差別に対して寛容と無関心
ああ、単位。ああ、卒業。さようなら。あと1年追加されますが、私は生きていけるのでしょうか……。
【差別に対しての寛容と無関心】
我々は差別について無関心でなければならない。何故なら差別が存在しない世界では差別について無関心なのが道理であり、よって我々の最終目標は無関心であるから。
そして、現存している差別については分類分けない同じ人間としての視点。つまり、人間の尊厳等の道徳的観点から批判が必要である。
差別に対する寛容というものはそもそも差別を肯定する差別行為である。寛容は我々の最終目標である差別の無関心へ移行する為の通過点であり、それ自体を善とするのは適切ではない。
勿論、これは差別においての寛容についてであり、無関心は寛容より優れていると言いたい訳ではない。差別行為を起点としたマイノリティへの寛容ではなく、自分一個人とは違うものに対しての寛容は善である。
国家においても同じである。マイノリティが被っている差別を解決する為の寛容は正しくない。元々国家の仕事は適切な法の規制と緩和、そしてその運営だ。本来当てはまるべき人物が当てはまらず不利益を被っているのであれば自然法に従い、当てはまるべき人物が当てはまる様に適切に法を緩和をするべきなのだ。
さて、この事を踏まえて世界で正しいとされている今の差別に対しての解決方法は適切といえるだろうか? 例えば男性と女性の雇用数を平等にする為に女性枠を作る。それに伴い本来雇用されるべきだった人間が雇用されず、本来雇用されなかった人間が雇用される。そんな世の中が本当に正しいと言えるのだろうか。
本当の平等とは男女、白人黒人関係なく同じ国籍の人間として純粋な能力による適切な競争が行われる環境ではないのか。
同じように白人黒人で分類分けし、黒人が酷い目に合ったら『黒人差別だ!』と騒ぐことは適切ではない。黒人差別を非難するのではなく、不適切な行動をした人間を適切に非難すべきであった。黒人白人関係なく全員同じ国籍の人間であり、また、その分類関係なくただの一個人でしかない。一個人が起こした犯罪行為を過剰に差別を差別されてる側が強調してしまうからこの様なことに発展する。
我々一人一人が一つの事象を差別というレッテル貼りをせずに差別はないものと看做し、善いものは善い。悪いものは悪いと適切に判断していく事が差別をなくす上で最も大切なことである。我々は寛容等といった差別を肯定するものに甘えてはならない。
我々は差別されてる物事に対して無関心。つまり存在していない普通のことであると認識し、その上で正しいものは正しい。間違っているものは間違ってると判断し適切な批判と肯定をしていかなければならないのだ。