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待つてゐる。

作者: 高野 真

 待っている。


 ただ、待っている。


 どれほど待っているのか、それすらも分からぬが。


 御下知を待っているのだ。


 身に纏うは未だ着馴れぬ筒袖、段袋。

 韮山笠を目深に被り、肩に下げるは三ツバンド。


 出立の朝、父は(それがし)に何と申されたか。

 今ぞ神君の御恩に報いる時、逆賊を膺懲し嫡男として武功を立てよと申された。


 それは片時とて忘れぬ。

 父が持たせ給うた、父祖伝来の脇差に誓って忘れてはおらぬ。


 だからこそ、御下知を待っているのである。


 あの朝―――。

 街道は川の流れに沿うて右へ左へ緩やかに曲がりつつ、野中に一本の細い筋を描いていた。

 そのわずかな道筋を、隊は縦列を組んで辿っていく。

 神君御出陣以来とも称される大陣容、黒漆の笠の群れが前も後ろもどこまでも続く様は、地を這う蟒蛇を思わせた。


 川面を渡る風は身を切るように冷たく、眼前を征く隊頭殿のマンテルを鳥の翼の如く膨らませた。

 されど我らの足取りは、まるで兎狩りにでも行くかのように軽かったのである。

 世情芳しからず、各地で薩賊共が不逞に及んでおるとは言え、公儀の前ではあくまで鄙の御芋、我が陣容を前には尻尾を巻くに相違あるまいと思うていた。それゆえ、三ツバンドには弾さえ込めていなかった。


 陽もようよう昇ってきた頃、何の前触れもなく隊列はその歩みを止めた。

 宿場を立ってまだ一刻も経たぬうちに異なことと思うた。

 川面から流れてきた靄が、兵どもの合間に入り込む。旗印を、馬を、大筒を隠していく。

 されど、某などにはどうにもならぬ。装束もそのままに、待つほかなかった。


 待って、待って、待った。

 靄は露玉を残して立ち去り、陽は正中し、やがて西へゆるゆると傾いた。

 握り飯こそ立って食うたが、昼七ツの鐘を遠くに聞く頃になると皆もさすがに草臥れる。

 銘銘にその場に腰を下ろし、何をする訳でもなく、ただ只管に待った。

 漣のように伝え聞こゆる話では、この先の橋を通せ通さぬでひと悶着起きているとの由。

 されど、某などにはどうにもならぬ。装束もそのままに、待つほかなかった。


 待って、待って、待った。

 しびれを切らしたか、隊頭殿が某を呼び出されて仰せ付けられる。

 ここよりおよそ一町の先、あれが小山の一本松の麓に立てば、先頭を征く大目付様までも見ゆるべし。

 物見に行くゆえ伴せよと。


 陽は間もなく西に連なる山の向うへ沈もうとしている。我らは茅の茂みを漕いで物見に向かった。

 わずか一丈ほどの高さとは言えその頂に立って彼方を見やれば、成る程、我が隊列の先頭までを視野に納められた。

 行く先には小さき村があり、辻があり、そしてその向こうに長橋が架かり川を渡っている。

 隊はどうやらその辻のあたりで足止めを食っているようである。馬上の大目付様の姿も見える。

 しかし、不穏なのは―――丸に十字の旗印、薩賊の影であった。

 橋の手前で、こちらを睨む大筒が一門、二門、三門。

 あちらこちらの茂みには、数十人ずつに分かれた小銃隊。

 獲物を狙う蛇が如くじっと身を落ち着けて動かず、わずかに使い番と思しき兵が各陣地を行きつ戻りつするばかりである。

 これは―――戦が始まるのではないか。


 其処許はそこで待って居れ。下知あるまで決して動くな。早まるな。

 膝が震える某にそう言い残して、隊頭殿は小山を滑るように駆け降りた。

 待つ。待つ。待つ。待つ。待つ。


 時をほぼ同じくして、


 薩賊の大筒が火を噴いた。

 車に載せられたままの大筒がその直撃を受け、天が落ちるほどの音とともに雲散霧消した。

 薩賊の小銃が火を噴いた。

 豆を炒るような音がして、立ち並ぶ兵が前から順になぎ倒された。

 火薬のはぜる、炎と、音と、煙の渦の中に、辺り一帯が飲みこまれた。


 某は、死んだ。如何にして落命したかは、不覚にも記憶しておらぬ。


 目を開けると、物見に出でたその恰好のまま、その場に突っ立っていた。

 鉄紺色の空に、星が散らばる。ぽっかりと浮かんだ、上弦の月。

 首や、腕や、胴の半分を失った朋輩の骸の群れが、帯のように連なり転がる。

 街道筋に沿って、どこまでもどこまでも転がっている。

 立ち込める硝煙の臭い、焼け焦げた木の臭い、血と肉と臓物の臭い。


 本隊はどこまで進んだのであろうか。あるいは、退いてしまったのであろうか。

 ともあれ、早々にここから離れねば残党狩りに遭う。

 しかし、―――我が身が寸分たりとも動かない。

 いったいどうしたことかと見渡せば、足元に転がる木偶がある。

 大筒に吹き飛ばされたか、腹から上を失い、襤褸切れのような惨めな姿である。

 ただしその腰の物には見覚えがあった。丸に剣方喰の家紋の入った、当家の脇差であった。

 そうか、某は死んだのか。そのとき初めて気がついた。


 されど、如何にすれば良いのであろう。

 生きては居らぬ、さりとてこれでは冥土にも行けぬ。

 こうしたときに武士とは弱いものだ。

 常に主君の、上役の御下知で動く。御下知こそが唯一の行動規範であり、己で考えるということはそもそも想定されておらぬ。

 窮した某の頭に、隊頭殿の言葉が渦巻いた。


 其処許はそこで待って居れ。下知あるまで決して動くな。


 ―――そうか、故に動けぬのか。御下知あるまでは。


 こうして、某はこの場に留まり続けているのである。

 痛くとも痒くともない、腹も減らぬ、雨が降っても濡れぬ、陽に灼かれても苦にならぬ。

 声を上げても誰にも届かぬ、道行く者も狐狸の類も、烏さえも某に気づかぬ。

 されど、某などにはどうにもならぬ。装束もそのままに、待つほかなかった。


 待っている。


 ただ、待っている。


 どれほど待っているのか、それすらも分からぬが。


 御下知を待っているのだ。


 ただ待つばかりの我が身を打ち捨てて、時代は過ぎていく。


 身を寄せていた松が伐られた。

 茅の繁れる原野は田畑になった。

 街道筋は拡げられた。

 村は町になった。

 田畑はやがて潰され、家々が並んだ。

 町は町を呑み込んで賑わいを増した。

 あんな戦など無かったかのように。


 某がいま立つは、とある家の六畳間である。

 代々の家人が、某に気づかず平穏に日々の暮らしを送る。

 某の声は届かぬ。某に御下知は届かぬ。


 それでも良いのかも知らぬ。

 所詮は時代の波間を漂う一枚の木の葉に過ぎぬのだ。

 しかし。このやるせなさを如何にしようか。


 だから。


 その家では長押にハンガーで服を吊るすと、ある一か所だけ毎回服が落ちる。


参加要件は以下のとおり。

【内容】「さみしさ」を含んだ短編もしくは詩。

【期間】11月25日まで。

【長さ】原稿用紙1枚程度から5枚程度まで。


(平成30年11月30日脱稿)

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