喰ってはいけない 第8話「名の残響」
祠の奥は、思ったより浅かった。
けれど、外の世界とはまったく違う空気が漂っていた。
風がない。音もない。
息を吸っても、肺に届いていないような感覚。
ただ、ぬるい霧が肌にまとわりつく。
“彼女”がいた気がした。
名を呼ぼうとして、喉が詰まる。
彼女の名前を、思い出せない。
昨日まで、確かに知っていたはずの響きが、舌の上で崩れていく。
「――どうして、来たの?」
声がした。
足元から、頭の奥から、祠の壁から。
どこからともなく響いた声。
「私は……もう、ここにいないのに」
振り返る。誰もいない。
けれど、誰かが確かに“ここにいた”痕跡だけが、空間に残っていた。
とうまは、一歩だけ前に進む。
白いワンピース。仮面の影。
それが“目の前”に立っていた。
目を凝らしても、顔は見えない。
けれど、口元がわずかに、動いた。
(ち……)
ちいさな、喉の震え。
そこで、止まった。
その声が何を言おうとしたのか、とうまには分からない。
けれど、涙が止まらなかった。
胸の奥がきしむ。
何かを、喪った気がした。
「――会いたかった」
その言葉だけが、自分の中から漏れた。
祠の外に出ると、風が吹いていた。
音が戻る。世界が戻る。
けれど、手のひらの感触だけが、まだ“触れていた”ことを覚えていた。