上げていた。
その時だった。 遠く北の地平線、帝国軍の陣営でいくつもの火柱が上がった。
「あれは……」
「匂いでわかる」
リーナが鼻をひくつかせ、鋭く言った。
「火をつけて、荷物を燃やしてる。…… 持っていけないものを、全部」
ロランの脳内の演算回路が、一瞬で答えを導き出した。 重い荷物を捨て、火を放つ。 それは――。
「撤退......」
勝った。 五千の軍勢を相手に、たった百人で。 歴史に刻まれるべき大金星を、彼らは成し遂げたのだ。
「みんなに、知らせないと…… っ」
喜びのあまり駆け出そうとしたロランだったが、急激な立ちくらみに視界が暗転した。
「主様!」
倒れそうになる体を、リーナのしなやかな腕が受け止める。
「大丈夫…… ちょっと、めまいが……」
視界が白黒に染まる。 脳が、悲鳴をあげている。 『タクティカル・ビュー』の代償は、確実に彼の心身を蝕んでいた。
「主様、無理しすぎ」
リーナはロランを抱きかかえ、そのまま静かに見張り台の床に座らせた。
「休んで。…… 私が、みんなに伝えるから」
「でも……」
「休んで」
逆らえない強さが、その声にはあった。 ロランは抵抗を諦め、リーナの肩に頭を預けた。
「…… お願いします……」
◇
翌朝。 帝国軍は完全に撤退し、草原には黒い焦げ跡だけが残されていた。
砦の中は、爆発的な歓喜に包まれていた。 大人たちが泣きながら抱き合い、空に向けて何度も叫んでいる。
「本当に…… 勝っちまったんだな、おい」
ハンスが城壁の上で呆然と呟くと、隣のガルドが豪快に笑った。
「ああ、先生のおかげだ。…… で、その先生は?」
「部屋で眠ってるよ。リーナが片時も離れずに、門番みたいに張り付いてやがる」
二人は顔を見合わせ、苦笑いした。
「あの子、本当に先生のことが好きなんだな」
「まあ、あれだけ命がけで守られたら、無理もねえよ」
ロランの部屋。 リーナは、眠り続けるロランの手をぎゅっと握りしめていた。
「主様……」
その寝顔は穏やかだが、時折、苦しそうに眉間に皺が寄る。 ロランの体温はまだ高く、その消耗の激しさを物語っていた。
「もう、無理しないで……」
リーナの瞳から、一雫の涙が溢れ、ロランの手に落ちた。 彼が知略を尽くすたびに、その命が削られていく。 それが彼女には、怖くてたまらなかった。
「私が、守る。次は…… 私が主様を、絶対に守るから」
その誓いとともに、朝日がアイギス砦を照らし出す。
アイギス砦を巡る戦いは、幕を閉じた。 しかし、これは「無能」と呼ばれた少年が、世界を書き換える旅の、ほんの序章に過ぎない。




