閑話:銀の絶望 〜リーナ・忘れられた七日間〜
一日目――。
朝。リーナは主様の部屋を訪れた。
指先を震わせ、静かにノックをする。
「主様、おはようございます」
「……どうぞ」
返ってきたのは、抑揚を削ぎ落とした平坦な声。
リーナが扉を開けた。
色彩を失い、灰色に沈んだ部屋。
その中央で、ロランは机に向かい、ただひたすらにメモを走らせていた。
「主様、今日の訓練の件ですが――」
ロランが、ゆっくりと顔を上げた。
そして――。
手元のメモへと、視線を落とす。
「あなたは……どなたですか?」
心臓を、鋭い刃で突き刺されたような感覚。
リーナの喉が、熱く締め付けられる。
「……リーナです。主様の従者です」
「ああ」
ロランは、無機質にメモを指でなぞった。
『リーナ:従者/大切な人』
「メモに記述がありますね。了解しました」
リーナは、溢れそうになる涙を必死にこらえた。
主様の瞳は、確かに私を捉えている。
けれど、その奥に「私」は存在しない。
「訓練の、準備ができました」
「わかりました。移動します」
椅子から立ち上がったロランが、横を通り過ぎる。
リーナは、その背中をじっと見つめた。
アイギス砦で。王都で。戦場で。
何百回、何千回と追いかけてきた、頼もしい背中。
けれど、今のこの背中は――。
後ろを歩く私の名を、自分では思い出せない。
訓練場で、リーナは一心不乱に剣を振るった。
ロランはただ、その軌道を数値として処理するように見つめている。
「フォームが安定していますね。優れた技量です」
「……ありがとうございます」
「メモによれば、あなたは私の訓練相手を務めてきたとのこと」
握りしめた剣が、小刻みに震えた。
訓練、相手――。
私は、ただの練習台ですか。
剣を教え合った時間も。
傍らで笑い合った日々も。
主様にとっての「大切な人」は、もうインクの染みでしかないのですか。
「リーナさん」
ロランが、感情の消えた声で呼ぶ。
「はい」
「次は、どの術式を再現すればいいですか?」
「……連続斬撃です」
「了解。実行します」
構えを取るロラン。
その姿は、かつての主様と何も変わらない。
真面目に、直向きに、最適解を求める。
けれど、中身が空っぽだった。
心がない。
感情がない。
私への想いなど、微塵も残っていない。
すべて――。
あの熱量の中に、溶けて消えてしまった。
二日目――。
朝。リーナは、昨日と同じように部屋を訪れた。
「主様、おはようございます」
「おはようございます」
ロランは、やはり手元のメモを確認してから口を開く。
「あなたは……リーナ、ですね。……間違いありませんか?」
リーナは、精一杯の笑顔を作った。
「はい。覚えていてくださって……嬉しいです」
「メモに、そう書いてあります」
作ったはずの笑顔が、音を立てて崩れ落ちた。
メモ。
どこまでも、メモ。
今の私は、紙の上にしか存在を許されない。
主様の脳内からは、跡形もなく消え去っている。
三日目――。
食事の時間。
リーナは、主様の隣に腰を下ろした。
ガルドが丹精込めて作った、温かいスープ。
香ばしく焼き上がったパン。
主様はそれを、燃料を補給するように機械的に口へと運ぶ。
「美味しいですか……?」
「熱量は感じられます。摂取に支障はありません」
リーナの胸が、また痛んだ。
味も、匂いも、主様にはもう届かない。
それでも、生きるために「燃料」を飲み込み続けている。
「リーナさん」
「はい」
「あなたと私は、どの程度の期間、行動を共にしてきましたか?」
問いかけに、リーナは言葉を詰まらせた。
「……とても、長いです。数えきれないほど」
「そうですか」
ロランは、無造作にメモを繰った。
『リーナ:アイギス砦から共に戦った仲間』
「アイギス砦。……記録にはありますが、想起できません」
リーナの目から、一筋の雫が零れ落ちた。
思い出せない。
二人のすべてを。
出会ったあの日。
初めて主様を守ると誓った日。
主様が私に、優しい微笑みを向けてくれた日。
そのすべてが、灰色の虚無に呑み込まれた。
「リーナさん。頬から水分が流出しています。……泣いているのですか?」
「いいえ。……何でもありません」
リーナは、乱暴に袖で顔を拭った。
「大丈夫、ですから」
「了解しました」
ロランは、興味を失ったように食事を再開する。
リーナは、その横顔を見つめ続けた。
主様。
私は、どうすればあなたを取り戻せるのですか。
四日目――。
深夜。
リーナは、主様の部屋の前に立っていた。
扉の隙間から、青白い光が漏れている。
主様は、まだ眠っていない。
リーナは、吸い込まれるように扉を開けた。
ロランは机に向かい、一心不乱に筆を走らせている。
ふと見渡せば、壁一面が紙で埋め尽くされていた。
『アルベルト:王/友人』
『リーナ:従者/大切な人』
『ガルド:料理人/仲間』
『次の任務:帝国陸上戦艦迎撃』
文字、文字、文字。
主様の記憶は、物理的な紙へと形を変えて、部屋を埋め尽くしている。
「主様……」
震える声。
ロランが、ゆっくりと振り返った。
「リーナさん」
メモを目で追い、確認する。
「従者、ですね」
「はい……そうです」
リーナは、痛む心を引きずりながら、部屋へと踏み込んだ。
「もう、お休みになってください。脳の熱が上がりすぎてしまいます」
「ですが、まだ情報の整理が完了していません」
「主様」
リーナの声が、涙混じりに震えた。
「お願いです。少しだけでいいから……休んでください。あなたが壊れてしまう」
ロランは――。
じっとリーナを見つめた。
色彩のない、灰色の瞳。
何の感情も宿さない、硝子のような瞳。
けれどその瞳は、確かに今、リーナを捉えていた。
「……了解。休息に移行します」
ロランは椅子から立ち上がり、ベッドへと横たわった。
リーナは、その寝顔をいつまでも守るように見守り続けた。
主様。
私は、どうすればあなたを救えるのですか。
五日目――。
リーナは、一人で物思いに耽っていた。
窓の外、灰色に閉ざされた景色。
本当は、空はこんなに青いのに。
主様には、それさえも見えない。
リーナは、遠い過去を思い出していた。
十年前。
北の最果て、凍土ノーディア。
そこが、銀狼族の里だった。
寒風が吹き荒れる、厳しくも美しい土地。
そこでリーナは生まれた。
銀の髪。銀の瞳。
獣人の血。
里の人々は皆、優しかった。
けれど、リーナはいつも孤独の影を抱えていた。
なぜなら、彼女の心は常に「外」を向いていたから。
広い世界を知りたい。
自由に、自分の足で生きたい。
そして。
いつか、心から尊敬できる主に仕えたい。
その人を、命懸けで守りたい。
それが、少女だったリーナの、たった一つの願いだった。
十五歳の冬。リーナは里を出た。
たった一人、凍てつく大地を南へと歩んだ。
そして――。
アイギス砦で、運命の主に出会った。
ロラン・フォン・アシュベル。
魔力ゼロ。追放された、頼りなげな青年。
けれど、その瞳の奥には。
何者にも屈しない、強靭な意志の炎が灯っていた。
リーナは、その輝きに魅せられた。
この人に、すべてを捧げたい。
この人を、最後まで守り抜きたい。
あの日から、それがリーナの「すべて」になった。
なのに、今。
主様は、リーナの存在を忘れてしまった。
六日目――。
リーナは、決意した。
たとえ、主様が私を忘れても。
たとえ、主様が私を「記号」としてしか認識できなくても。
私は、ここにいる。
主様の隣が、私の生きる場所。
リーナは、ロランの部屋を訪れた。
「主様」
「リーナさん」
いつものように、メモを確認する動作。
「従者、ですね」
「はい。あなたの、従者です」
リーナは、主様の前に膝をついた。
「主様。明日から、戦いが始まります」
「ええ。バルムンク帝国との決戦です」
「私は、必ず主様をお守りします。たとえ何があっても」
ロランが、ふと不思議そうに目を細めた。
「……なぜですか?」
「え?」
「なぜ、あなたはそこまでして私を守るのですか。論理的なメリットが見当たりません」
リーナは、微笑んだ。
溢れ出す涙を、隠そうともせずに。
「それが、私の生きる意味だからです」
「主様を守ること。主様の側にいること」
「それが――私のすべてなんです」
ロランは、その言葉を反芻するように黙り込み、ペンを取った。
そして、メモの余白に書き記した。
『リーナ:従者/大切な人/生きる意味を懸けて私を護る存在』
リーナは、その文字が滲んで見えなくなった。
紙の上にしか、私の居場所はない。
けれど。
それでもいい。
主様が、私を「必要」だと定義してくれるのなら。
七日目――。
出陣の朝。
リーナは、主様の部屋を訪れた。
「主様。準備が整いました」
「了解しました」
ロランは立ち上がり、最後にもう一度、壁のメモを確認した。
「リーナさん」
「はい」
「メモには、あなたが大切な人だと記述されています」
その一言で、冷え切っていたリーナの胸が、微かに温かくなった。
「ですので――」
ロランは、リーナを真っ直ぐに見据えた。
「戦場では、あなたが欠損しないよう、私がお守りします」
リーナは、また泣きそうになった。
主様。
あなたは、私のことを覚えていない。
でも。
自分自身のメモを信じて、私を守ろうとしてくれる。
「ありがとうございます……」
リーナは、深く頭を下げた。
「でも、主様を守るのは私の役目ですから」
「……そうですか。ならば、互いに保護対象と設定します」
ロランは、さらりとメモに書き足した。
『リーナ:私を護る存在/私もまた護るべき存在』
二人は、部屋を出た。
硝煙と熱量が渦巻く、戦場へ。
リーナは、主様の背中を追い続ける。
主様。
私は、絶対にあなたを死なせません。
たとえ、あなたが私を知らなくても。
たとえ、その瞳に私の姿が映らなくても。
私は、永遠にあなたの傍らに。
それが、私の選んだ運命。
銀の髪が、戦場の風になびく。
灰色の空の下。
リーナは、主様と共に歩み出した。
忘れられた七日間。
それは、地獄よりも過酷な孤独の日々だった。
けれど、リーナは決して諦めない。
主様を、守り続ける。
それが、彼女の魂のすべてだから。
北方平原へ――。
二人は、激動の戦場へと消えていった。




