「木彫りの猿」
祖父の家の玄関。その西側に配置された下駄箱の上には風水の為に祖母が置いた八角形の鏡と、
あと少々見た目が不気味な、木彫りの猿の置物があった。
その猿は、年老いた猿だった。腕や足が細くて、がりがりだ。目元は落ちくぼんでいるし、伸びすぎた体毛はその猿が生命力を失いつつあることを示しているように感じられた。と言っても作りものだけど。
私が祖父に聞いたところによると、その猿は数十年前に東京観光に行った際、土産物やで買ったものらしい。祖父が気に入って買ったものであって、家族全員がそれをよく思っているとは限らない。祖母とその娘である母はそれを気持ち悪がっているし、母の姉である伯母もそうだ。父は特に興味を持たないそうだった。弟は、母が猿を毛嫌いしているのを真似して、猿を避けている。
私はというと、どうやら祖父と似たような感想を抱いているらしい。つまり、どうもこの猿に惚れこんでしまった。
無性に気になる。祖父の家に行くといつもこの猿を見つめてしまう。その彫りこまれた目は私の眼を見つめ返すこともなく、ただそこにあるだけなのに私を釘付けにした。今まで祖父の家には何度も行っている。それこそ幼稚園の頃から高校生の今に至るまで、月に一度か二度は夕食を家族で食べている。それまで猿についてはほとんど何の興味も持つことはなかったのに、この間遊びに行って、ふと目に入った瞬間から、猿に夢中になってしまった。
なんというか、猿には魔力があった。惹きつける魔力。私は暇さえあれば祖父の家に行ってずっとその猿を愛で続けるようになっていた。指で猿の皺をなぞり、木の香りを吸い込んで目を閉じ、唇で猿の顔の形を覚えた。祖父はそんな私の行動を咎めることもなく見ていた。祖母は心配して母に相談をしていたらしい。
そんなある日のことだった。
授業が終わり、私は家に寄らず直接猿に会いに行った。その時期にはそれはほとんど、習慣と化していた。祖母はやはり私の行為を訝しんでいたし、それを聞いていた母からもそれとない注意は受けていたが、私は聞く耳を持たなかった。
チャイムを鳴らして、内側から祖父が戸を開けてくれるのを待った。いつも私を家に招き入れてくれるのは祖父だった。しばらくして、戸の鍵を開く音がした。私が玄関に飛び込むと、そこには祖母がいた。鍵を開けてくれたのは祖母だった。
私はそれに構わず猿の方に目をやったが、驚くべきことにそこに猿はいなかった。いつもの八角の鏡があって、猿の代わりに一輪挿しのスイセンがあるだけ。私は祖母に事情を尋ねた。
祖母いわく、昼過ぎから猿はいなくなっていたらしい。代わりにスイセンが飾られていて、祖母ではなくどうやら祖父のしわざのようなのだが、猿と同時に祖父も行方をくらませていて、どうやら祖母にとっては祖父の失踪の方が気になるらしい。携帯電話をもたない祖父が一人でふらりとどこかに行ってしまうと探すのが大変なのだ。祖母はこれから、交番に相談に行こうとしていたらしい。祖母は私にも、祖父を探すよう頼んだ。私はそれを請け負った。ただ、私の目的は祖父よりも猿の行方だったのだが。
暗くなるまで町中を走り回った。猿はやはり見つからなかった。もう帰ろうかな。そう思ったときに、ふと神社を見に行っていないことに思い当たった。歩いていける距離にあったので私は駆け出した。その時も猿のことばかりを考えていた。
神社に着くころには陽は完全に落ちきっていて、辺りは真っ暗だった。鎮守の森に包まれた社は不自然なほどに深い闇を内包していて、私はそこに踏み出していくのに幾分の抵抗を覚えた。けれども、私は猿に会いたかったので歩みを進めた。
社をぐるりと回ってみたものの、猿はいなかった。一応神主の住まいも訪ねて、祖父の行方について訊いてみようと思ったそのとき、社のなかで物音がした。それは人間がたてた音にしては、軽すぎる音だった。
私は猿の存在をそこに直感した。賽銭箱の横から、靴を脱いで社の中に踏み込んだ。襖を開けるとやはりそこに猿はいた。猿はもう木彫りではなかった。その老いた猿は木彫りのときと比べずいぶん大きくなっていて、背丈も私のへそくらいのところまでありそうだった。黒っぽい、長い体毛と、真っ赤な肌が鮮やかな対照になっていた。猿は私を見ていた。その眼は、今度こそ私を見つめていた。黄色い瞳は、生命を感じさせない力強さがあった。
猿が笑った。ヒトのように唇を吊りあげて歯を剥きだしにした。そこで初めて、私は猿が邪悪なものなのだと感づいた。
猿は両手を何度も打ちあわせてぎいぎいと鳴き叫び始めた。それは儀式めいていた。なにかをここに呼び寄せているような目的を感じた。ここにいますから、今がそのときですから来てください。という感じに。
ついに猿に対して恐れを覚えた私は、その場から駆け出して逃げた。神社の鳥居を出るときに、
振り返って見てみると、社のなかから大きな影がゆっくりと出てくるのが見えた。
それは大きな猿だった。今度は私よりもずっと大きくて、やはり黒い毛と真っ赤な肌の猿だった。
猿たちは追いかけてこなかった。私は家に帰った。家に着くと、既に時刻は深夜零時を回っていた。そんなに長い間、町中を駆け巡っていた覚えはなかった。私は制服を着替えて、シャワーを浴びてから寝た。汗の匂いをそのままにしていると、猿がこの家を見つけ出すような気がしたからだった。
翌日になって、祖父が発見されていたことがわかった。祖父は家の風呂場で、空の浴槽に入ったまま失神していたらしい。なぜそうしていたのか、事情を憶えていないそうだ。ただ、木彫りの猿を押し入れの奥に片づけて、代わりにスイセンを置いたのは祖父だそうだ。それからの記憶は曖昧になっていて、よくわからないとしきりに話している。
そしてあれ以来、私はあの神社には近づかないし、木彫りの猿への想いも完全に消え去っていた。今になって思えば、あれは猿というより猩々に近い造形をしていたと思う。