少女
『 少女 』
人から愛されるということはどういうことだろうか?
人を愛することには慣れているが。
私が初めて、その痩せた少女を見たのは東京都の文京区の白山通りと京華通りが斜めに交錯する交差点周辺であった。
その時、私は急ぎ足で歩いていた。
三年ほど前に、医者から糖尿病であると言われ、とりあえず毎日最低でも三十分以上は歩くように勧められた。
糖尿病は進行しますと、足の場合は壊疽という恐ろしい病気になり、最悪の場合は両足切断という事態にまで発展しますと脅かされ、それ以来、几帳面な私はほとんど一日も欠かさず、ウォーキングをしているという状況であった。
その夜も、会社からアパートに帰り、三十分ほどウォーキングをしてファミレスで夕食を摂り、また三十分歩いてアパートに帰る途中のことであった。
ふと見ると、電柱の蔭に何かがうずくまっていた。
男の子かと思ったが、長い髪をしていたので、女の子であることが判った。
例えとしては適切では無いだろうが、その女の子は捨てられた子猫のように見えた。
普段ならば、関わらずそのまま行き過ぎてしまったであろうが、その時はなぜか、立ち止まって、そのうずくまっている女の子に声をかけた。
「どうしたの?」
女の子はうずくまったまま、答えなかった。
「どうしたの? 何か、わけでもあるの?」
暫くして、女の子は立ち上がった。
私は女の子の様子を見て、驚いた。
左の頬が脹れており、両足共、裸足であった。
「裸足じゃないか。何かあったのかい?」
強情な女の子だ。
こちらが親切に訊いてあげているのに、何の返事も返って来ない。
私は諦めて、その女の子に背を向けて去ろうとした。
「おじさん、すみません。靴が欲しいんです。靴を買ってきてくれませんか」
背中から、か細い声がした。
私は向き直り、訊ねた。
「いいよ。サンダルあたりで良ければ。で、何センチ?」
「22センチ」
私は女の子をその場に残し、靴屋を探して歩いた。
靴が入った袋を片手に提げ、女の子が待っている電柱のところに戻った。
やはり、薄暗がりのところでうずくまって待っていた。
「ほら、買ってきてあげたよ」
女の子が立ち上がった。
「ありがとう」
履いたサンダルを見て、私は思わず笑ってしまった。
値段が付いたタグが一方のサンダルに付いたままだったのだ。
私は女の子の足元にうずくまり、ズボンのポケットから小さなポケット・ナイフを取り出した。
そのナイフには小さな鋏が付いていた。
そのタグを慎重に切ってやった。
目の前に細く白い少女の脚があった。
か細く震える産毛が周辺の照明の灯りに照らされて、とても官能的に見えた。
私は年甲斐も無く、どぎまぎして立ち上がり、女の子に向かって、じゃあね、と言いながらその場を離れ、歩き始めた。
暫く、歩いた。
久し振りに良いことをしたな、と思い、我ながら自分を誉めてやりたい心境だった。
こんな良い気持ちは久し振りだった。
予想外の出費は単身赴任の身には少し痛かったが、気持ちの充実さの代償としては安いものだと思った。
歩きながら、いろいろと私はあの少女の今に至った状況を想像した。
両親から、何かで叱られ、頬をぶたれて、靴も履かずに家を飛び出して、彷徨った挙句、疲れてあの電柱の蔭にうずくまって休息していた、という推理が一番妥当な線であった。
ふと、後ろを振り返った。
驚いた。
あの少女が十メートルほど離れてはいるが、私の後を追うように歩いていたのだ。
あの子の家がこちらなのかなぁと思いながら、確認するつもりで、曲がる角では無かったが、急に角を曲がってみた。
探偵の尾行でもまくつもりだった。
そして、少し歩いて立ち止まり、後ろを振り返った。
あの少女もぎくっとした様子で立ち止まった。
私はゆっくりと少女の許に歩いて行った。
「どうしたの? 未だ、何か用事があるの?」
女の子はか細い声で言った。
「帰る家が無いんです。おじさんの家に今晩だけ、泊めて下さい」
「いや、それは駄目だよ。おじさんは今家族と離れ、一人で住んでいるのだ。つまり、よく言う、単身赴任なのだ。そこに、あなたのような若い娘さんは泊めてやれないよ」
「でも、わたし、帰る家が無いんです。今晩一晩だけ、おじさんのところに泊めて下さい。明日の朝は、必ず出て行きますから」
私はその女の子の言うことを信用してはいなかった。
もしかすると、新手の美人局かも知れない。
女の子と一緒に居るところに男が入ってきて、さあどうしてくれる、この助平親父、というシナリオが私の脳裡をかすめた。
「いいかい。おじさんは年を取っているけれど、一人前の男なんだ。君のような若い娘を泊めたら、別になにも無くても、なにか言われるものだ。お金を出してあげるから、どこかのホテルに泊まった方が良い。・・・、あっ、ごめん、今お金は持っていないのだ」
結局、その娘を私のアパートにまで連れていく羽目となった。
「結構、いいアパートだね。おじさん」
「会社の借り上げ社宅だよ」
「家賃はどのくらい?」
「月、十六万といったところかな」
「へぇー、おじさんが払っているの?」
「まさか、会社の社宅って言ったろ。会社が払っているんだ」
「社宅って、いいな。おじさんはここに一人で住んでいるの?」
「今はね。前は家内と子供の三人で住んでいたんだ」
私は部屋の鍵を開けながら、その少女に言った。
「今は、子供は就職して綾瀬にアパートを借りて出て行き、家内は郷里に家を建てたので、そこに住んでいるというわけさ。今、そこで待っていてね。金、持って来るから」
「無理だよ、おじさん。こんな時間で、まして未成年ではどこのホテルも泊めてはくれないさ」
私は黙ってしまった。確かに、この娘の言う通り、どこのホテルもこんな時間でしかも予約無しに未成年は泊めてはくれまい。
か、と言って、漫画喫茶とかインターネットカフェに泊まらすのも少し非情だと思った。
「大丈夫、おじさん。わたしは何もしないから、ここに一晩泊めてよ」
「何、言ってるの。何もしないからって言うのは、それは、おじさんの台詞だよ」
娘はサンダルを脱ぎ、お邪魔します、と言いながら部屋に入って来た。
部屋は3LDKで東京のアパートとしては広い方だった。
リビングのソファーに凭れかかるようにして座った娘はようやく寛いだ様子だった。
「何か、飲む?」
「コーラ系統、ある?」
「あるよ。ダイエットのノンカロリーだけど」
「あっ、それがいい。わたし、今ダイエット中だから」
「君のような子供がダイエットとは恐れ入るな」
「おかしくないよ。少し食べ過ぎたと思ったら、次は少し食事の量を減らすの。これ、当たり前よ」
「へぇー、そんなものかね。おじさんのような年配者の目から見たら、君みたいな年の女の子は少し太めでコロコロしている方が可愛く見えるけどね」
「おじさん、古い。今は、みんなが競争みたくダイエットしているのよ」
「だって、君は少し痩せている方だろう」
「駄目、駄目。ようやくこの体型になったんだから。これからも頑張らなくっちゃ」
「時に、今夜泊まることは家の人に連絡しておいてくれよ。でないと、万一の場合、おじさんは未成年誘拐犯とされてしまうから。そうなったら、おじさんは逮捕されて、お仕舞いになってしまうから」
「以前、ニュースで見たことがあるわ。女の子は自発的について行ったにも拘わらず、家から捜索願が出ていて、男の子が逮捕されてしまったんだって。馬鹿みたいな話。でも、おじさん、安心して。わたしの家ではわたしが居なくなっても、決して捜索願なんかは出さないから」
「そういう問題じゃないんだ。君が家に電話をしない限り、君をこのままここに泊めるわけにはいかない」
暫く、電話をかける、かける必要がない、ということで押し問答が続いたが、私の迫力が勝ったのか、女の子は携帯電話で家に電話をかけることとした。
「あっ、お母さん。理佳でーす。今夜は友達の家に泊まるから、心配しないでね。じゃあね」
女の子の名前が理佳という名前であることを初めて知った。
私たちは、清涼飲料水を飲みながら、いろんなことを話した。
「理佳ちゃん、訊いていいかな」
「なんでも、どーぞ。インタビューに応じるわ」
「あそこに居た理由は? どうして、裸足であんなところに居たの?」
私が一番知りたかったことだった。
「うーん。話したくないなぁ。・・・、実は、街でナンパされて、その男の子、大学生って話だったけど、男の子のアパートまでくっついて行ったの。そしたら、部屋に入るなり、いきなり、キスしようとしてきたの。嫌っ、と言って男の子を突いたら、いきなり頬をぶたれたの。わたし、恐くなって、靴も履かずに、外へ飛び出したの。あても無く歩いて、どうしようもなくなって、あそこに居たというわけ」
「なるほど、ね。そういうことか。でも、ナンパされても、決して男のアパートに行っちゃいけないよ。男はいざとなると、みんな人格が変わるから」
「ええっ、おじさんもそうなの? 狼になってしまうの?」
「時と場合によるかな。理佳ちゃんは僕の娘よりも十歳も若い女の子だから。まあ、安心して」
「えー、おじさんの娘さん、二十六歳なの?」
「と、いうことは、君は十六歳か? 高校には行っているの?」
「まあ、ぼちぼち」
「ぼちぼち、じゃ駄目だよ。行っているならせめて、高校だけは卒業しないと」
「何だか、かったるいなぁ。高校って、つまんなくて」
「つまる、つまらない、という問題じゃ無い。最低限の資格になるんだから」
「でも、わたし、中学はちゃんと卒業したよ」
「うん、その勢いで高校もちゃんと出なさい」
言いながら、娘の教育に関しては妻任せで放任していた私に言う資格はない、と思っていた。
その夜は、理佳はソファーに寝た。
毛布にくるまって寝ている寝顔はなかなか可愛かった。
娘の加奈も小さい頃はこのような寝顔をして寝ていたなぁ、と何だかほのぼのとした気持ちになった。
十六歳と言っていたが、十六歳と言えば高校一年か、高校一年にしては少し幼い感じを受けた。
少し舌足らずな発音と痩せぎすな身体つきから判断しての話で、今どきの女の子の典型かも知れないと思った。
私のパジャマを着て、ぐっすりと眠っている理佳という女の子が少し愛しく感じた。
翌朝、いつもより早く眼が覚めてしまった。
静かに起きて、リビングで寝ている理佳を起こさないようにして、手早く朝食を作った。作ったと言っても、きゅうり、キャベツ、ベビーリーフといった野菜にベーコンを載せ
たサラダとバタートーストと言った簡単な朝食であった。
理佳を起こして食べさせた。
理佳は、朝食は要らないと言って、またごねたが、何とか食べさせた。
理佳を少し早めに部屋から出し、数分遅れて私が家の戸締りを行なってから出た。
アパートから路上に出たら、反対側で理佳が待っていた。
ありがとうを言うのを忘れた、とのことであった。
「じゃあ、これで別れるよ。元気でね。真っ直ぐ、家に帰り、高校に行くんだよ」
理佳は少し複雑な表情をしたが、私は構わず出勤のため、地下鉄の駅に向かった。
夜、会社の近くの中華レストランで夕食を摂ってから、アパートに帰った。
日課のウォーキングのため、着替えてアパートを出た。
驚いたことに、理佳がアパートの出口で待っていた。
「あっ、どうしたの?」
「一緒に、歩いてあげようと思って」
「そんな心配はご無用です。ちゃんと、歩けますから」
歩き出した私と並んで、理佳もついて来た。
少し、急ぎ足で歩いた。
理佳は少し荒い息を吐きながらも私について来た。
「今夜は、泊めないよ。ここらあたりで、別れよう。ほら、あそこに地下鉄の駅があるよ」
「お金を返しに来たの。夕べのサンダル代のことよ」
「わざわざかい。そんなことはいいのに」
「よく、ありません。わたしは真面目なんです」
「よく言うよ。真面目な女の子が夜の盛り場を歩いてナンパされるかい」
「夕べのことは、もう言わないで。ナンパされてくっついて行ったのは夕べが初めてだったんだから」
「・・・、何か理由があったのかい?」
「わたし、夜はいつも一人ぼっちなの。一人でママが帰って来るまで、お留守番をしているのよ」
「君のママが帰って来るのは何時頃なの?」
「ママは銀座でスナックを開いているの。帰りはいつも二時頃よ」
「へぇー、そうか。では、二時頃まで起きて待っているのかい?」
「テレビを観ながら。でも、大抵は寝ているわ」
「では、今夜はどうする? また、泊まっていくかい?」
言ってから、私はしまったと思った。
若い年頃の女の子に、泊まっていくか、は無いだろう。
夜の闇の中で、私は年甲斐も無く、頬が紅潮していくのを感じた。
理佳が断るのは当たり前であり、断られた私はいい恥っかきになってしまう。
何て言う恥知らずな言葉を口走ってしまったのか。
理佳の返事は意外だった。
「まあ、泊まっていっていいの。嬉しい。また、夕べみたいに、おしゃべりをしようよ」
「時に、夕ご飯は食べたの? 僕は食べたけど、未だだったら、コンビニあたりで弁当でも買ってあげるけど」
「未だ、なの。お腹空いちゃった。ごち、になるわ」
ウォーキングの帰り道で、コンビニに寄って、理佳は弁当とスナック、私は缶ビールを買って戻った。
「じゃ、乾杯! 何のための乾杯にする? 真面目おじさんと馬鹿娘の友情のため、とでもする?」
「狼と赤頭巾ちゃん、とでもしようか? 少し、やけくそだけど」
「じゃあ、恐い狼と無邪気な赤頭巾ちゃんのやけくその友情を誓って、乾杯!」
その後、理佳は少し真面目な顔をして、私の顔を覗きこむようにして言った。
「おじさん、真面目な話よ。奥さんと離れて、今セックスはどうしているの?」
「なんだよ、いきなり。びっくりするじゃないか」
「でも、女と違って、男の人は溜まるって言うじゃない。時々は発散しないと駄目なんだって」
「そんな話、誰に聞いたの」
「ママから。いつか、ママが酔っ払って帰ってきて、そんなふうなことを言っていたわ」
「それじゃ、言っとくけど。僕は何年か前から糖尿病で、どうもそっちの方の欲求はあまり無いんだ」
「ふーん、糖尿病って、そんな病気なの。知らなかった。じゃ、糖尿病の人と付き合えば、セックスされる心配は無いのね」
「それも、時と場合によるよ。僕だって、時々はムラムラと来る時があるんだぜ」
「じゃ、今夜あたり、私を襲ってもいいよ」
「馬鹿なことを言ってんじゃないよ。もっと、自分を大事にしないと。そんな言い方をしていると、まともな男からは軽蔑されて軽く見られてしまうよ」
「おじさん。わたし、遊んでいる女の子に見える?」
「おじさんの目から見たら、そうは見えない。無理して、そう見せかけているだけだ」
「あたり。さすが、おじさん、見る目がある。わたし、未だ未経験よ」
「未経験? 男との経験が無い、ということ?」
「そうです。正真正銘の処女です」
「なら、なおさら、自分を大切にしなきゃ」
どうも、私はこの小娘にからかわれているのか、判らなくなった。
案外、理佳は本当のことを言っていたかも知れないが。
お風呂の準備をして、理佳から入らせた。
理佳は夕べのパジャマを着て、ソファに寝そべった。
かなり、リラックスしている様子だった。
いつも、ママの帰りを遅くまで一人の部屋で待っていると云う理佳は淋しがり屋なのかも知れない。
私が風呂場から出て来るのを待って、理佳はまた私とおしゃべりを始めた。
「おじさん、幾つ?」
「五十八歳。もうすぐ、会社も定年になる」
「奥さんは?」
「五十歳。僕とは八つ違い」
「まあ、八つも違うなんて。おじさん、昔、若い娘を騙して結婚したのね」
「何、言ってんの。見合いだよ。見合い結婚」
「ふーん。で、お子さんは?」
「今年、二十六歳になる娘だけ」
「娘さん、結婚は?」
「未だ。相手も居なさそう」
「おじさん、信じちゃ駄目。二十六になって、居ないなんて、基本的にありえない」
「では、おじさんからの質問があります。言いたく無ければ、言う必要はありません。まず、君の年齢と学年?」
「十六歳、高一女子」
「家族は?」
「ママだけ。パパは居ないし、知らない。物心ついた時から、ママと二人きりの家庭」
「そうか。ごめんな。悪いこと、訊いちゃって」
「別に、いいよ。そう、重要なことでは無いし」
「学校には行っているの?」
「今日は行きました。起きるの早かったから」
「学校は行くのが当たり前。これから、ちゃんと学校に行くこと。これは約束だよ」
「これからも、時々、遊びに来ても良い、ということなら、約束します」
「しょうがないな。うん、時々なら、いいよ。その代わり、学校には行くんだぜ」
「OK。了解、了解」
こうして、私たちの奇妙な関係は始まった。
実際の話、娘より若いからといって、理佳に何も感じなかったというわけでは無く、少し痩せてはいるものの、健康的な理佳の体は少しずつ女性的な丸みを帯びてきて、時々は私をどぎまぎさせるほどアピールしてくるものがあった。
しかし、何と言っても私とは年が四十二歳も離れており、二番目のお転婆娘のように感じていた。
或る時、理佳がママの店に連れていってと私にせがんだことがあった。
銀座の店なんだろう、高くてとてもじゃないけど、そう安易には連れていけないよ、と言う私に、私と一緒に行けば大丈夫、と強引に理佳は私の同伴を求めた。
理佳と一緒に行ったら、案の定、私は完璧に誤解されてしまった。
「お客様、どういうおつもりなんですか? 理佳はまだ十六歳の未成年なんですよ」
柳眉を逆立てる、という表現がぴったりの表情をして、理佳の母が私に詰め寄ってきた。
「ママ、誤解しないで。私が無理を言って、ここに連れてきて貰ったの」
「でも、理佳。あなた、何と言うふしだらなことを。まあ、情けない」
私はあわてて、理佳の母に言った。
「誤解されたら困りますが、私と理佳さんはそんな関係では無いんです。神かけて誓いますが、私は理佳さんに変なことは一切していません」
「でも、お年は違っても、理佳は女で、あなたさまは男でいらっしゃいます。男と女の関係は無い、と本当に言えますの?」
「ママ、○○さんは糖尿病だから、ママの考えているようなことは出来ないのよ」
「いや、そうでは無くて、私にとって、理佳さんは、そう私の二番目の娘みたいなもので。あっ、失礼。あなたと私は何の関係も無いのですが。私は理佳さんを自分の娘のように感じていまして、決してやましいことはございません」
理佳と私の顔を交互に見ていた理佳の母はようやく安心したのか、ほっとしたような笑顔を見せた。
「ああ、安心しました。一時は、目の前が真っ暗になって。どうしようかと思いましたわ。では、何か飲まれます。ええ、お代は要りませんわ」
「誤解が解けて、何よりです。それでは、銀座の店で飲むのは久し振りなんですが、そう、アイリッシュウイスキーのブッシュミルズがあったら、それをダブルで戴きたいんですが」
「ブッシュミルズでございますわね。勿論、ございますわよ。少し、お待ちを。理佳、あなたはコーラにする、それとも、オレンジジュース?」
やがて、注文した飲み物が運ばれて来て、私は理佳の母と話しながら、次第にいい気持ちになって来た。
「時に、ママ。もう、銀座で何年になります」
「もう、早いもので、かれこれ二十年近くなりますわ。理佳を生んで、もう十六年ですもの。銀座の一年は早いんですのよ」
「僕は銀座では、ルパンという店には結構行くんです」
「五丁目にあるルパンでしょう。太宰で有名ですわねぇ」
「ルパンのカウンターの端に座って、足を投げ出したポーズの写真で有名な店です。銀座でお客を接待した後、あの店でプライベートな時間を楽しむんです」
「理佳、行ってみたい、その店。何か、素敵そうだから」
理佳の母の店を出て、私と理佳はルパンに行った。
丁度、カウンターが二つ空いていた。
私はバーボンウイスキーをダブルで注文し、理佳はジンジャーエールを頼んだ。
「丁度、ここらあたりの席だよ。あの太宰治の有名な写真が撮られたのは」
「おじさんは、太宰治の小説は読んだことがあるの」
「勿論さ。今はどうか、分からないが、昔は誰でも一度は太宰に夢中になったものさ。太宰を読んで何も感じない人が居たら、そいつは不感症のこんこんちきだよ」
「なに、そのこんこんちきって言うのは?」
「これは、これは、理佳殿。こんこんちきをご承知ござらぬか。知らざあ、言って聞かせやしょう。こんこんちきとは、お狐さまのことでござる。通常は、野暮な相手を蔑視する言葉として使いまする」
「やだ、おじさん。酔っ払っている。もう、これを飲んだら帰ろうよ」
私は理佳を送った。理佳は私が住んでいる区の隣の区のマンションに住んでいた。
私のアパートとは比べものにならないほどの高級マンションだった。
夜でも管理人が常駐する、セキュリティーがしっかりしたマンションだった。
お休みを言って、帰ろうとしたら、理佳が私に抱きついて来て、キスをした。
大好きよ、と言い残して扉の向こうに消えて行った。
馬鹿な娘だ、しかし、馬鹿な娘ほど可愛い、と私は酔った頭で思った。
「ねぇ、おじさん。高尾山に行こうか?」
「えっ、高尾山って、あの八王子の向こうの山のことかい?」
「その高尾山よ。今頃は紅葉も綺麗だし、ねえ、行こうよ」
というわけで、とある日曜日に私と理佳は高尾山に向かった。
新宿から京王線に乗って、高尾山口駅まで五十分ほどの小旅行だった。
高尾山口駅で下車し、私たちは1号路というのであろうか、表参道コースで山頂に向かった。
途中まではケーブルカーに乗る手もあったが、私たちは歩くことにした。
全長約4キロということで、歩いて1時間半といった距離であったが、傾斜がきつく、なかなかの運動量となった。
「おじさん、頑張って。お尻、押してあげるよ」
「いいえ、結構です。押してもらわなくとも、自分で歩けます。ただ、もう少し、ゆっくり歩いてよ」
「ほら、やっぱり、弱音吐いちゃって。だから、ケーブルカーに乗ってもいいよ、と言ってあげたのに、おじさんったら、無理しちゃって」
「こんなに、きついとは思わなかった。結構、きついよ、この坂は」
「ほら、あそこの紅葉が綺麗。見て、見て、あそこよ」
目を上げて、理佳が指を差した方向を見ると、真っ赤な鮮やかな紅葉の木があった。
周囲の紅葉を圧倒するほど、赤い色をしていた。
「本当に、鮮やかな色をしているね。今日は来て、良かった。こんなに綺麗な紅葉が観れたのだから」
途中から急に道の傾斜が緩くなった。
私たちはいつのまにか、山頂に近いところを歩いていたらしい。
山頂には高尾山薬王院という名刹があった。私たちはここで休憩した。
「おじさん、お弁当を食べよう」
理佳は言って、自分のリュックからお弁当を取り出した。
「理佳ちゃん、なかなかお弁当作るの、上手だね。家でも、料理を作っているの」
「まさか、料理なんかしていないよ。朝はパンにバターを塗って、野菜とか果物を食べておしまいだし、昼はどこかのコンビニでサンドイッチを買うし、夜はママが準備してくれたおかずでご飯を食べるだけだもん」
「僕よりましか。僕は、夜はほとんど外食だもの」
「おじさんは奥さんのところに帰っているの?」
「ひと月に一度くらいは帰っているよ」
「奥さんがおじさんのアパートに来て、料理を作ってくれるということはあるの?」
「そう言えば、今夜あたり来るかも知れない、とメールには書いてあったな。何でも、友達と一緒に東京に来る約束があり、友達と別れたら寄るかも知れないとあったよ」
「ふーん、ということは、今夜は奥さんとラブラブか?」
「ませた口をきくんじゃないよ。この未成年の女子が」
「ねっ、奥さんって、どんな人?」
「会ってみるかい?」
「まさか。会って、おじさん、わたしのこと、どう言って紹介するわけ」
「うーん。そう言われると、説明に窮するなぁ」
「愛人と言って、紹介してもいいわよ」
「馬鹿言ってんじゃない。そんなこと言ったら、即、離婚だよ。この年になって、一人になるのは淋しいことだよ」
「その時は、私が結婚してあげる」
私は思わず、理佳の顔を見た。
理佳は真剣な顔をしていた。
私は理佳の顔から目を逸らし、会話はそこで中断した。
山頂からの帰り道で理佳は私の手を握りながら歩いた。
年の離れた親子としては別に異常な光景では無かったろう。
五十八歳の初老の男と十六歳の女の子、親子ならばあり得る年の差だ。
理佳は父の顔を知らない。理佳のママは理佳の父に関しては何も理佳には語ってはいない様子だった。
理佳も別に知ろうともしない様子を見せていた。
理佳は私に父を感じていたのかも知れない。
結婚しても良い、などと言うのは極端であったにしても、心のどこかで父という名の存在を持ちたかったのかも知れない。おそらくは、そうであったろう。
私にとっても、理佳は単身赴任暮らしの中で華やかな彩りを添えてくれる存在であった。実の娘とも十歳ほど年の離れたこの理佳という小娘は私にとって二番目のやんちゃ娘
であり、おてんばでもある子供みたいな存在と化していた。
新宿で私は理佳と別れ、文京区のアパートに戻った。
私の部屋の灯りが点いていた。
妻が夕食の準備をしていた。
久し振りに会う妻は随分と老けて見えた。
五十歳の大台になった女がそこに居た。
若い頃は、女優の誰それに似ているということで、私も妻を誰彼なしに紹介するのが好きだった。
勿論、妻が悪いのでは無い。
十六歳の理佳と付き合っている私の目から見たら、どうしてもそう見えてしまうのは当たり前だったろう。
一方、妻の目から見たら、私も五十八歳年相応の老け男と見えているのだろう。
近々、六十歳定年を迎える初老の男として私を見ているのだろう。
「今日は、お友達と銀座で会って、あの『鹿の子』でランチを食べて来たの。ミニ・あんみつがとても美味しかったわ」
「ここには、いつ着いたの?」
「二時間ばかり前よ。冷蔵庫の中味を確認してから、スーパーに行って少しお買い物をして。今、肉じゃがを作るから、もう少し待ってね。待ち時間、ビールでも飲む?」
私は妻に勧められるまま、缶ビールを飲み始めた。
「このところ、加奈から連絡が無いんだけれど、彼女、元気にやっているのかな」
「あらっ、私のところには結構、電話をかけてくるわよ」
「ふーん、加奈は未だ母親離れはしていないのか。父親離れは完全にしている癖に」
「そんなこと、言って。あなた、やきもちはいけませんわ」
「で、どんな様子だった?」
「加奈のこと? 元気に暮らしているわよ。このところ、職場で飲み会が多く、少し金欠病だって」
「そんなに、飲み会が多い職場なのか。だって、IT関連の会社だろう。勤務時間なんて、むちゃくちゃだと聞いたことがあるよ。月に百時間の残業が当たり前だって、以前聞いたことがあるよ。纏まった飲み会なんて、出来ないと思うけど」
「そこは、それ、若い人が多い会社だから、何とか時間を作って、飲み会を設定してしまうのよ」
「他、加奈で変わったことは?」
「別に、何も。そんなに心配だったら、あなたの方から加奈に電話かメールでもやったら。直接、本人と話しなさいよ、父親なんだから」
何で、俺が、と言おうとしたが、また妻に反駁されると思って、私は黙ってしまった。
その加奈が不意に私のアパートを訪れたことがある。
冬の日曜日の午後、久し振りに暖かい日であった。
私は理佳と居間で談笑していた。
理佳が鯛焼きを買って来ていたので、二人でアツアツと言いながら食べていた。
玄関のブザーが鳴った。宅急便かな、と思ってドアを開けたら、そこに加奈が立っていた。
少しまずいかな、と思ったが、躊躇無く、私は加奈を居間に招じ入れた。
加奈は理佳を見て、驚いた様子だった。
加奈は振り返って、私の顔を見詰めた。説明を求めるきつい顔だった。
「加奈、こちらは理佳さんと言って、僕の友達だよ。理佳さん、こちらが僕の娘の加奈」
理佳は鯛焼きを頬張ったまま、頭をこくりと下げて挨拶した。
加奈は、始めは戸惑っている様子だったが、理佳の何気ない態度と私の悪びれない率直な態度で少し安心したようであった。
「加奈、少しびっくりしたかい? お父さんがまさか、こんなお嬢さんと一緒に居るとは思わなかったろう」
「びっくりも、びっくりよ。ママに言いつけてやろうかと思ったくらい」
「理佳、おじさんとはお友達の関係。別に、危ない関係ではないわ」
「そうね、日曜の午後、二人で鯛焼きを食べているくらいだもの。美味しそう。私も戴いていいかしらん」
「加奈お姉さん、どうぞ、どうぞ。理佳のおごりでーす」
「時に、お父さん。理佳ちゃんとは、どこで知り合ったの?」
加奈の疑問は当然だった。私はこれまでの経緯をかいつまんで彼女に説明した。
「で、お父さんは、私より十歳も若いガールフレンドを作ったというわけ」
「理佳にとって、おじさんはとても良いボーイフレンドよ。ただ、学校に行け、行け、休むな、と結構うるさいけど」
「お父さんにしては、変ね。私には無関心だった癖に、この理佳ちゃんにはそう言って干渉するわけ?」
「どうも、雲行きが怪しくなってきたなぁ。加奈は結構真面目な学生だったから、言わなかっただけさ。加奈に比べて、理佳さんは不登校気味だったから。言わば、教育的指導というやつさ」
「おじさんの言う通り。ずっと、学校には休まずに行っています。この頃は試験の成績も上がり、ママは喜んでいるわ」
「本当かい。成績が上がったことは初めて聞いたよ。やったね、理佳」
「ママは私を大学に行かせたいみたい」
「そりゃあ、そうだよ。不登校だった娘が学校に休まずに行き出し、成績も上がって来たとなれば、経済状態のいい親ならば、子供を大学に行かせたくなるものさ」
そんなことを話しながら、私たちは加奈を交えて日曜の午後のひと時を楽しく過ごした。
加奈は帰りがけに、ママには内緒にするから、と言って私を安心させてくれた。
また、年末も押し詰まった或る夜、理佳がしょんぼりと私の部屋に現われたことがあった。実の父親の葬儀に参列して来たとのことだった。
ほとんど泣き出しそうな表情をしていた。
「今日、ママと一緒にお葬式に行ったの」
「人が大勢居て、立派なお葬式だったけど、ママと私は簡単にお焼香を済ませ、帰って来たの」
「私のお父さん、立派な偉い人みたいだったけど、遺影と言うの、写真で見る限り、かなりの年齢でおじいさんのような感じだった」
そのようなことを、居間で私が入れたコーヒーを両手で温めるようにして飲みながら、話してくれた。
私は黙って、理佳の話を聴いていた。
どうも、この種の話の時は、会話が成立しないものだ。
理佳が認知もされず、親族の席にも座らせて貰えず、父親にも生前一度も会っていない、といったこともあって、私は理佳に話しかける言葉を持てなかった。
「部長、例の件なんですが」
私の部の課長代理が私に話しかけて来た。私は訊き返した。
「例の件、て何の件?」
「失礼しました。来週行なわれる客先との技術検討会の資料の件なんですが。もう、確認して戴けました?」
「ああ、あの件か。ざっと見たよ。資料の纏めの仕方は前の打ち合わせ通りになっていたから、内容的には問題無しだ。ただ、文言で少し気になったところがあったから、僕の方で修正したよ。メールの添付資料で君のところに入れたから、後で確認してね」
部下が机の前から去り、私はまたパソコンの画面に向き直った。
昨夜、お客さんを接待して飲んだ時の会話を思い出していた。
「この間、テレビを見ていたら、確か三十九歳の女性教師と十五歳の男の子との駆け落ち事件がニュースとして取り上げられていましたよねぇ」
取引先の担当者であるお客さんがビールを注ぎながら私に話しかけてきた。
「ああ、あのニュースですか。私も見ましたよ。女性教師が逮捕された事件でしょう」
「しかし、珍しいケースですね。逆のケースならば、ニュースにならないほど、今はありふれたことでしょうが」
「確かに、おっしゃる通り、三十九歳の男と十五歳の女の子ならば、買春事件とかインターネットの出会い系サイトとかいったところで、頻繁にマスコミを賑わせていますから」
「今回は、二十四歳も年齢が離れた女性教師と教え子の男女関係ということで、目立ったニュースとなったんでしょうな」
「三十九歳と言えば、余談ですが、小泉今日子さんが確かその年齢だそうです。インターネットの書き込みには、その女性教師の顔写真を求む、といった無作法な書き込みがあったそうですが、小泉今日子さんみたいな女性だったら、十五歳の男の子がくらくらとしてしまったのは頷けますね」
「なかなか、部長も言いますね。隅に置けませんな。部長も、案外、若い女の子とラブラブだったりして」
「まあ、そんなことはありませんよ。おっと、失礼。ビールが無くなりました」
などと、他愛の無い会話をしたが、私と理佳の関係、四十二歳も離れた男女の友達関係を知ったら、この男はどのような反応を示すだろうか、と思って私は秘かに苦笑した。
とても、今十六歳の女の子と付き合っているなんて、言えないものだ。
その内、理佳の母から私に電話がかかってきた。
交際を止めて欲しい、と云う。
私の影響で、学校に行くようになり、成績も随分と上がってきたことは感謝するものの、やはり、今の私たちの関係は不自然だと言うのだ。
今度、理佳が私のアパートに来たら、追い返して下さい、とも言っていた。
分別のある大人として、どうか判断して欲しい、と理佳の母は締めくくった。
分別のある大人、か。どうも、くすぐったい言葉だな、と思った。
定年間近になって、私はじりじりとした思いで考え込むことがある。
心の中で忸怩たる思いに駆られることも多くなってきた。
出来ることと、出来たことは違う。
また、したかったことと、したことも一般的には違う。
その両者が一致するといった幸福な一致は残念ながら、私には少なかった。
恋愛関係においても、このことは言え、私は人生において、物足りなさを感じるようになってきた。有体に言えば、もっと恋愛というものを経験したかった。
また、年を取るにつれ、女性を美化して考えることは少なくなってくる。
これは、事実である。
が、一方、女性を美化したい、理想的な男女関係を作りたい、という欲求は若い頃より激しくなっているのかも知れない。
老境にある男が不意に女狂いをしてしまう、その心情が段々私も分かる年齢になってきたということか。
私と理佳は表面的には友達関係であるが、お互いの心では既に危うい関係にある。
いつか、越えてはならぬ一線を越えてしまうかも知れない。
理佳の身体が女性らしい丸みを帯びれば帯びるほど、私は私自身を自制することが出来なくなりそうだ。
今でも、母から強く禁止されているにもかかわらず、理佳は時々、私のアパートに遊びに来る。
年の離れた友人関係という、私たちのこの関係がいつまで続くのか、私には皆目見当がつかなくなっている。
完