喰ってはいけない 第6話「残された痕」
男は、路地裏の古びた電柱に手を添えていた。
すでに誰も住んでいないはずの家。
けれど、何かが“あった”気配が、確かにそこに残っていた。
食卓の気配。曇った鏡。壁の汚れ。
それらを知っているはずの近隣の人々に訊ねても、「ずっと空き家だった」と首をかしげる。
(……またか)
男の目が細まる。
壁に残された落書きだけが、ぽつんと取り残されていた。
「……今回も、“存在そのもの”が……ですか」
後ろに立つ女が問う。
部下のひとり。冷静な口ぶりだったが、その指先はわずかに震えていた。
「形跡も、ほとんど残っていません。紙も、写真も、電子も……全部消えていて」
男は応えない。
ただ、静かに壁に触れる。
手袋越しの手のひらに、ほんの微かな熱のようなものが宿っていた。
「……それにしては、残りすぎてるな」
「え……?」
「痕がある。これは、ただ消されたわけじゃない。“忘れきれなかった”跡だ」
部下が言葉を失う。
“いなかったことになった”はずの空間に、説明できない残響が残っている。
それはまるで、消えかけた灯の最後の揺らめきのようだった。
「……まるで、“呼ばれてる”みたいだな」
男がぼそりと呟く。
自分でも理由は分からない。
けれど、その“空っぽの空間”に向けて、何かが手を伸ばしているような、そんな感覚があった。
──風が吹いた。
何もないはずの路地の奥、ほんの一瞬、“誰か”の影が揺れた。
男は、眉ひとつ動かさず、それを見つめていた。