喰ってはいけない 第15話「誰かの昨日」
「昨日のこと、覚えてるか?」
久遠の問いに、とうまは目をそらした。
「……何が?」
「放課後、校門のところで話しただろ。おまえ、ずっと空見てて、“もう迎えには来ないんだな”って……」
「……そんなこと、言ってない」
とうまの声は、迷子のようだった。
だが、久遠は確かに聞いた。
とうまが、誰かを待つように空を見上げ、誰にも届かない言葉を呟いたことを。
(あれは……とうまじゃなかったのか?)
その日一日、とうまはおかしかった。
教室で、ふと席を立って黒板の前に立ち尽くした。
誰にも向けられていない目。
何かを思い出そうとして、何も掴めずにいるような沈黙。
「……今日、教室で立ってた時間、覚えてるか?」
「なにそれ。……立ってた?」
「五分以上、動かなかったぞ」
とうまは、黙った。
自分の中で、何かが抜けているのを感じていた。
“昨日のとうま”が、自分じゃなかった気がする。
手にしていたペンの感触が知らないものに思えた。
教科書のページに、小さな文字が書き足されていた。
《 ちがう、わたしは 》
書いた覚えはない。
けれど、文字の曲線は、とうまの指に馴染んだ。
自分の中の“もうひとり”が、昨日を生きたのかもしれない。
久遠は、その沈黙を見つめていた。
何かがとうまをすり抜けている。
何かがとうまを“書き換えている”。
とうまは、自分の胸元をそっと押さえた。
「……最近、“自分”って言葉が遠いんだ」