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わたし宛の遺書。ところどころ赤黒い、乾いた血がこびりついていて、真っ白の空白の部分に細い、華奢な薄い字が並んでいた。そのときの状況をリアルに物語るような便箋の汚れとは不適切なくらいに、その筆跡はあまりにも落ち着いていて、わたしは違和感を覚えずにはいられなかった。
携帯電話のメールの受信ボックスを開いて、唯一保護を掛けている一通のメールを開く。薄暗い部屋の中で明かりが点いているといえば携帯のバックライトくらいで、画面を見ているとなんだか目が痛くなった。
今から死にます。
淡々と綴られたその一文を、わたしは何度読み返しただろうか。記号も絵文字もない、淡白で機械的なその宣言を、わたしは何度口に出して呟いただろうか。メールのアイコンには、ちゃんと返信したことがわかる矢印のマークがついていた。わたしがあのとき必死になって何十通も送ったメールを、彼女はちゃんとすべて見たかどうかさえ、わたしにはわからない。
傷は日を追うごとに増えていって、落ち着いているときに改めて見てみればそれはいびつな物体以外のなにものでもなかった。手首から関節にかけてまで無数にカッターで切りつけた傷跡。傷の数を数えるのも億劫になりそうなほど頻繁に、毎日のようにわたしは手首を切っている。それは死ぬためでも生きるためでもなく、ただ死んでしまった彼女を理解するために、だ。
カッターの刃をゆっくりと手首に押し付けて、ぐっと刃先に力を込める。肉に埋まるように刃先は皮膚に囲まれて見えなくなってしまう。更に力を込めると、ちくりとした痛みを感じた。その痛みをゆっくり味わうようにしながら切っていく。深く切れば切るほど、ぷちぷちと脂肪だか何だかわからない、皮膚の奥のものが切られていく音がした。もっと力を込めれば今度はぎちぎちと音がして、先ほどよりも刃先が深く埋まっていることがわかる。五センチ程度切ったところで、カッターを離した。すぐさま血がじわりと傷口から出てきた。雫みたいに、丸い形をして血が一本の傷からいくつも出てくるのだ。
彼女に対してさまざまな疑問と猜疑心を抱いたまま、彼女が死んでから二度目の夏を迎えた。一体何匹集まればこんなに大きい音が出せるのかと考えてしまうほど、頭の中を掻きまわすように蝉がうるさく鳴く。わたしの住んでいる町には山がすぐそばにあって、その山の中に、あまり地元の人々は近寄りたがらなかった。その理由のひとつに自殺の名所として有名な滝があることが挙げられるかもしれない。眩暈を起こしてしまいそうなほどの暑さを助長するように、夏中、蝉は鳴き続けるのだ。流れる汗が疎ましくて仕方がない。
最近は狂ってしまった歯車をどうやったら元通りにできるのか、何をすればいつものような日常を迎えられるのか、そのすべばかりを考えてしまう。血塗れの遺書を何度も読み返したけれど、もちろんそこに何のヒントも書いてはいなかった。もう一度あの頃に戻れるのなら、どこからやり直せばいいのかすら検討がつかなかった。
自殺の名所である朝露の滝で、また誰かが死んだというニュースが飛び込んできた。それも、自殺ではなく誰かに殺されたのだという。わたしの耳を震わせたのは、その死に方だった。
目まぐるしく、何かが変わっていく様子を、わたしはただ見つめているだけだった。なくなってしまったものを、再び取り戻すにはもう手遅れだということに気がついていたからだ。