ちんちくりん
「問いいち、子どもと羊と紙束を舟にのせて川をわたります」
受験生にとって、夏は重要な季節だ。
「子どもと羊を同時に舟にのせると沈みます」
夏を制すものは受験を制すという言葉はあまりにも有名だが、ごく一般的高校三年生である僕も、その言葉に従い、机に向かっている。
「対岸に子どもと紙束を同時に置くとイタズラされます。舟の上だとイタズラしません」
勤勉に問題集を開き、扇風機を二台机の周りに配置して勉学に励む。
「羊と紙束を同時に置くとたべられます。舟の上でも食べてしまいます、ひでーはなしだ」
暑くて堪らないが、大学に入るためだ。大学に入って、医者になって、それから、それから……。
「さて、いちばん少ない手数で舟をうごかして下さい。よし、いいだろう、わが力を知るがよい」
虚数はかけて実数になるが単体だと虚数であり現実の数字ではなく、つまり、あぁ、汗で問題集が……。
「うーん、うーん、あぁだめだ、羊が食べちゃう。こっちもだめ、子どもを食べちゃう」
愛は、じゃなかったiは二乗して一つになり、子どもが生まれ、家庭の責任を感じ、やがて夫婦中は冷え、それからそれから……、ん?
「あれ、羊は子どもを食べちゃう? 羊が子どもを? 子どもが羊、ひつじこども……こもどひつじ……こもどどらごんっ!!」
「うるさいっ!」
堪りかねて、俺は声をあらげた。
蝉が遠くで鳴いている。
強烈な太陽光が容赦なく入り込む部屋、中央にある小さなテーブル。
そこでドリルを広げながら、「いらいらしちゃ、やーよー」と、ポニーテールをふわふわさせながら幼女が失笑した。
「誰のせいで苛々してると思うんだよ」
「……地球温暖化によるヒートあいらんど現象?」
首を傾げる幼女こと、姪。
「違う、お前のせいだっ。地球のせいにするなっ」
「何をいう。勉強しろとカヨワイれでぃーにドリルを押し付けておきながら」
「お前が勉強してみたいって駄々をこねるからだろっ」
「はー?」
姪こと生意気な六歳児は、ふてぶてしく聞き返すと、
「言ってないよ」
「言った。確実に言った。そして駄々をこねた」
「いつのはなし」
「ついさっき言った」
「ついさっきって、何時? 何時何分何秒、地球が何回まわったときですかー?」
懐かしい無理難題。しかし予測の範囲内だ。
「三時、三十二分四十秒頃」
「地球が何回まわったときですか?」
「そんなのどうでもいいだろ」 さすがにそこまでは答えられないものだ。
六歳児こと瀬川陽菜子はフヒヒヒヒと悦に浸ると、
「イクナイ! 地球は大事だよ、にーちゃんみたいなごうまんな人間がいるから、地球は泣いているよ!」
名探偵よろしく人を指でさすもんじゃない。
「はいはい」
もう面倒になって、僕は背を見せつけ机に座り直した。子守りなど真剣にするもんじゃない。
「あーあ、ちゃんとやったらアイス食わしてやろうと思ったのになぁ」
途端に、だだだだだだと背後から足音。
「ほんとほんとほんとー!?」
ぷにぷにの頬を赤らめ、興奮しきった様子で瀬川陽菜子こと幼女は腕を掴んできた。鼻息がかかる。やれやれ。
「俺が嘘ついたこと、あるか?」
ぱぁあ、と幼女で六歳児で生意気な瀬川陽菜子は、興奮を昇華させたように目を細めた。
天を仰ぐ。
「いま、地球がちょっと微笑んだよ……」
「はいはい」
いそいそと戻っていく。
さぁて、どうしたものか。相手は小学生のドリル、こちらは高校生のドリル。どちらが早く終わるかなんて目に見えている。
僕は眉を下げつつ、シャープペンを握り直した。
2008年執筆




