03 援軍、からの雨
メイベル・クロシェの日常は、思った以上にハードモードだった。
ちょっと目を離せば、通学カバンの中にうごめく虫。座席にはゴミが置かれ、ノートにはラクガキが躍り、ロッカーを開ければ幼稚な悪口の書かれた紙切れがヒラリと落ちる。
(面倒くさ!)
そのつど僕は虫をつまみ出し、ゴミを捨て、ダメになったノートを一緒に取り直し、悪口の筆跡をしげしげと観察してゴミ箱に捨てた。
「めちゃくちゃ面倒! なんか僕の時と方向性が違うし!」
のどかな昼休み。
冬の中庭で昼食を取る物好きは、僕とメイベルの他にはいない。
「なんていうか僕の時はさ、突然ドロップキックかまされたりとかそんなんだったけど……」
「さらっと言うけど、それも大概だと思うわ」
「そうかな? 僕は野百合の谷でもっと過激な日々を、……いや、何でもない」
僕は言葉を濁したけれど、思えば自分でも、ちょっと変わったような気はしている。
虫やトカゲくらいなら平気になったし、体力だってずいぶんついたし、以前ほど神経質じゃなくなった。
崖にしがみついて草を採ったり、野鳥を捕って剥いて食べたり、真冬の渓流にダイブしたり。
そんな経験があるのは、この学校の中で僕くらいのものだろう。あんなメチャクチャに比べたら、学校なんてそう大した問題じゃない。以前は、あんなに憂鬱だったのに。
「それにしても、あいつら本当に暇人だよね。ネチネチ嫌がらせするヒマがあるなら、単語の一つでも覚えればいいのにさ」
メイベルへの嫌がらせの犯人は、探さずとも明らかだった。
ピンク・縦ロー・姫気取り、と三拍子そろった女子生徒「アデリーヌ・ヴィレル」。数日前の朝、ずぶぬれのメイベルに絡んでいった女子だ。
なんでも親が議員さんで、この学校にも少なからず寄付したりしてるそうなんでタチが悪い。
さらに、実行犯として取りまきの男子が二人。名前を覚える気がないので「グリ」と「グラ」で充分だが、この二人がメイベルをずぶぬれにしたのだという。玄関前の花壇に水をやるテイで、彼女に水を掛けたのだとか。
「……まあ、ただの水でよかったわ」
「よくないよ。ぜんぜんよくないと思う」
じつのところ、何をされても無言で溜め息をつくだけのメイベルも、僕からするとちょっと分からない。
この数日を一緒に過ごして気付いたことだが、メイベルにはおおよそ「怒り」というものがない。
そりゃあ現実的に反撃不可能だってことは、僕にも分かるよ。だけど目の前で嫌なことをされたら、眉をひそめて顔を上げるくらいの反応はあってもいい。
けれどメイベルは、何をされても黙ってうつむいているばかり。
ただただ圧倒的に、彼女の纏う空気は暗かった。
そんな彼女を、僕はもどかしく思う。
それにもったいないよ。ちらりと盗み見るメイベルは、やっぱり教室でダントツに一番かわいい。――あくまでも「教室で」だけどね。
昼休みの終了5分前を告げる予鈴が鳴り、廊下を行きかう生徒たちが足早になる。
「僕たちも戻ろうか。つぎ、体育だよね……」
「おおーい!」
ちょうどそのとき、声を上げて中庭に飛び込んできた男子生徒がいる。
「見つけた、フラジオレット!」
「何? ……だれ?」
「まじか! おんなじクラスじゃんか!」
突然の乱入者は大袈裟にのけぞってみせる。いかにも調子のよさそうな、茶髪の男子だ。
「俺、カルロだよ! 夏休み前のテストで、おまえに消しゴム借りたんだよ。やべー忘れたって思ってたら、おまえが『二つあるから』って貸してくれてさ! そのまま返しそびれてたんだよ」
「あー……」
僕は漠然と声を上げた。正直これっぽっちも記憶になかったが、僕の掌にコロンと乗せられた消しゴムは、たしかに僕の好きなメーカーのものだ。
「あの時は助かったよ。ありがとうな」
なんだよ、カルロ律義かよ。
こんな良いやつが教室にいて、なんで僕ボコられてたの? なんでメイベルは酷い目に遭ってんの? ――そんなモヤモヤが湧かないでもないけれど、そこはもう政治だ。人間関係はバランスゲームだから、カルロを責めるのも酷だろう。
僕たち三人は教室に戻り、それぞれ体操服を取って更衣室に向かう。
(体育なんか大嫌いだったけど、この数か月のサバイバルに比べたら……)
ダテに野生の令嬢たちと生活していたわけじゃない。今の僕には、学校の体育など子供騙しも同然だ。
そんなことを思っていると、背後でメイベルの声が聞こえた。
「た、体操服が……」
僕とカルロは振り返り、硬直した。
メイベルの手提げから、びたびたと水滴がしたたっていた。
「メイベル! ……っ」
しかも、今回はただの水ではなかった。かすかに匂い立つそれは、――牛乳だ。
あいつらやりやがったな、と思うが速いか僕の口は回っていた。
「ねえカルロ、僕おなか痛くなっちゃった! お腹も痛いし頭も痛いし、なんかもう全身痛いから体育休む!」
「お、おいおい」
「メイベル、僕の着なよ」
間髪入れずに、僕は自分のサブバッグをメイベルに突き出した。
「体操服。もちろん僕は着てないし、サイズもそんなに変わらないでしょ」
「で、でも……」
メイベルは明らかに困惑した。僕とサブバッグとを交互に何度も見る。しかしそこで始業のチャイムが鳴り、彼女はサブバッグに手を伸ばした。
◇
体育は持久走だった。
みんなチンタラ走ってるな。そんなんじゃ野百合の谷で生きてけないぞ。
グラウンドのすみっこで見守りながら、僕はひそかに安堵していた。
とっさに体操服を差し出したものの、この発言はアウトでは? と直後にヒヤッとしたのだ。けれど引くに引けずで、……拒否されていたら、僕まで貰い事故で大惨事だった。
それにしても、無傷の体操服姿のメイベルを見た、アデリーヌの顔と言ったら。
僕は胸のすく思いだった。ついでにグリとグラの顔にも、分かりやすく「なんで?」と書いてあった。
あの顔が見られただけで、充分メイベルに体操服を貸した甲斐があった。
(まあ、リーリエだったら即・殴りこみに行っただろうけど)
急にそんなことが思い浮かんで、僕はひとりで苦笑する。
もしリーリエがこの学校にいたら、か。――大騒ぎで殴りこんで、そのまま制服で体育に乱入して、ぶっちぎり一位でゴールテープを切るだろう。
その豪快な走りと笑顔で、なんだかみんなウヤムヤにされて大団円だろう。
メイベルは歯を食いしばり、真剣そのものの表情で走っている。
あ、にっくきアデリーヌを周回リードで追い越した。
アデリーヌは悔しそうに顔をゆがめたが、メイベルはお構いなしだ。追い抜いたのが誰かなんて、全く興味ありませんという様子。ちょっとカッコいいじゃん。
「……ん?」
頭上にポツリと来て、僕は空を見上げた。
いつのまにか、空はどんより曇っていた。さっきまで晴れていたのに、そう思う間もなくパタパタと雨が降り始めた。
メイベルがゴールしたのと同時に、大粒の雨が勢いよく地面を叩きはじめた。
「一旦そこまで! 全員、体育館に移動!」
先生があわてふためき、生徒たちが抗議とも歓声ともつかない声を上げる。持久走はそこで急きょ打ち切りになった。