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/しあわせ


---しあわせ


 夏休みはもうすぐそばまで来ていた。さっき着替えたばかりの制服のカッターシャツには、もう汗のシミができていた。時折涼しい風が頬をなでるように吹き抜けていく。あぜ道を自転車で過ぎて、大きな木の近くにある家の前で止まる。表札に書かれた杉浦すぎうらという字が、わたしは好きだった。というより、その人が書いた字がわたしは好きだった。一休みするように、わたしたちが大神おおかみ様と呼んでいる、一際大きな、年を取った木の下の木陰へ入った。

 暫くして、扉の開く音がした。

「おはよ、沙代さよ

「おはよお」

 のんびりとした口調で、沙代はわたしの方へ駆け寄ってきた。暑苦しそうな長袖のカッターシャツが、わたしにまで熱気を放ってくるようで鬱陶しい。

「ほら、行くよ」

 わたしは肩に掛けていた鞄を前かごに入れて、後ろに乗るように沙代を見る。はーい、と返事がしたかと思えば次の瞬間、自転車の後ろの方にずっしりとした重みを感じて、彼女が後ろに乗ったことがわかった。沙代は小柄で細身だし、体重も割りと軽い方だけれどやはり自転車に乗せたりするときにはそれなりの重みを感じる。それをこの間彼女に言ったら、脳みそがつまりすぎてて重く感じるんだよ、とわたしの発言を咎めるような口調で冗談っぽく返してきた。

「んじゃ、出発しまあす」

 足で地面を蹴って、ペダルをこぎ始める。

 この辺りはずっと田園風景が続くから、降り注ぐ暑い日の光を遮ってくれるものは何もない。申し訳程度にしか道も舗装されていないため、大小さまざまな転がっている石をタイヤで踏んづける。そのせいで自転車はよくがたがたと音を立てながら揺れた。時折緩い坂をのぼったりしながら、わたしは通っている学校まで必死でペダルをこぐ。その後ろで、沙代は笑いながら涼しいね、とよく嫌味をこぼすのだった。

 汗だくになりながら、わたしはようやく通っている高校に着いた。正門から自転車置き場までには細い通り道があって、その道の両サイドにいっぱいに青葉をつけた木々が並んでいる。わたしはその道を通るのが好きで、特に夏場は生い茂った葉の隙間から零れる日差しが宝石みたいにきらきらと木陰に落ちて光っているのがきれいで、その上を自転車で通り過ぎていくのが密かな毎日の楽しみだったりする。

「遅刻かと思ったよ、焦ったあ」

 胸に手をあてながら、沙代はほっと息をついた。

「あんたが途中で落ちそうだからスピード下げてって言ったからじゃん」

「そうだけど……。でも由梨ゆりも悪質ドライバー! とか言って変なこぎ方したじゃん」

 負けじと言い返す沙代に圧されながら、今回はわたしのいたずらが過ぎたんだと渋々反省する。沙代はそれに満足したように腕を組んで、わざとらしく偉そうに笑って見せた。腹が立ったので、教室に続く廊下を歩いているときに、足を引っ掛けてやったら、思いのほか勢いよく前のめりに沙代が転んで、更にまた怒られてわたしが謝るはめになってしまった。

 「そういえばさあ、どうして沙代ってずっと長袖なの? 高校入る前も夏場はそれだったの?」

 朝のショートホームルームまでにはまだ余裕があったので、鞄を自分の席に置くなりお喋りタイムがはじまる。教室にはもうほとんどのクラスメイトがそろっていて、多分見る限りまだ来ていないのは不登校の女の子と最近風邪をこじらせたらしい学級代表くらいだった。

「ううん。ずっと長袖だったわけじゃないよ。半袖着なくなったのはちょうどここに入る前くらいから」

「じゃあ結構最近じゃん」

 意外な返答にわたしは思わず目を丸くさせた。

「入学する前にちょっと腕におっきな火傷しちゃってさ。恥ずかしくてその部分出すの億劫になっちゃって」

 沙代は神経質に腕を擦りながら、苦笑を浮かべた。

 そういえば、私服も腕の出るようなものを着ている姿をわたしは見たことがなかったことを思い出した。夏のプールの授業も出ていない。それほど大きな火傷だったんだろうかと、可哀想に思った。わたしはそんな痕が残るような大きな怪我をしたことがないから、その傷跡をコンプレックスとして抱いてしまう気持ちはいまいちわからなかったけれど、本人からしたらそれはとてつもなく重要な問題なんだろうとなんとなく気がついた。

 そういえばさ、と次の話題に移ろうとした瞬間、タイミング悪く担任が教室に入ってきた。どうやら予鈴はもうとっくに鳴っていたみたいだ。じゃあね。と言ってわたしは慌てて自分の席についた。

 わたしの席は一番後ろの窓際で、誰もが羨む特等席だった。窓からは学校のグラウンドが見渡せて、授業中暇なときは他の学年やクラスが体育の授業を受けている姿をよく眺めるのだった。

 「おい、及川おいかわ

 不意に名前を呼ばれて、ぼーっとしていたわたしは面食らった。

「なんですか?」

 慌てて担任の方を向く。クラスの何人かがくすくすと笑っている声が聞こえて、少しだけ恥ずかしくなって目を伏せる。

「今日休みの黒井くろいにこの前みんなに配った奨学金についての書類届けてほしいんだよ。もう締め切り明後日だからそろそろ返事ほしくて」

「委員長の家ってわたしどこか知らないんですけど」

 予想もしていなかった頼まれごとに、ばつが悪そうにわたしは顔を顰める。

「案外近くなんだよ。放課後俺んとこに来い。職員室にいるから。わかったな? んじゃみんな次の授業の準備始めとけ」

 有無を言わせないというような表情に、わたしは渋々「はあい」とやる気のない返事を返す。及川どんまあい、というクラスの男子の合いの手が入ったが、無視することにした。

 窓の外を見つめながら、ため息をつく。クーラーを入れているから窓を閉め切っていてあまり聞こえないが、蝉が更にうるさく喚いているのがわかる。眩しく太陽に照らされているグラウンドは焼けたように熱を持ってるように見えるし、熱された窓ガラスに触れただけで、その外の暑さが伝わってきた。


 「沙代、帰ろー」

 やっと最後の授業も終わり、帰りのホームルームも担任に絶対に職員室に来るようにと脅されながらもなんとか終えることができた。鞄に予習する分の参考書とノートを突っ込んで、沙代の方へ向かう。

「あれ? 職員室寄らないの?」

 沙代は帰りの準備をしながら、拍子抜けしたように訊いてきた。

「やっぱり行かなきゃだめかなあ」

「行きなさい。人助けだと思って。わたしも黒井くんの家についていくから」

 気合いを入れるように背中を叩かれて、わたしは思わず肩を落とした。

「スケールのちっちゃい人助けだなあ……」

「文句言わないの」

 ぶつぶつと愚痴るわたしの背中を、今度は参考書やら教科書やらがびっしりと詰まったであろう、かなり重量感のある鞄で勢いよく殴られた。わたしはよろけながら、「じゃあちょっと待っててね」と告げて職員室へ走っていった。

 黒井くんの家は、わたしの家の裏側にある小さな小屋を越えたすぐ近くにあると教えられた。本当に案外近くなんだな、と感心しながらプリントが数枚入った茶封筒を折らないように丁寧に鞄の中へ入れた。

 「お待たせー」

 教室に沙代を迎えに戻ると、そこに彼女の姿はなかった。規則的に並べられた机のひとつに、沙代は座っていつも待っているのだけれど、なぜかいない。わたしは不思議に思って廊下を見渡してみるけれど、誰もいない。

「あれ? おかしいなあ」

 わたしはスカートのポケットから携帯電話を取り出し、アドレス帳を開きながら三組の隣にある水飲み場の方まで向かってみる。沙代のアドレスに「今どこ?」というメールを送った。

 水飲み場に着いたのはいいものの、そこにも彼女の姿はなかった。水飲み場は一クラス分くらいの大きさがあって、十数人程度が座れるような大きな木のテーブルと椅子が置いてある。脇には水道と冷水機があって、出入り可能のベランダもある。

 わたしはベランダに出ると、長いすの上に立って手摺りに凭れ掛かりながらグラウンドを見つめた。部活動に励むいくつかの運動部の姿があって、さまざまな掛け声が聞こえてくる。ゆっくりと陽は傾きかけていたが、それでもまだグラウンドは暑そうだった。蝉の声は弱まりながらも未だに鳴き続けている。四階のベランダは風通しがいい。夏独特の涼しい風がひっきりなしに入りこんできて、体育のあとこの空間にくると、暑さなどすぐに吹き飛んでしまう。

 髪を風に遊ばせながらソフトボール部の練習風景に見入っていると、いきなり携帯が震えた。わたしは慌てて携帯を開くと、沙代から電話が掛かってきていた。

「もしもし?」

 通話ボタンを押して、携帯に耳を押し当てる。

「ごめんごめん、ちょっとトイレに行ってて」

 あはは、と電話越しに沙代が申し訳なさそうに笑ってるのがわかった。

「別にいいよ、それより今どこ?」

 わたしが質問した瞬間、いきなりぶちっという落ちがして、何も聞こえなくなった。怪訝に思って、携帯の画面を見てみると、通話終了という文字が目に入った。電波でも悪かったのだろうかと、もう一度沙代に電話しようと瞬間、いきなり背中を強く押された。

 汗ばんでいたせいで、手摺りを掴んでいた手が軽く滑った。途端にバランスを崩して、前のめりに倒れそうになったが、慌てて椅子からおりてなんとか落ちずには済んだ。

「びっくりしたあ……」

 わたしが言おうとした台詞が、なぜか後ろ側から聞こえた。半ば睨みがちに振り返ると、そこには驚いたように目を見開いている沙代の姿があった。途端にわたしは拍子抜けして、さっきまで立っていた椅子に座り込んだ。

「なんだ沙代かあ、おどかさないでよね」

 ほっと息をつきながら、携帯をポケットにしまう。

「ごめんね、そんなに強く押すつもりじゃなかったんだけど」

 沙代は申し訳なさそうに肩を落として俯いた。その姿があまりにも可愛らしくて、わたしは沙代の手を握りながら「いいよ、気にしてないから」と微笑んだ。


 「へえ、黒井くんの家ってそんな近くにあったんだ」

 沙代を後ろに乗せながら、わたしは朝きた道をたどっていく。夕日がきらきらと辺りを照らして、眩しかった。学校を出て二十分も自転車をこぎ続けると、おなじみの田園風景が広がっていく。畑と田んぼばかりが広がって、それを囲むように大きな山がひっそりと存在していた。斜陽を隔てるような大きな建物は何一つなく、背の低い民家がぽつぽつと建っている。そのせいでわたしはいつも眩しさに目を細めて自転車をこがなければならないのだ。

「沙代の家、通り過ぎちゃうけどついてくるの?」

 彼女の家の目印となる大神様の木が見えてくると、わたしは再確認するように訊いた。

「うん。すぐ傍だしね。それに由梨はわたしがいないと寂しそうだから」

 茶化すように答える沙代にわたしはばあか、と返して笑った。

 わたしの家の前で自転車を留めると、そこからは歩くことにした。家の裏からの道は、舗装が行き届いていないため、自転車で進むのは一苦労だからだ。沙代は一緒に小屋の脇を歩きながら、たまにはこうして歩くのも楽しいね、と足元の小石を蹴りながら呟いた。


 黒井くんの家は割と大きな一軒家で、こんな田舎には似つかわしくない洋風の洒落たデザインだった。わたしは感心しながら、インターホンを押す。玄関の周りにはガーデニングが施されていて、可愛らしい子犬や小人の置物も置かれていた。

 何分か待っても、誰かが出てくる気配はなかった。わたしと沙代は顔を見合わせてから、もう一度インターホンを押した。やっぱり誰もいない。

「留守なのかな? 風邪ひいてるならいるはずなのに……」

 沙代は玄関の近くの窓を覗き込んで誰かいないか確認していた。わたしは再度インターホンを押して、辛抱強く待ってみるものの、やはり誰も出ない。

「郵便受けに入れてたら気付くよね?」

 わたしは鞄から茶封筒を取り出すと、玄関の近くの郵便受けにそれを入れた。

「じゃあ帰ろっか」

「うん」

 沙代は何度かちらちらと黒井くんの家を見てから、先に歩き始めていたわたしに駆け足で追いついてきた。

「ちゃんと気付くかなあ」

 相変わらず心配そうに沙代はわたしの顔を覗き込んでくる。沙代のこういう生真面目さをわたしは持っていないから、時々そんな心配ばかりしてよく身体が持つなと感心してしまう。

「大丈夫でしょ、多分夜にはみんな帰ってくるって」

 沙代を安心させるように、わたしはきっぱりと断言してみせた。

 わたしの家と黒井くんの家の間にある古い小屋を通り過ぎるときに何か小さな物音がした。その瞬間沙代はびくりと肩を震わせた。きっと中に置いてあったものが倒れたのだろう。人一倍怖がりな沙代はぴったりとわたしに引っ付いてきた。

「でもさ、あの小屋って誰の所有物なんだろうね」

「昔からあるけど、わたしは知らない。でもいきなり音がするからびっくりしたあ……」

 するりとわたしの腕に沙代は自分の腕を絡めてきた。沙代は恨めしげに小屋を一瞥するなり、つんとそこからそっぽを向いて、急かすように歩くスピードを速めた。

 小屋は本当に古臭くて、もう腐ってそのうち崩れてしまうんじゃないかというくらい、柱や壁の木はぼろぼろだった。強い風が吹けば不安げに軋んだ音を立てていた。わたしが物心ついたころにはもう既にあった小屋なのに、自然とその持ち主を目撃したことはなかった。わたしはそれをごく当然のことのように思って、きっと持ち主はこの小屋を残してどこかへ引っ越したか、もしくは死んでしまったのだろうと考えていた。

 沙代を家まで送ってから、わたしは自分の家へと帰った。


 あれから何日経っても、黒井くんは学校へくる気配を見せなかった。担任もそのことには積極的に触れず、生徒からそういった質問があれば風邪をこじらせている、と手短に答えるのだった。奨学金のプリントの返事が、締め切りに間に合ったのかどうかわたしにはわからなかった。

 夏は本格的に暑さを増して、日に日に真っ黒に焼けていく運動部の人たちは口々に今日の練習メニューの愚痴を零していたりした。

 そんなある日の昼休み、沙代は黒井くんのことが好きかも、と告白してきた。あまりにも急な告白に身構えていなかったわたしは、どうして? と何度も沙代に質問攻めをした。

 「なんで? 沙代、あんまり黒井くんと話したことなかったじゃない」

「だって遠くから見てて、いいなあって思ってただけなんだもん」

 沙代は照れくさそうに笑っているが、わたしには彼女の言葉にあまりにも信憑性がないように感じて、困惑するばかりだった。

「それにね、この前由梨と一緒に家に行ったときから、わたし密かに何度かお見舞いに行ってるんだ」

「沙代が?」

「うん」

「なんでまた」

 目を丸くさせながら、わたしはじっと沙代の顔を見つめた。

「だって本当にずっと休んでるんだもん。気になっちゃって。奨学金の紙も黒井くんから預かってわたしが先生に渡しといたの」

 わたしは銜えていたお箸を思わず落としてしまった。あの沙代がこんなにも積極的に行動しているのが信じられなくて、眩暈がした。

 わたしと沙代は昔から仲が良くて、所謂幼馴染というやつだった。保育園と小学校も一緒で、小学校ではクラスが離れても家が近所ということもあって、何の問題もなく六年生になっても仲は良いままだった。ただ、中学校にあがる直前に沙代の親の都合で、引っ越さなければならなくなってしまった。引越し先は九州の方らしく、わたしたちは嫌々離れることを余儀なくされた。三年間、お互い連絡を取り合うこともなく、わたしは徐々に沙代のいない生活に慣れつつあった。

 そして、高校に入ってクラス名簿を見ていると、杉浦沙代という名前を見つけた。半信半疑のままわたしはクラスに行ってみると、そこには本当に沙代の姿があった。小学校のころよりも幾らか背も髪も伸びていて、彼女らしい小柄な体系と肌の白さですぐにそれがわたしの知っている杉浦沙代だとわかった。沙代は相変わらず小学校のときと変わっていなかったが、幾分どこか影を落としている部分もあるように見えた。九州の方で何かあったのかと一度問いかけはしたものの、彼女は薄く微笑んだだけで何も答えなかった。それからというもの、会えなかった三年間を埋めるように、わたしたちはずっと一緒に過ごすようになって、今に至るのだ。

 だからわたしは沙代の性格のほとんどを知り尽くしていた。人見知りをすることも、慣れていない人の前では引っ込み思案なところもだ。だからこそ、その沙代の告白をわたしはまだ信じられずにいた。

「今日もね、その黒井くんの家にお見舞いに行くんだ。あ、由梨は来ちゃだめだよ? なんか恥ずかしいから」

 頬を赤くさせて、軽くマスカラをする程度のお化粧をしている沙代はあまりにも可愛くて、わたしの知らない別の女の子を見ているようだった。

「恥ずかしいって、二人でやましいことしてないでしょうね?」

 茶化すようにわたしは沙代の頭を軽く叩く。沙代はしてないよお、と笑いながらたまご焼きをお箸でつついていた。

「まあ、沙代が本気ならわたしは応援するけどね」

 食べ終えたお弁当箱の蓋を閉じてを鞄にしまいながら、いじわるく彼女を見つめた。

「もちろん、本気です」

 息巻いてきっぱりと勢いよく言い切る沙代の姿を見て、わたしは思わず笑ってしまった。

 夏休みがようやくやってきた。長ったらしい校長の話を聞いて、生活指導の先生の夏休みに関する諸注意を聞き流して、やっと修業式が終わった。クーラーも扇風機もない体育館に全校生徒が入るのだから、なんとも言えない熱気が充満する。室温も並大抵の暑さではなく、ほとんどの生徒がうちわやフェイスタオル片手に流れ落ちる汗をぬぐったり風を送ったりしていた。


 「やっと夏休みだねえ」

 一学期最後のホームルームを終えるなり、沙代は浮き足立った様子でわたしのところにやってきた。

 結局黒井くんは一学期の後半は一度も学校に来ることはなかった。沙代は何度かお見舞いのときの話をしてくれたが、病状やどうして学校に来れないのかという問題には触れなかった。わたしも、何か口外できない深刻な秘密があったりするんだろうと、自らその話題を持ち出すようなことはしなかった。

「夏休みっていっても……課題を終わらせる自信がない」

 机に突っ伏しながら、わたしは課題の一覧表と睨めっこした。わたしはいつも夏休みの終わりに宿題を終わらせるタイプなのだけれど、高校の課題の量は小学校や中学校とは比べ物にならないくらい多かった。ずらりと並んだやらなければいけない課題の山に、わたしは早くも限界を感じた。

「大丈夫だって、わたしも手伝ってあげるから。それに、欠点者課題は逃れたんでしょ?」

 沙代がわたしを励ますように肩を叩く。

「ぎりぎりでね」

「なら良かったじゃん。七欠とかいう人もいるらしいから」

「そういうあほじゃなくて本当に良かったよ」

 ため息をつきながら、わたしは一覧表と成績表を二枚重ねて鞄に乱暴に突っ込んだ。


 夏休みがそんなに嬉しいのか、今日の沙代はいつもよりもハイテンションで、とても浮かれていた。もう当分は来ることがないであろう校舎をあとにしながら、沙代は帰り道にある小さな雑貨屋さんに寄りたいと言ってきた。

「ちょっと買いたいものがあって」

 相変わらず長袖を着た沙代は、暑そうにしながら額に浮き出た汗を拭っていた。

 自転車置き場から正門へ続く細道を、自転車を押しながら進んでいく。葉の生い茂った木々から蝉の声が飛んでくる。それに負けないくらいの大きさで、下校途中の生徒たちのお喋りする声が重なった。半袖に短いスカート、裾のまくられたズボン。少しでも暑さから逃れようとみんな制服を着崩している中で、沙代だけが長袖を着ているのはかなり浮いているように見えた。それでもわたしは何も言わずにいた。女の子特有のデリケートな質問をする勇気はまだ持ち合わせていなかったからだ。

 「お待たせ」

「何買ったの?」

 お店のロゴが入った小さな紙袋を持って、沙代はわたしのところへ戻ってきた。わたしはかわいらしいデザインのネックレスが並ぶ棚から目を話して彼女に問いかける。

「えっとね、リボンと真っ白のレターセット」

 紙袋の開いた部分に貼られたセロテープをはがして、さっき買ったばかりのものを見せてくれた。本当に真っ白の、飾り気のない便箋と封筒が目に入る。こんな質素なレターセットを買うなんて、沙代にしては珍しい。そして、それとは対照的にレースのような、薄ピンク色のリボンはまさに沙代の趣味が表れているものだった。

「もしかして、その便箋で黒井くんにラブレター書くとか言うんじゃないでしょうね?」

 ふと思いついて、わたしはにいっと口角をあげて笑みを浮かべながら、いたずらに問いかける。すると沙代はすぐさま真っ赤になって、違うよ、と否定した。

「本当に? 怪しいなあ」

 黒井くんに夢中になった沙代を見ながら密かに嫉妬していたわたしは、ここぞとばかりに彼女をいじめる。

「違うもん!」

 むきになったように沙代はそう言い切って、由梨のいじわる、と付け足してきた。

「ごめんごめん。ちょっとからかいたくなっちゃって」

 膨れっ面をわたしに向ける沙代を宥めるように、手を合わせて謝ってみたけれど、沙代はそっぽを向いてしまった。そして、そのあとにぼそりと小さな声で、「ジュースおごってくれたら許してあげる」と呟いた。

 そんなことならお安い御用、とわたしは彼女の小さくて細い腕を掴んで、店を出た。


 夏休みははじまったばかりで、その長い期間の休みの間に起こる出来事を、わたしは予想もしていなかった。

 気がつけばわたしは沙代以上に浮かれていて、夏休みにしたいことを密かに心の中でリストアップしたりもしていた。日増しに焼けていく肌に喜びを感じながら、胸を膨らませる。

 うるさく鳴き続ける蝉に圧されるように、儚い命が尽きていく存在があることを、そのときはまだ全く知らなかったから。


/しあわせ、了

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