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「やめろ、スペルト」
私は思わず叫び、彼の腕を掴んだ。
だが、その瞬間、最短距離で伸びてきたバカでかい腕が、視界を覆う。
人間のようでいて、人間ではない。
黒く歪んだその腕には――無数の“目”があった。
しかも、そのすべてが、赤く光っている。
……気味が悪い。
背筋を冷たいものが這う。
「捏造だ」
スペルトの口から、低く、くぐもった声が漏れた。
「なんだと?」
「あの映像は全部――捏造なんだ」
……この野郎。何を言っている。
「君はまもなく、裁判所へ連れて行かれる。だが、私は違う」
スペルトは、狂気じみた笑みを浮かべた。
「星の民と契約を交わしたんだ。彼らは救世主さ」
「何を言ってる。星の民に慈悲などあるはずが――」
『ぬかせ』
……聞こえた。
声が、響いた。
まるで――あの黒い“手”が、喋っているように。
いや、違う。
何かが目覚めたんだ。
この空間に、目覚めた。
どうする……?
《飛車》を使えば、まだ助けられるかもしれない。
私は、地を蹴った。
タンッ、タンッ。
二歩の助走のあと、宙へと跳ぶ。
「――鷹飛車」
スペルト、必ず救ってみせる。
旧友であるお前を、忘却の闇に沈めさせはしない。
……いや、待て。
ベンゼルも“同じ姿”で、忘却から帰ってきた。
もしかして、あの“忘却”には――何か仕掛けがあるのでは?
突っ込むしかない。
今の私には、それしか考えられなかった。
「スペルト、頼む。すべてを話してくれ」
この手のこと、星の民との契約――一体、何を交わしたんだ。
「へっ……かかったな」
「なに?」
「星の民よ――この女を連れていけ」
……やられた。
この腕は、私を捕らえるためのものだったのか。
裏切りの裏切り。
胸の奥が、焼けるように痛い。
どうする……?
ベンゼルを、信じるか。
巨大な黒い手が目前に迫る。
――ベンゼル、応答しろ!
――話したくないんだ。すまないな。
くそっ。
だが、私は止まらない。
使命があるんだ。
姉のように“忘却”されるわけにはいかない。
九死に一生を――私は、まだ終われない。
「私に力を……。
天よ、神よ、創造主よ――どうか、私に力を。
その瞬間――
『誇誌似嵯延沙鴇毒起奄嵯爾屍事狐真駆左轄
扉蹄
褐天――』
異界の呪文のような声が、空間を裂いた。
『……ふははは。呼んだか、小童』
誰だ……? 何者だ?
『我は――明王』
「明王……? 私は、このまま“忘却”されるのか?」
『試さねば分かるまい。』
「なら――試してみようじゃないか。」
私は、静かに目を閉じた。
そして、“忘却”を受け入れる決意をした。




