第10話:物理の暴力
帝国軍五千が、地響きを立てて砦へ殺到する。
その迫力は、これまでの比ではなかった。 大地が震え、巻き上がる砂埃が視界を遮る。 兵士たちの咆哮が、大気を物理的な圧力となって震わせていた。
城壁に並ぶ兵士たちの顔が、恐怖に引き攣る。
「こ、これは……」 若い兵士が、ガチガチと歯を鳴らして呟いた。 「勝てるわけがない…… あんな数……」
「黙れッ!」 ハンスが怒鳴りつける。 「先生を信じろ。…… 俺たちが信じるのは、目の前の敵じゃなく『あいつ』の言葉だッ!」
だが、そう叫ぶハンスの拳も、微かに震えていた。
ロランは城壁の最高不、見張り台に独り立っていた。 その視界は、もはや完全に青い幾何学模様に埋め尽くされている。
――タクティカル・ビュー、フルダイブ。
世界が、無機質な数式へと解体されていく。
敵の前進速度:1.2m/秒 編隊密度:2.3人/m² 平均装備重量:45kg 地面圧縮係数:0.7(乾燥) 風速:北西3.1m/s 気温:18°C / 湿度:42%
数万の変数が火花を散らし、脳内で唯一の「解」を導き出した。
「ケント」 ロランが、震える弓兵の肩に手を置く。
「は、はいッ!」
「敵の先頭、左翼から三列目。赤い羽飾りをつけた重装兵が見えますか?」
「え、ええと……」 ケントは必死に目を凝らした。 「あ、見えました! 隊長格の男ですね!」
「あの男を射抜いてください」
「ですが、距離が…… まだ射程外です!」
「届きます。僕の計算に、射程外という概念はありません」 ロランの瞳が、ケントを真っ直ぐに捉えた。 「仰角32度。風の補正は右へ15センチ。 …… 呼吸を止めて、今だッ!」
信じろ。 ケントは自分ではなく、ロランの言葉を信じて指を離した。
矢が、鋭い風切り音と共に高い放物線を描く。 帝国軍の常識では、まだ矢は届かないはずの距離。
――ドスッ!
吸い込まれるように、赤い羽飾りの首筋に矢が突き刺さった。 男が崩れ落ち、周囲の兵士たちが驚愕に動きを止める。
「…… 当たった。 本当に、当たったぞ…… ッ!」 ケントが歓喜の声を上げる。
「次、右翼五列目、旗持ちを排除。仰角30度。 風補正なし。 …… 放てッ!」
ロランの指示が飛ぶたび、帝国の指揮系統がピンポイントで断ち切られていく。 だが、帝国軍は精強だ。 即座に代わりの指揮官が立ち、隊列を立て直して進軍を再開した。
「くそ…… やはり数で押し切るつもりか」 ハンスが毒づく。 「先生、次はどうする!?」
「落ち着いてください」 ロランの声は、どこまでも冷徹で、平熱だった。 「敵が射程に入ったら、全弓兵で斉射を。ただし――」
ロランが指差したのは、敵の胸元ではなく、無人の地面だった。
「狙うのは『足元』です。地面を矢で埋め尽くしてください」
「地面……? 倒さなくていいのか?」
「ええ。死体は越えられても、『物理的な障害』は越えられません」
帝国軍が射程距離に足を踏み入れた。
「斉射、放てッ!!」 ハンスの号令で、百本以上の矢が雨となって降り注ぐ。 だが、それらはすべて、敵兵の一歩手前の地面に突き刺さった。
一見、無様な失射。 しかし。
「うわぁっ!?」 先頭の兵士がつまずいた。 地面に乱立する矢の山に、足を引っ掛けたのだ。
重さ40キロを超える鎧を着た人間が、全力疾走の中つつまずけばどうなるか。 バランスを崩した兵士が転倒し、そこへ後続が次々と突っ込んでいく。
「もう一斉射! 逃げ場を塞げッ!」
再び降り注ぐ矢。 地面はもはや、巨大な「剣山」と化していた。 帝国軍の自慢の進撃が、まるでスローモーションのように鈍っていく。
「すげえ…… 矢で『壁』を作りやがった……!」
兵士たちの間に驚嘆と歓喜が広がる。 だが、帝国軍も黙ってはいない。 重装歩兵を前面に押し立て、盾で矢を弾きながらじりじりと距離を詰めてくる。
城壁まで、あと五十メートル。
「やべえ…… 登られるぞ…… ッ!」 ハンスが焦燥に声を荒らげる。
「大丈夫です」 ロランは額の汗を拭った。 脳が物理的に熱を発し、視界がチカチカと明滅する。 演算を止めれば、一瞬で楽になれるだろう。 だが、今はまだその時ではない。
「油を準備してください」
「また油か!? だが敵は盾を構えてる。 火矢は通らねえぞ!」
「火は使いません」 ロランは冷ややかに、城壁の下の泥濘を見下ろした。 「油を地面に撒きなさい。その上に、用意しておいた『乾燥した砂』を被せるんです」
ハンスは意図を測りかねたが、もはや逆らう気はなかった。 言われた通り、兵士たちが油を撒き、その上から砂をぶちまけていく。
油を吸った砂が、粘り気のある特殊な泥状へと変質したその場所へ。 帝国の先頭集団が、勢いよく踏み込んだ。
「ぬ、ぬわぁっ!?」 兵士の足が、深々とぬかるみに沈み込んだ。 油と砂が混ざった高粘度の泥が、靴底と地面を接着剤のように繋ぎ止める。
「足が…… 抜けないッ!」 「重てぇ! 動けねえぞ、これッ!」
重装備が仇となった。 一度足を取られれば、自重でさらに深く沈み込んでいく。 城壁の真下は、一瞬にして「動けない標的」で埋め尽くされた。
「今だ。…… 石を投げ落とせ」
ロランの静かな指示。 動けない敵兵の頭上に、無慈悲な岩の雨が降り注ぐ。 帝国軍の波が、城壁の直前で完全にせき止められた。
――だが。 その勝利の予感を、地を這うような重低音が打ち砕いた。
ドォォォォォンッ!!
帝国軍の最後方。 温存されていた魔導砲が、ついにその牙を剥いた。
「全員、伏せろッ!!」 ロランの絶叫が響く。
直後、城壁の一部が爆発と共に霧散した。 凄まじい衝撃波。 石材の破片が礫となって兵士たちを襲う。
「くそっ…… 魔導砲か…… ッ!」 ハンスが砂埃を払いながら立ち上がる。 「あいつを潰さない限り、じり貧だぞ……!」
「…… わかっています」 ロランは遠く、五百メートル先で鈍く光る巨砲を見据えた。 弓では届かない。 突撃すれば返り討ちだ。
だが、タクティカル・ビューは既にその「死角」を演算し終えていた。
「リーナ」 影から現れた少女に、ロランは小声で指示を伝えた。 リーナは真剣な瞳で頷き、音もなく壁を駆け下りていった。
その夜。 戦場は一時的な休止状態に入っていた。 双方に多くの負傷者が出ており、砦の中には呻き声が満ちている。
ロランは見張り台の隅で、激しい頭痛に耐えていた。 脳が、限界だと悲鳴を上げている。
「主様」 戻ってきたリーナが、背後からそっと寄り添った。 「大丈夫? …… 熱、すごい。 においでわかる」
「…… 少し、考えすぎただけですよ」
「嘘」 リーナの冷たい指先が、ロランの額に触れる。 「普通じゃない。…… 主様、このままじゃ壊れる」
「それでも、止められません。…… みんなを、守らなければ」
リーナはそれ以上、何も言わなかった。 ただ、震えるロランの手を、自らの小さな手で包み込んだ。 その微かな温もりだけが、今のロランを繋ぎ止める錨だった。
翌朝。 決戦の幕が再び上がる。
帝国軍は昨日よりも慎重に、魔導砲の援護を背に迫ってくる。 再び砲口が光を放ち、城壁を削り取る。
「もう、だめだ……」 絶望が兵士たちを飲み込もうとした、その瞬間。
――ドゴォォォォンッ!!
帝国軍の陣営後方で、巨大な爆発が起きた。 魔導砲が、その弾薬庫ごと巨大な火柱に包まれている。
「やったぁぁ! 成功だッ!!」 ハンスが拳を突き出す。
昨夜、リーナが潜入し、魔導砲の急所に細工を施したのだ。 最大の脅威が消え、敵陣に動揺が広がる。
「全軍、反撃ッ! この一撃で追い散らすぞ!!」
ハンスの叫び。 兵士たちが歓喜と共に立ち上がる。 だが――その中心にいるべきロランは、膝を折っていた。
「ロランッ!?」 アルベルトが慌てて彼を抱き止める。
「…… 大丈夫…… です……」 ロランの声は掠れ、鼻血が止まらない。 何より――視界の「色」が、墨を流したように薄くなっていた。
(脳のダメージが…… 視覚野にまで及んでいるのか……)
戦慄を覚えるが、それを伝える気力も残っていない。
「アルベルト…… 様。 …… あとは、お願いします」
「わかった。…… あとは、僕が引き受ける。 君の作ったこの道を、僕が守り抜くよ」
アルベルトはロランを丁重に預けると、自ら剣を抜き放ち、城壁の中央に立った。
「みんな、聞け! ロランが命を削って勝利の道を開いてくれた! 次は、僕たちが答える番だッ!!」
王子の凛とした声が、砦中に響き渡る。 魔法が使えない軍師が作った奇跡を、今度は兵士たちが形にしていく。
「アルベルト様、万歳ッ!!」 「独立連隊、突撃ィィッ!!」
アイギス砦の攻防戦。 それは、真の「反撃」の物語へと昇華していく。




