狭い山道を。
狭い山道を一人の盲の老人があるいていた。
男と私はその後ろを、その老人のちょうちんの光を手がかりに歩いている。
男は、「とろくせーなぁじじいは」と呟いた。
私は、何もいえなかった。だが老人に対して不快感は感じず、ただその盲いた眼で、どうやって地面を探り、私たちをこうやって道案内しているのか?というほうが気になっていた。
やがて、光が見える。山道の向こうにぼんやりと、明かりが見える。あれが旅館だろうか。
あそこで、名だたるミステリイ作家たちが集う会が行われるのだろうか。
「おい、じいさん見えたからもう道案内はいいぜ、とっとと帰りな」
作家を名乗る男の声の中には侮蔑が含まれていた。盲いた老人に道案内をさせたというのが、彼の何かを著しく傷つけたのだろう。
「いいええ、そういうわけにはいきません。あれが妖怪魔物の類の光だったらどうするのです。私は、ちゃあんとあなたさまが目的地に着くまで、案内をやめませんよう」
確かに、ついてから老人に熱い茶でも振舞わなければ、私としても気がすまない。だが男は違ったようだ。
「いいからよ、帰れよ!」
老人を突き飛ばそうとする男を、私は止められなかった。だが老人はひょい、とよけて、男はなにかに「ず」と埋まった。
「あんたも気をつけたほうがいい、心に闇を持っているのは、川に食われますからねえ」
川の泥だろうか。私は男に手を差し伸べた。
「ふざけんなよ、俺は誰の力も借りないよ!おいじじい、なんでよけた!」
「よけなくては、私が落ちますからねえ」
男は腰まで泥につかってもがいている。
私は「頭を押したらどうなるだろうか」と恐ろしいことを考えていた。
男はさらに泥に沈む。
私は男に手を差し出そうと、川べりまできて川に手を入れながら、考えてしまった。どうしようか。
知らぬ間に老人が、にやり、と笑った。音もなく笑った。
ず、と沈む。
男がわめく。
老人が笑う。
「死にはしませんよう、たぶんねぇ」
「おじいさん、あまり近づくと、あなたが落ちる」
川に近づく老人を、私は手で制した。
「大丈夫ですよう、あんた、川には音がありますでしょう。」
老人は男の肩を踏んだ。
「にくい男もおりますでしょう」
男ははっと、急に驚愕した表情をみせた。
「あんただったのか、あんただったのか!あんたの、あんたの作品だったのか!すまない、悪気はなかった、ネタに困ってて、道に落としたあんたの原稿、見えないからいいかって、だから、すまない、すまない」
男と老人にはなんだか浅はかならぬ縁があるようだ。
「いいんですよう。何をとられようが、この老人には残っていませんからねえ、ただ愛着はありますよう、あんたは料理の仕方がまずかった。あんなの、あんなのは私に対する冒涜ですよう」
老人は肩まで沈んだ男のあたまに、ぐ、と足をかけた。
「このお兄さんのものもとったでしょう。あんたはこのお兄さんにも踏まれる権利がありますよう」
「やめてくれ、やめてくれ」
男の声は、
やがて
聞こえなくなった。
私は手を川の水にちゃぷちゃぷと浸しながら、それを見ていた。
しばらくして、後ろから、車のエンジン音が近づいてきた。
運転手は私をみてえらく肝を冷やしたようだが、自分の氏名と行き先を伝えると行き先は同じだと答え、乗せていってくれることになった。
「おじいさん、この人が館まで乗せてくれます。あたたかい茶でも――」
老人はいなかった。
私はあわててあたりを探したが、男が「ず」と沈んだぬかるみも、老人も、ちょうちんも残されていなかった。
車の助手席にいた別の老人が「あんた、手が冷たいねえ、まるで川の水でも触っていたかのようだね」といった。
「そんなもんです。次は、ぼくが、」
老人はやさしく強い声で言った。
「このあたりには妖怪がでてねえ、わるいものを川にひきずりこむ河童さ。あんた、会ってしまった、でも無事だった。それはいいことだよ、ね」
「はぁ…」
老人も一緒に埋まってしまったのだろうか。
そのあと、男の死体も老人の死体も、出ることはなかった。