1話 迷いの森
木々の隙間から差し込む太陽の光が、森の中に立ち込めた霧をきらきらと輝かしている。
神秘的な光景の中で動く一つの影がある。
「おはようウォル」
青年の隣で寝ていた、美しい毛並みの狼を、青年は優しい瞳で見つめながら撫でる。
狼も目を覚まし、済んだ瞳で青年を見つめると、嬉しそうに尻尾を振ってペロペロと顔を舐め始める。
「ははは、わかったわかった。すぐに食事を作るよ」
森に生えていた蔦を、編み込んで作ったハンモックから青年は体を起こす。
同時に狼は音もなく大地に降り立つ。
その美しい銀の毛並みが、差し込んだ木漏れ日を反射して、輝いているように見える。
青年はその美しい輝きに目を奪われかけたが、ぐるる…… という狼の催促で朝食の準備に戻る。
「今日は昨日獲った魚を燻しておいたから、それを使って何か作るよ」
青年は慣れた手つきで石で組まれた窯に火を起こす。
燻製に使っていた炭を利用して火種を作り、細い木切れに炎が起きて、薪がパチパチと小気味いい音をさせていく。静寂に包まれていた神秘的な森の中に、人間の生活の気配が広がっていく。
青年はこの森で暮らし、最初こそ火を起こすこと一つで難儀していたが、今ではご覧のように何事も無いかのように炊事をこなしていく。
黒曜石を割って削り出したナイフで器用に野菜や木の実を加工していく。
森の中で手に入る物なら、青年はどんなものでも利用する。
「燻製肉と野菜のスープと出来立てほやほやの燻製魚焼き、それにいつものパンもどきっと」
小麦に似た植物の種子とあく抜きをした木の実をつぶしてまとめて鳥の卵も混ぜて薄く延ばして焼く。
簡単に書けばこうなるが、実際にはまともに食べられる今の物を作り出すまでは苦労の連続だった。
今では香草などで風味付けをして味の向上がなされている。
「魚の身をほぐして野菜と合わせてこれで巻けば……おお、見た目はいいな。
ウォルー! 出来たぞー!」
銀狼ウォルの器には青年よりも多くの肉と魚、それに野菜をごった煮したものがよそわれている。
青年が呼び出してしばらくすると、茂みから狼が飛び出してくる。
その口には朝食前の腹ごしらえ代わりに捕らえてきた鳥が咥えられていた。
「おお! よくやった! 先食べてていいよ! 血抜きだけやってくる!」
青年は嬉々としてその獲物を水場へと運ぶ、血の一滴も無駄にしないように器に受け止めてつるしておく。
「いやー、今晩は御馳走だぁ! ありがとうウォル! とりあえず、朝食を……いっただきまーす」
ウッドチップの香ばしい香りが魚の身に刷り込まれ、野草やキノコなどと合わせてホカホカのパンもどきで包まれて口に飛び込んでくる。
「おお、想像以上に美味しいなこれ! また川まで降りるやる気が出る!」
「ウォフ!!」
ウォルもガツガツと食器にかぶりつくように食事に夢中になっている。
今でこそこの一人と一匹の二人組、このように快適な生活をしていたが、最初はそれはもう悲惨な生活だった……
青年がこの森、迷いの森で生活を始めたのは12歳の時、生活を始めたというのは語弊がある。
生活をせざるをおえなくなったのだ。
彼はこの森に捨てられた。
それは彼の命を救う唯一の手段だったのだが、迷い込めば死が待つといわれているこの森に捨てられることは、迫りくる確実な死から、いつか訪れる死に変わったような、その程度の差でしかない。
彼をこの森に捨てた人間もそのことは理解していた。
彼は実の母の手によってこの森へと逃がされたのだった……
一組の親子が高台を走っていた。二人の後方には4人の人間が迫っていた。
親子を狙う刺客、ローブに身を包み、その姿をさらさぬように足音もなく確実に二人の親子を追い詰めていく。母親は逃げきれないことなど最初から分かっていた。
帝国の暗部からただの母と子が逃げられるはずはない。
母の名はペイテ・アステライテ。この国、ライトディア帝国皇帝の元でメイドとして働いていたが、皇帝の子を授かってしまい、そのことを告げずに職を辞した。しかし、皇位継承権を持つ子を貴族たちが見つけ出してしまい、派閥抗争の渦に巻き込まれてしまうことになってしまう。
現在二人を追いかけているのは第一皇子派の貴族の私軍。本物の軍人だ。
「お母さん、どうしてあの人たちは僕たちを追っているの?」
「……ごめんなさい、アルテ……貴方を巻き込みたくなかった……」
「お母さんこの先は、崖だよ逃げられないよ!」
「最初からここに追い込むように追ってきていましたから……」
眼前には切り立った崖、その下には帝国の人間なら決して足を踏み入れない迷いの森、別名死の森が広がっている。
ペイテは覚悟を決めて息子であるアルテに話しかける。
「アルテ、貴方の父は事故で亡くなったのではないの、今でもご存命であらせられます」
「え!?」
「貴方の本当の名前はアルテ・ライトディア……貴方の本当の父親は、このライトディア帝国の皇帝様なのよ……」
語り掛けながらペイテは自らの首飾りをアルテの首にかける。
「皇帝様より頂いた魔法の品です。きっとあなたを守ってくれます。
愛してますよ、私のアルテ……」
崖の際でペイテはアルテの額にやさしく口づけをする。
「お母さん……? うわっ!?」
突然母から崖より突き落とされ、なすすべもなくアルテは中空に身を投げ出される。
落下しながら彼の目に飛び込んだのは無数の矢が自らの母親を打ち抜く映像であった……
「おかあさーーーーーーん!!!」
すさまじい高さから落下する途中に、彼は気を失うことは無かった。
目に焼き付けられた母の最期が脳をギリギリと締め付けていた。
どうしてこんなことに……
彼の頭はそれでいっぱいだった。
豊かではないが、母と子二人のつつましい生活の日々が頭の中で繰り返される。
そして、母の最期の映像がそこに入り混じる。
「うう……うああああああああ!!!!!」
彼は吠えていた。記憶の混濁、母の最期の記憶を吐き出したいかの如くに……
その咆哮に反応したのか首飾りが淡い光を放つ。
次の瞬間、アルテは気を失った。
アルテが再び目を覚ました時、周囲を不思議な壁が囲って守っていてくれていた。
壁と反対側、森側にはなぜか多くのアンデッドモンスターが集まっている。
片方はアンデッドの群れ、反対側は壁のように崖があり、絶体絶命と言える状況だった。
あの高さの崖から落ちても助かった命が、その先の魔物に刈り取られる。
彼自身もそう疑わなかった。
「グルルルルルルル……」
正面のアンデッドたちではない、背後から突然うなり声が聞こえる。
彼の背後には壁しかないはずなので驚いて振り返ると、そこには洞窟の入り口があり、その奥からとても綺麗な銀色の輝きを放つ狼が悠然と現れた。
狼はアンデッドがなすすべもなかった壁をまるでそこに何も遮るものが無いかのように素通りし、青年に近づいてくる。
アンデッドに殺されるのも狼に殺されるのも大差ないが、アルテはどうせ殺されるならこの美しい狼に殺された方がまし、そう考え、目の前にいる狼に全てをまかせ、目を閉じた。
しかし、狼はアルテの横を素通りし、アンデッドの群れに飛び込んでいく。
その動きは風のように早く、そして嵐のように力強く、アンデッドたちを切り裂いていく。
アンデッドたちが滅ぼされる声にアルテは目を開き、その戦い、いや、一方的な蹂躙を眺めることしかできなかった。
醜く穢れたアンデッド達の合間に白銀の狼が縦横無尽に走り回り、アンデッドたちを打ち滅ぼすさまは、美しかった。返り血、この場合返り液体と言えばいいのか、返り血一つ浴びることなく、全てのアンデッドを打ち滅ぼしてなおその白銀の体には汚れ一つ着いていなかった。
その圧倒的な戦闘力でアンデッドたちを滅ぼした狼は、さらにアルテを驚かせた。
「貴方のおかげで助かったわ。ありがとう人間の少年よ」
「え!? お、狼が喋った!?」
「ええ、私はシルバーウルフ、所謂魔獣よ」
魔獣。高い知識と強靭な肉体を持つ動物。
今出たアンデッドのように不浄な存在ではなく、必ずしも人間の逆に立つわけではない。
大変強い力をもって長寿の魔獣は聖獣などと呼ばれ人々から信仰を得たりしている場合もある。
尚、魔物と魔獣は完全な別物、魔物は生物が魔に魅入られて変貌し、自分たち以外の生物を無作為に襲うような野蛮な生物で、ほぼ例外なく人間や動物、場合によっては魔獣の敵となる。
アンデッドなどは魔物に当たる。
「貴方の不思議な力で助かったわ。この子達も安全に目覚めることが出来ました。
礼を言います」
洞窟の奥から小さな銀狼たちがちょこちょこと歩いて出てくる。
皆、アルテの周囲の壁を気にもせずに通過して、母と思われるその銀狼の元にワラワラと集まってくる。
「出産の時だけは力を失う私を狙ってあいつらは集まってきていたの、いざとなれば身を挺してもこの子達を守るつもりだったけど、気が付けばあなたが結界を張っていてくれた。おかげで何百年ぶりかの落ち着いた出産が出来たわ」
トテトテとアルテの元にも数匹の銀狼が寄ってくる。アルテはあまりの可愛さに手を伸ばしその小さな命を撫でる。思ったよりは固い毛、気持ちよさそうに身を寄せてくる子供たちにすっかり心を奪われてしまう。そんな様子を母親は優しそうに眺めている。
「さて、どうして人間のあなたがこんな場所にいるのかしら?」
アルテは突然現実に引き戻された。先ほどまで忘れられていた記憶の光景がフィードバックし、強い吐き気に襲われる。
「……まぁ、訳ありよね、こんなところにいるなんて……」
憐れみを含む優しい瞳で銀狼の母はアルテを見つめる。
アルテの様子を心配した子供たちは首を傾げ見つめたり、身体を摺り寄せたり、震える指先をペロペロとなめたりする。その様子にアルテは声を潜めて嗚咽する。
しばらく落ち着くまで銀狼の母はアルテを包み込むように横にいてくれた。
「落ち着いた?」
「あ、ありがとうございます。すみません……」
「謝らなくていいわよ、そうね、しばらく……貴方がこの森で生きていけるようになるまで、一緒に暮らしましょう。せめてもの恩返しになるといいのだけれど……」
銀狼からの提案はアルテにとって地獄に垂らされた蜘蛛の糸だった。
人間は生きることが出来ないこの森で、魔獣の協力、しかも人語を理解する魔獣の手助けを得られる。
とてつもない幸運であることは間違いなかった。
それからアルテは必死に森での生き方を学んだ。
はじめは水を飲んでは腹をこわして、魚を食べては熱を出して、キノコを食べて踊り狂ったり散々だったが、銀狼の母―シルメア―の知識の助けも受けて火を起こしたり調理、道具の作成など様々なことを知っていった。アルテは成長をして、シルメアの狩りの手伝いを行い、様々な道具を使い、森での生活基盤を順調に作り上げていった。
「あれから、3年。アルテ、そろそろお別れね」
「急にどうしたんだいシルメア?」
「彼が戻ってくるわ、彼は人間をそばに置くことは許さないわ」
「この子達の父親?」
「そう、この森の支配者の一人、銀王狼ウォルフェン。
楽しかったし、貴方の作る料理は最高だったから惜しいけど、ここまで。
私は森の奥に帰るわ」
「……そうか、ありがとうシルメア。貴方のおかげで僕は今まで生きてこれた。
それに、これからも森と共に暮らすよ」
「貴方なら出来るわ。貴方が力を得てウォルフェンの友となれる日が来たらまた逢いましょう」
シルメアはアルテの頬に顔を摺り寄せる。アルテもシルメアの毛並みを優しくなでる。
周りではすっかり大きくなった銀狼たちが静かに座って二人の別れの儀式を見つめている。
別れの儀式が終わると、周りで見守っていた銀狼の一匹、一番小さな銀狼が前に出て遠吠えをする。
「あなた……それでいいの?」
銀狼とシルメアは狼の言葉で会話を重ねる。
「そう……貴方は人と共に生きるのね……
アルテ、この子は貴方と行くそうよ。偶然にも貴方が父の名、ウォルと呼んで可愛がっていたこの子。
だいぶ前から決心していたみたい」
「いいのかいウォル? 僕なんていつどうなるかわからないよ?」
ウォルと呼ばれた銀狼は返事の代わりにアルテの顔に自分の顔を擦り付け、アルテの前で伏せるような体勢を取る。アルテは呼ばれるようにその頭に手を乗せる。
『我、アルテ・ライトディアは、汝ウォルを生涯の友とすることを誓う』
アルテが置いた手の甲に不思議な紋様が浮かび上がり光を放つ。
その光はウォルを包み込んで、銀の毛並みは輝きだし白銀の狼に姿を変えていた。
「……アルテ……貴方……」
「今のは……? なんだ?」
自分自身でもよく理解していない様子のアルテに、シルメアはふっとため息をついて優しく微笑む。
「今のは誓みたいなものよ、ウォルをお願いねアルテ」
こうしてアルテは一人の友と生きていくことを決め、シルメアたちと別れることになる。
その後もアルテとウォルの森での生活は続いていく……
運命の神は、アルテとウォルに試練を与える。
その日は、もうすぐそこまで迫っていた。
のんびりと続きをお待ちください。
たぶん、3個くらい他作品を完結させたころから本気を出します。