徒歩十分
定時である五時半丁度に仕事を終えて、現在時刻六時。オレは今、今回の仕事の相棒であるノエルの家の前にいた。
あの後オレの質問の返事を彼女がするよりも早く、無情にも午後の業務開始のチャイムが割り込んできた。全く、もう少し空気を読んでほしい。しかしそのおかげで彼女から自宅へのお誘いを頂けたので、すぐにそのチャイムに感謝と謝罪を送った。もちろん心の中でだ。そして午前中よりも更に浮かれたオレは、シェリーから冷たい視線を浴びながら午後の業務をこなし、現在に至る。
インターホンを押してしばらく待っていると、中から足音が近づいてきた。この時のオレの脳内では、お帰りなさい、ごはんにする? それとも……とエプロン姿の彼女が出迎えてくれるという実にお花畑な妄想が繰り広げられていた為、非常に残念な顔をしていたと思う。それを彼女に見られなかったのは不幸中の幸いと捉えるべきか。ドアを開けて出迎えてくれたのはノエルではなかった。まるで宗教画の天使のように可愛らしい少年が、オレの顔を見た途端一瞬でその愛らしい顔を歪め汚物でも見るような目を向けてきた。あ、オレやらかしたな、とは思っても時既に遅し。奥から彼女の声がして、渋々、本当に嫌そうに、どうぞ、と彼が促してくれた。どうして彼女が独り暮らしであると思っていたのだろう。いろんな意味で絶望しながら、お邪魔します、と挨拶だけは礼儀正しくした後、前を歩く少年の後に続いた。
「お疲れ様です。わざわざ来ていただいてすみません」
リビングに着くと、彼女が本当に申し訳なさそうな顔で迎えてくれた。少年はそのままキッチンの方へ行ってしまったので顔は見えなかったが、後できちんと話をしておいた方がいいだろう。少年のことも気になるが、それより今は彼女と話すのが先だ。オレは先程とは違う、近所のおばちゃんたちの間で少年のようだと評判の笑顔を作った。
「こちらこそお招き頂いてありがとう。さっきの子は弟さん?」
「はい。レオンと言います。後でご紹介しますね」
「あー、あのさ、敬語、いいよ? 昼間ギルバートに話してたみたいな感じで大丈夫だから」
相棒だし、フレンドリーな感じでおっけーよ? と言うと、彼女は躊躇ったように視線をさまよわせた。
「てかさ、何でオレのこと知ってるの?」
これも昼間から気になってはいた。実はオレは王族の血をひいていて、所謂王子様とかいうやつである。しかし現在では王族が国の政治に関与することはほとんどないし、その上オレは二人の兄と違って正妃の子でもない。そんな諸々の事情もあるため、オレの存在はあまり公には知られていないのだ。まぁあの兄たちのせいで、彼らと親しい人は当然のように知っているわけだが。
「ああ、ギルから聞いたんだ」
どうやら敬語はやめてくれるらしい。一歩前進。
「そう! それ!! ギルバートと仲良いの?!」
オレのことを知ってることなんて、この問題の前にはどうだっていい。彼氏ですとか言われたら泣く。
「ギルは恩人なんだ。オレたちは両親が十年前に他界して、困っていたところをいろいろ助けてもらったんだ。」
オレは納得すると同時に、自分の配慮の足らなさ加減を反省した。ノエルの家は会社の社員寮だ。基本的に生活が苦しいか、何らかの事情がある人が優先して入るここに、幼い弟と一緒に住んでいる時点で気づくべきだったのだ。
「なんかごめん。立ち入ったこと聞いちゃって……」
申し訳なさでいっぱいになりながら謝ると、彼女は慌てて大丈夫だと言ってくれた。なんて優しい……!
「それに、そんなこと言われたらオレの方が謝らなきゃいけなくなるしな。いや、不可抗力ではあるんだが」
「へ?」
「いや、ギルがな? 親バカというかなんというか……よくエドワードの話をするんだ。だからたぶん大抵のことは知ってるかも?」
「ギルバート、お前もか……!」
兄たちだけかと思っていたのに、こんなところに伏兵がいたとは!
打ちひしがれるオレを気遣って、さすがに財布に写真は入れてないし、自慢ばかりしている訳ではないぞ? とフォローなのかなんなのか際どい言葉を掛けてくれた。写真に関しては少しばかり心の平穏が取り戻せたが、話の内容については何を話したんだと逆に不安が増した。後でギルバートとは話し合いが必要なようだ。
「けどそのおかげで初対面って感じがしないな。聞いてた通りの人みたいで安心した。気ぃ抜きすぎて失礼なことしちゃったらごめんな?」
そう言って笑った彼女は間違いなく天使でした。うん、もう、何されても許しちゃうよね? ついでにギルバートも許してやろう。いや、やっぱ話した内容による。
そんな話をしていると、キッチンの方から先程の男の子が呼ぶ声がした。
「とりあえず仕事の話はギルバートが来てからするとして、晩ごはん食べながら親睦会ってことで」
レオンの料理は旨いからと嬉しそうに話す、やっぱり天使な笑顔を見てだらしなくニヤついていたら、キッチンの方から狙ったようなタイミングで出てきたレオンに目撃されてしまい、彼と仲良くなれるか一抹の不安を抱いたのは余談である。