喰ってはいけない 第9話「名前のない一日」
翌朝、とうまは目が覚めた瞬間から、どこかがおかしいと思った。
カーテンの隙間から射し込む光。部屋の匂い。時計の音。
それらすべては“いつも通り”だった。
けれど、自分自身の中だけが、少しだけズレていた。
(昨日、俺……どこに行ったんだっけ)
喉が渇いていた。胸の奥が、うっすらと痛かった。
左手のひらには、白い跡がひとつだけ残っていた。
指先でなぞると、ほんの少し――誰かの手に触れたような、そんな感触が蘇った。
学校に着いて、席に座った瞬間。
久遠がこちらを見ていた。
まるで、何かを“確認”するような視線だった。
「……大丈夫か?」
その問いは、あまりに曖昧だった。
「何が?」
「……いや、なんでもない」
いつものように話すくせに、何かが違っていた。
久遠は、とうまが“何かを忘れていること”に気づいている気がした。
昼休み、英語の教師がプリントを配ったとき。
とうまの席だけ、プリントがなかった。
「すみません、○○先生、僕の……」
そう言いかけたとき、先生が困ったように笑った。
「え?……君、今日来てたのか。なんだか、見えなかったなあ」
その一言に、とうまの全身がざわついた。
“見えなかった”。
冗談のように言われたその言葉が、ひどく引っかかった。
とうまは、その日一日、誰かと目を合わせるたびに、どこか“素通りされている”ような違和感を覚えた。
目が合っているのに、すぐに逸らされる。
話しかけられても、名前を呼ばれない。
まるで、“とうま”という名前だけが、教室から消えたようだった。
クラスのざわめきの中にいても、とうまの隣の空気だけが、わずかに浮いていた。
そこにいるはずなのに、どこか“空席”のように扱われている。
放課後、帰り道。
ガラスに映る自分の姿を、とうまは見つめていた。
そこには、いつもの自分が映っていた。
でも、少しだけ……輪郭が、ぼやけて見えた。
「……なんだよ、これ」
誰に届くでもない声が、喉から漏れた。
世界が、自分を少しずつ“見えなくしている”ような、そんな気がした。
笑ってみた。
けれど、鏡の中のそれは――まるで、知らない誰かの真似をしているようだった。