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どうしたらいいんだろう。
私は、どうやら夢を見ているようだった。
この世は偏見にまみれている。
何においてもそうだ。
自分の話を理解してもらえないからといって、その相手が愚者だというのか? 違う。断じて違う。
解釈の仕方はいくつもある。
だが、自分の知っている情報を淡々と述べ、伝わらなければ——それは大きな問題だ。
本来すべきは、相手が理解しているかどうかの確認である。
「わからないところ、あった?」
そう訊くのが率直というものだろう。
……もっとも、私を除いての話だが。
しかし、今はその相手すらいない。
訊きたいことは、まだ山ほどあるのに。
ああ、ニューライトよ。
なぜ消えてしまったのだ。
どこへ行ってしまったのだ。
どうか、私の問いに答えてはくれまいか。
心で念じる。
哀愁だけが、孤独の海に浮かんでいる。
いや、孤独ではない。
愛すべき三人が、まだいるではないか。
三人の行動を見つめながら、私は頭の中の画面を整理していく。
——なるほど、こういうことか。
気づいたときには、すでに遅かった。
画面は遅延していた。
二つの映像が四つに分かれ、さらに遅れていく。
何もできなかった。
やがて映し出される人物は四人。
そして、画面の数は膨れ上がり、十六となった。
勘弁してくれ。
夢の中でも、私は現実を見ているのか?
——待てよ。
これは夢なのだな。
認識するまでに、少し時間がかかった。
そう、これは現実ではない。夢だ。
ならば……私はその画面の中へと吸い込まれていった。
この目で見ることになるとは、思ってもみなかった。
通称「永遠の落下」。
あるいは「永久落下」と呼ばれる。
——林檎の落下、アンチニュートンとも。
この次元では、“方向”とは別にもう一つの方向が存在し、林檎はただ落ち続ける。
止まらず、止められず、止めさせてももらえない。
それが“永遠落下”だ。
永遠というものに、恐怖や疑念を抱くのは人の性。
大丈夫なのだろうか。
不安だ。心配だ。
それこそが、人間の本来の姿であり、思考とは防衛本能、そして絶対的な存在だった。
——西暦2500年。
ある男が現れ、「思考を排除すべきだ」と宣言した。
こうして“禁思法”が発令され、即座に施行された。
だが、そこにはある思惑が隠されていた。
考えないようにすればするほど、人間は考えてしまう。
だからこそ、何かに没頭し、心を占める必要があった。
一年後、彼は“瞑想”を推奨し、さらに三ヶ月後には“運動”を提唱した。
これで人類は不安に苛まれることはない——誰もがそう信じていた。
だが、“忘却”という存在が人々を苦しめた。
記憶の反対にあるもの、それが忘却だ。
人々は禁思法に反発し、「これは間違っている」と声を上げ始めた。
その男は火あぶりの刑に処されたが、奇跡的に生き延びた。
そして、火を纏いながらなお叫んだ。
「考えてはならない」と。
後に、彼の主張が正しかったことが、宗教学・脳科学・医学の三つの観点から証明されることになる。
彼の名は——




