それでも続く世界なら-地上の溺死-
「地上の溺死」
拝啓
子守唄を歌う時のように、血の気が失せた薄い唇を薄く開いて、貴女は何を伝えようとしたのですか?
私は黒い水溜りに浮かぶ貴女を見下ろした夜を思い出しては、冷たい布団の中で嗚咽を漏らします。もしも、貴女を知ることが出来たのならば、肌に絡みつく塩水は空に還るのでしょうか。お答えてください。お母さん。
今日の空はどんより曇り空です。沢山の灰を被った空は一体誰の怒り買ったのでしょうか。私はそれを黒い車の窓からまあるいおかっぱ頭を突き出して、酷く冷たい滑り気を帯びた風を顔いっぱいに受けながら見上げました。そうしなければ私は苦い煙で酔い潰れてしまいそうだったのです。
七月。退紅色の桜が地へと降り注ぎ、固い枝の隙間から柔らかな若葉が顔を覗かせる爽やかな日々が遠い夢のような、終わりの見えぬ長い、長い雨。
一日ぐらい晴れたっていいじゃないかと頬を膨らませたって、太陽はちっとも顔を覗かせてくれやしなくって。そのことに小さな赤子のように身悶えしては
まだ七日しかたってないのに、この淀んだ地上を銀の陽光が射したのは、たったの十七分だけ。そう気まぐれに付けたテレビの中で、短い赤いスカートを履いた茶色い髪をした女のニュースキャスターが、上っ面だけの笑みを浮かべ、さもつまらなそうに話をしていました。その次に轢き逃げ事故のニュースが流れ、私は胸の奥が小さく疼いてすぐにテレビの電源を落としてしまいました。
お母さんが死んだのは六月の温かな夜のことでした。その日、私がお友達の家から帰ると、お母さんとお父さんが言い争いをしていました。それは、とても取るに足らない些細な事で、さらに精神的に不安定だったお母さんがお父さんと喧嘩をしてしまうのはいつもの事でしたから、私は、あぁ、またか。としか思っていませんでした。だから、私はお母さんが家を飛び出した時、その背中を追いかけることもせず、ただお家の中で好きなテレビを見ながら夕飯を食べていました。お母さんとお父さんの愛を信じていたから。
しかし、あの日から私を取り巻く世界も温度も四月だとか五月だとか、今まで過ごしてきた時間を巻き戻したり、繰り返したりしながら、あっちへこっちへ。進まないくせに目まぐるしく変わる、凍えるような梅雨の季節。
「ねぇ、お父さん。お母さんは何で私達を置いて行く事になってしまったの?」
「さぁね、お母さんじゃないから分かんないな。でも、きっとお父さんの事が嫌いになってしまったからなんだろうよ」
そんなことないなんて言ったってお父さんは信じてやくれない。だから、私はお母さんのように小さく口を開いては、針と糸で縫い付けてしまったかのように唇を噛み締めます。だけれど、本当はこれではいけないのです。私だけは二人の気持ちを知っていたから。しかし、だからこそ、私の口からは伝えられないのです。
ごめんな。とぶくぶくと煙草とお酒でしゃがれた微かな囁きが、コンクリートと擦り減ったタイヤが擦れ合う音に紛れて、気味悪く鼓膜を揺らします。それを掻き消すように通り過ぎていく風の叫び声が私の両耳を覆い尽くしていきます。それはテレビから聞こえてくる面白くもない芸人たちの笑い声によく似ている気がしました。私はその音の塊にぼんやりと耳を傾けながら、大嫌いな子守唄を向かい風に乗せて口ずさみます。そうすればお母さんの最後の言葉が分かるような気がして。
お母さんを一番初めに見つけたのは私でした。夕食の時間が過ぎても帰ってこないお母さんをお父さんと私で探しに出かけました。そうして、通学路の途中。急カーブを曲がった先にそれはありました。
へんてこな方向にねじ曲がった白い爪先に引っかかったお揃いの青いサンダル。お化けのように地面に広がった赤茶けた髪に紛れた青紫色の唇。喪服のように真っ黒なワンピースよりも黒い液体。錆びた鉄の充満したその水溜りの中にお母さんは寝そべっていました。
お母さんは轢き逃げにあいました。
しかし、お父さんはそれを自殺だと信じて疑いませんでした。何故ならお父さんは、自分だけが一方的にお母さんを愛していたと思っていましたから。だから、お父さんはお葬式の時、泣かずにただひたすらにおじいちゃんとおばあちゃんに謝っていました。
私が彼女を殺してしまったのだと。
震える手を地に付け、血が滲み程噛み締めた唇を見てしまったから、私も拳を握りしめ、薄情と罵られようともお父さんの傍らで一緒に泣かずに寄り添いました。
そんな私達は湿気を孕んだ灰の世界が黒い塊に閉じ込められ、愛が重く圧し掛かる。
例えばそれは、優しいお休みの声。それは、温かな布団。それは、ふかふかな毛布。それは、甘い夢。それは繰り返し、繰り返し、優しく頭を撫でて、抱き締める前に朝日と共に泡沫になって消えて行く。
それは、腕。それは、体温。それは、吐息。それは、鼓動。それを追い求め両腕が空を切る。そうして、目が覚め、しょっぱい涙が目尻から溢れて頬に冷たい線を描く。
それこそ私が伝えたい「愛」なのです。
お父さん。
そして、お母さんもそうだったのです。
貴方が仕事で居ない時に貴方の話を私は沢山聞きました。良いことも悪いことも、全て。彼女はその過去になってしまった時間をどこか寂びそうに瞳を潤ませながら、幸福だと言って笑っていました。貴方のことを、何があってもやっぱり愛していると言っていました。
そうして、二人の一方通行の涙が半分こになって私という人間を創りました。
そして私は、私を包み込むねっとりと湿り気を帯びた心地良い膜から飛び出せないまま、ただ、ゆらりゆられて夢うつつ。茶色い瞳に映りこむ、白けた大きな山々なんて私は知りたくありません。だけれど、それでも知らなくてはならないのです。そんな場所へ私は冷たい鉄の塊でお父さんを連れて行きます。
「ねぇ、お父さん。お父さん。これから私はどこへ行くの? あのお山に登るの?」
「それは昨日も教えた事だろう」
ぶっきらぼうな言葉と共に、雨雲にそっくりな煙草の煙が、宙を浮かぶ水と混ざり合い私の足元へと落ちて行きます。バックミラー越しに覗き見たお父さんの顔に浮かぶ幾つもの歳を重ねた人が日々刻んでいく様々な皺。その溝の間を滑り落ちる一筋の透明な雫。まだつるりと白い私には到底理解出来ぬその人生の軌跡。それでも、分かるのは人を失った悲しみと、愛情。
今にも溺れ死んでしまいそうだ。
息を吐く。だけれど、吐くだけ。吸うのはとても苦しくてできません。排気ガスの苦く生暖かな、お母さんとお父さんの荒い呼吸を含んだしょっぱい生暖かな。そうして、私の中を駆け巡る二分の一の生暖かな液体が。それらを吸うのは私には重すぎます。沢山の水が溶け込んだ目には見えないその空気。素直になれない大人とよく似たそれ。そのくせ私を押しつぶすそれ。その水圧で、私はもうすっかり海上には浮き上がれなくなってしまったみたいです。だから、肺に溜まった全てを吐き出して沈みたいのです。
「あのね、お父さん」
「何だ」
「何でもない。あっちに行ってから話すね」
お母さんはもういない。お父さんは何も知らない。地上の上では私達は自由になれない。ならば私は。
白い霧に沈んだ深緑の森が近づく。頬を掠める風がより一層冷たくなる。
地面の上なのにうまく呼吸が出来ないのは全部梅雨のせいだと私に言い聞かせる。
「そろそろ着くから準備してくれ」
「うん」
車のフロントガラスにぶら下がった写真。そこに映り込んだお母さんの眩しい笑顔。それに、私は微笑みかけ、隣の座席に横たわる真っ白な百合の花束をそっと胸に引き寄せる。
百日目のお母さんが居ない日を祝うため。
お母さんに会いに行くために。
私は喉元に溜まった悲しみを飲み込んで子守唄を歌い続けます。
瞳を閉じれば、闇に溶ける真っ白なお母さんの肌と、その傍らに呆然と立ち尽くすお父さんの青白い肌。それをただ眺めることのしか出来ない二分の一の私。
こんな日ならばきっと。
また空気を吐き出し、目に溜まった雫を真っ黒な服の袖で拭う。
もし、もしも、私が死んでしまっても、それはきっと、きっと。
梅雨に溺れたせい。
敬具
前回の地上の溺死は些か大袈裟すぎるのではないかと言われたので、今回はだったら内容を大袈裟にすればいいじゃないと、大分内容をえぐくしたつもりです。ついでにこの後どうなるかはあなたの中で決めてください系の話です。ご自由にお考えください。