02 いじめられっこの少女
春の訪れを待たずして、その時はやって来た。
学校から家へ、さらに家からこちらへと転送されてきた通達を開封し、僕と父さんは「ああ」とも「おお」ともつかない溜め息を漏らした。
「……進級できない感じ?」
「いや、そうと決まったわけではない。今から学期末まで出席すれば、出席日数は足りるそうだ」
学校を留年するなんて、そんな無様なことがあってはならない。
それに、父さんや姉さんはともかく、出来の良い兄さんたちからどんな目で見られるか分かったものじゃない。
「――王都に帰るですって⁉」
僕の急な帰郷に、リーリエは露骨にうろたえた。
「おかしいわ、そんなの話が違うわよ! これでお別れってこと?」
「ひとまず帰るだけだよ。また戻ってくるさ」
彼女の狼狽ぶりは意外なくらいで、僕は悪くない気分で馬車に乗り込んだ。
けれど「また戻る」とは告げたものの、実際のところは分からなかった。このまま戻らない可能性だって十分にある。
(……それならそれで、しょうがないかな)
客車の窓にもたれて、僕はため息をついた。
きっと、もともと住む世界が違ったってことなんだろう。
湿っぽくならずに出発できたのは、タイミングの問題もあった。ちょうど先週、僕はリーリエのせいで風邪をひいて寝込んでいた。
より詳細に言うならば、「真冬の魚って何してるのかしら⁉」とか言い出したリーリエが僕を道連れに渓流へダイブしたせいで、僕は熱を出して寝込んでしまった。そういう恨み……もとい経緯があった。
僕は王都に戻って、文化的で人間的な生活を送るのだ。
もうサナギを取ったり草を採ったり、野鳥を捕ったりしなくていいのだ。
貴族の子弟としての誇りと責任を持ち、とにかく将来的にえらーい肩書きを得るために勉強するんだ。
それ以外の価値なんて、知らなくていい。
馬車に揺られながら、そんなことを思った。
◇
久しぶりの教室は針のムシロだろう、と覚悟していたら、肩透かしを食らった。
どのクラスメイトも僕を見るなり軽く目を見張ったものの、すぐに無関心を装うように目を反らす。人の宿題を写すやつは作業に戻り、一時停止された雑談は何事もなく再開される。
僕に声を掛けてくるやつも、クスクス笑うやつもいない。僕はまさに空気として教室に受け入れられた。
(前は、こんなんじゃなかったぞ?)
ひっそりと最後列の席に着き、僕は安堵よりむしろ困惑した。
正直、不気味だ。――ぶっちゃけ僕は、虐められていたのだ。ランチルームでゲロったよりずっと前から、クラスメイトの数人に一方的に絡まれては、それをその他大勢が傍観するという状況に陥っていたのに。
そのとき、一人の女の子が教室に入ってきた。
その姿に、僕は思わず息を飲んだ。
女の子はずぶぬれだった。頭のてっぺんからつま先まで、足元に水滴をしたたらせるほどに。
「あーら、メイベルさぁん!」
ピンク髪縦ロールの女子生徒が、声を弾ませて席を立つ。
「それは一体どうされましてぇ? うふふ、水もしたたる美少女ですこと」
縦ロールの背後には、すかさず男子が二人ついてきた。ヒョロっとした赤髪と、コロッとした青髪のデ……ふっくら。あいつら僕を小突き回してたやつじゃん。今はこの縦ロールにはべらされてるのか? ちなみに僕は自慢じゃないが、クラスメイトの名前を把握していない。
ずぶぬれの女の子は何も言えない。
彼女は一歩後ずさったかと思うと、踵を返して教室から逃げ出した。
「あらあら、もう朝礼が始まりますわよ。メイベルさぁん!」
縦ロールが白々しく呼びかける。どこから声出てんだって感じの甘ったるい猫なで声だ。同調とも同情ともつかない湿った空気が教室に充満する。
(――最悪だ)
僕は察した。今は、あのメイベルって子が標的になってるんだ。
僕はうつむいて両手を握りしめた。
気の毒だとは思うけど、正直かかわりたくない。他人のトラブルに首を突っ込むなんてガラじゃない。ましてやせっかく出席を稼ぎに来たのに、出欠確認の前に教室を出るなんてバカなこと……。
「……ねえ、大丈夫?」
われながらバカなことをした。
床にしたたる水滴を辿り、僕は中庭にたどり着いた。メイベルは寒空の下、ずぶぬれのまま石のオブジェにちょこんと腰かけていた。
声を掛けるやいなや、彼女は警戒心に満ちた顔で僕を見た。わかる、分かるぞその気持ち。
「ああ、大丈夫だよ。大丈夫だから」
僕のほうも大丈夫しか言っていないが、そっと彼女のほうに腕を伸ばして、小さく唱える――うまくいくかな。
「〈乾け〉」
温かな風が立ち昇り、メイベルがハッと目を見張った。
制服の濡れた布地が明るい色を取り戻し、スカートが風をはらんでふわりと舞った。よかった、成功したみたいだ。
「えっと、僕もついこのあいだ川に落っこちたんだ。落ちたっていうか落とされたっていうか……いや、とにかくそれで勉強したんだけど」
「ありがとう」
メイベルは消え入りそうに呟いた。
ふわりと乾いた髪はやわらかな亜麻色。僕をおずおずと捕らえる、すみれ色の大きな瞳。
……なるほど、これはあのピンク縦ロールがやっかむわけだ。メイベルは、シンプルにかわいかった。
僕の顔認識機能が死んでいたわけではなく、僕と彼女は本当に初対面だった。
メイベル・クロシェは僕と入れ違いにやってきた転入生で、この学校の生徒にしては珍しく、貴族の子弟ではないという。
となると、この子はガチだ。ものすごく学力があるとか、もしくは魔術の素養があるとかで招致された子なのだろう。そのうえ見た目もかわいいと来れば、どうしたって悪目立ちしそうだ。
長い睫毛をふせて、メイベルはおずおずと言う。
「フレイ君、助けてくれてありがとう。だけど、私には関わらなくていい」
「どうして?」
「あなたを巻きこんだら悪いもの。……意地悪をされていると言っても、べつに怪我をするようなものでもないし、どのみち春まで待てばクラスが変わるわ」
けれど言葉とは裏腹に、彼女の纏う空気は重い。
それに「巻き込む」も何も、どちらかと言えば「僕が居なくなった割を食ったのが彼女」だと言えなくもない。
目の色が気持ち悪いだとか態度が生意気だとかで、今まで槍玉に挙げられていたのは僕だったのだ。それも理不尽な話だけどさ。
――と、伏せておく必要もないので、僕は率直に打ち明けた。
ついでに、出席日数を確保したらまた行方をくらますかもしれない、という旨も。
「だからさ、僕にできるフォローくらいはするよ。迷惑?」
「迷惑ではないけれど……」
「ありがと。じゃあ一時間目から、教室に戻ろうか」
僕はちょっと強引に会話を打ち切って、石のオブジェから立ち上がった。中庭を数歩進んで、振り返ってメイベルをうながす。
ちゃんと足音がついてくるのを確認しながら、漠然と思う。なんだか自分の言動が、自分じゃないみたいだ。
(なんか、お節介な誰かさんみたいだな)
教室を出たときから、誰かの姿が僕の脳裏にちらついていた気がする。彼女だったらどうするだろうか、なんて意識したわけじゃないけど、――それでも僕を叱咤して励ます声が、ずっと聞こえていたような気がするのだ。緑色の瞳の奥に明るい灯をともした、少し早口な女の子の声が。