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どうやら、ここは医療と倫理の州――
イブン・シーナ州。
州都はアル・メディナ。
医学者アディメンナをモデルに設立されたこの地は、AI医療の発達でも知られている。
私は救急車で州立病院ヘンストラムへ運ばれた。
どうやら、意味のわからない、もしくは理解しがたい言動を取っていたらしい。
私は言ったのだ。「ここは本当は2025年の日本で、ナノテクも州も、テレパシーも存在しない」と。
だが、医師たちはそれを妄想と診断し、私は入院を余儀なくされた。
入院期間は一ヶ月。
やることなすこと、制限され、退屈に押しつぶされそうだった。
電脳へのDIVEは禁止、書物の國のはずなのに、院内にあるのはニューロブックだけ。
ブックマークをつけても、読む気にはなれなかった。
今の私にできることといえば、発達障害の患者たちとチェスを指すくらいだった。
勝てると思った瞬間、必ず逆転され、チェックメイトを食らう。
どうやら、私はチェスには向いていないらしい。
ルドルフが「ルーク」と言っていたのも、偶然ではなかったのだろう。
それにしても、なぜ私は見捨てられたのか。
もう、USZの一員ではないのか?
傑士四叡の座を失い、日本合衆帝國の中枢から外れた今、
あの頃の活力はどこへ消えたのだろう。
やる気の欠片もない。
私はサイドパネルを展開し、日記を書き続けた。
ふと、自分の戸籍が気になって調べてみた。
そこには、存在しないはずの“姉”の名が記されていた。
私の名前は、消えていた。
――私は存在していない?
いや、存在している?
自問自答を繰り返すうち、自分のどうしようもなさに嫌気が差した。
これからどうすればいい。
私には、もう何も残っていない。
地位も、名誉も、金さえも。
あるのは、もはやデメリットに等しい“サラサ”という名前だけ。
誰もが私を知っていた。だがその名は、罵声と共に呼ばれる。
「反逆者だろ、近づくな」
「恥さらしめ、名前負けだ」
「サイボーグ? 気味が悪い」
的を射た言葉に腹が立ち、私は壁を殴って凹ませた。
そこへ看護婦が駆けつけた。面倒見のいい女だった。
――私、サラサさんに助けてもらったことがあるんです。
そう語り出した彼女の話は、私ではなく“姉”への感謝だった。
つらつらと、しかし心からの礼の言葉。
普通のお礼にすぎない。
――医療費は無償です。特別ですから。
ありがたい話ではあった。
けれど、私の心はどこか遠くにあった。
ただ、一人だけ話したい人物がいた。
「スペルトという奴に、用があるんだ」
そう言うと、フロントパネルが展開された。
「ごきげんよう、サラサくん」
「……久しぶりだな、スペルト」




