その②
その日の夕食後、ヴァンとラビスミーナはゼフィロウ城の地下にある専用ポートに向かった。レンまで潜水艇は自動運転となるが、乗船中の世話をするアテンダントの女性が二人を待っていた。柔らかそうな亜麻色の髪は動きやすいように束ねられている。
溌剌とした美人だ。
「急なご出発ですね? レンでは学会があるとか。お二人で参加なさるなんて素敵ですわ。ご到着は明日の朝になります。船室の用意はできておりますので、それまでごゆっくりお過ごしくださいませ」
彼女は婚約したてのカップルに微笑んだ。
「どきどきするよ」
ヴァンが顔を輝かせる。
「ああ、私もだ」
ラビスミーナも答えた。
(まあ、こちらの方がどきどきしてしまうわ)
若いアテンダントは幸せそうな二人を思わずうっとりと見つめてしまった。が、それから相変わらず顔を輝かせているヴァンの言葉に耳を疑った。
「ラビス、俺は朝までにブローフマン先生の論文に目を通して、お会いした時にお聞きしたいことをまとめておきたいんだが」
「ああ、それがいい。私は学会に顔を出すレンの面々のリストに目を通しておく。それから少し体を動かして腹ごなしだ。エレン、ジムの用意はできているかな?」
ファマシュ家専用潜水艇のアテンダント、エレンにラビスミーナは微笑んだ。
「え? ええ……でも、お二人のお部屋には、あの、お花や、香料や、最高のお酒も用意してございますが……」
「それはありがたい。明日に備えて英気を養わなくてはならないからな。エレン、いつもありがとう」
ラビスミーナが爽やかに答える。
(やはり、というべきか)
日ごろからラビスミーナに憧れていたエレンのロマンチックな心遣いが台無しになった瞬間だった。
ヴァンは明け方からではあるがぐっすりと眠ってシャワーを浴び、朝食の席に着いた。
「ヴァン、今日はずいぶんしゃきっとしているじゃないか?」
エレンとともに談笑しながらお茶を飲んでいたラビスミーナが言った。
「ラビス、もう、起きたのか?」
「ああ、少し体も動かした」
「ラビスミーナ様ったら、私の仕事のお手伝いまでしてくださるんですもの」
エレンが笑う。
「エレンの仕事の内容を知るのも私の仕事のうちだ。それに私も使えない人形にはなりたくないからな」
「まあ、ラビスミーナ様ったら。ヴァン様、朝食にしてよろしいですか? レンにはそろそろ到着いたしますし」
エレンがヴァンに聞いた。
「お願いするよ。俺はまずフルーツのジュースが飲みたいな」
「わかりました」
エレンは答えた。
「手伝おう」
ラビスミーナがエレンに続いた。
海の国セジュの九つの核がそれぞれ数十万から数百万の人口を持つのに対して、それを束ねるレンの核は数万の人口を持つのみだ。そこにあるのは九つの核の情報を管理し、セジュの治安や法を守り、人々の福祉の向上を検討する中心機関と、様々なイベントや会議が行われる施設、そして研究施設だ。あとはそこで働く人たちの住宅や、訪れる人のためのホテル、そして商業施設となっている。人口は少ないレンだが、観光や仕事でここを訪れる人の数は多い。
素っ気ないといってもいいほどに近代化されているレンのポートに降り立ったヴァンとラビスミーナは、潜水艇から降ろしたエアカーに乗り、学会の開かれる会場へと向かった。
街路樹の続く広々としたメインロードから近代的ビルのある敷地に向かって二人の乗るエアカーが吸い込まれていく。ビルのエントランス周辺には既に多くの関係者とレンの治安部から派遣された警備担当職員の姿が見えた。
二人がエアカーを降りると早速案内の職員が飛んで来た。若くはあるが、ヴァンは科学技術に抜きんでたゼフィロウの代表者である。そしてゼフィロウの治安部長としてレンを訪れることの多いラビスミーナを知る者は多い。
だが、この日のラビスミーナは、普段とはその印象がずいぶん違っていた。いつもはかっちりとしたゼフィロウ治安部の制服姿だが、今日のラビスミーナは大人しい水色のスーツに身を包んでいる。美しい黒髪も柔らかくまとめ、慎ましやかだ。ラビスミーナを知るレンの職員たちは、ある者は拍子抜けしたような、また、ある者はあっけにとられたような顔をしてこの二人の大物出席者を見送った。
輸送システムに関する学会は大がかりなもので、大ホールで基調演説が済んだあと、幾つかの部屋に分かれてシンポジウムやディスカッションが行われる。基調演説の間中あくびをしそうになってはラビスミーナに足を踏まれていたヴァンもいよいよそわそわしてきた。
「ラビス、俺はこれからブローフマン先生のディスカッションに出るが、お前はどうする?」
「そうだな、私は細かい話を聞いてもつまらないから、少し客と話をして潜水艇に戻るよ。夜のパーティーのための支度でもしていよう」
こうしている間にも、ラビスミーナと話をするチャンスを狙う客たちが遠巻きにしている。
「そうか、俺も後で着替えに戻る」
彼らに目をやりながらヴァンは言った。
「じゃ、その時にな」
「ああ」
軽い足取りでその場を去るヴァンをラビスミーナは見送った。
一通りの社交を終えて潜水艇に戻ったラビスミーナをレンに店を持つスタイリストが待っていた。エレンがゼフィロウから持参したパーティー用の服を出してくると、スタイリストの女性はピンクパールのミディアム丈のドレスを選んだ。
「髪は緩くウェーブをつけてアンシンメトリーに結ってみましょうか。アクセサリーに凝って存在感を……」
「いや、存在感はいらない。今日の主役はヴァンだから」
「もちろん、ヴァン様にもドレスアップしていただきますよ」
スタイリストの女性は張り切って答えた。
「あのヴァンが着替えの時間のことまで考えているかな?」
ラビスミーナは笑みを漏らした。スタイリストは当惑してエレンを見たが、そのエレンには絶望の表情が浮かんでいる。案の定、ヴァンはしびれを切らしたスタイリストが爆発寸前のところでようやく潜水艇に戻って来た。
「おっ、ラビス……」
ヴァンはすっかり着替えの済んだラビスミーナを見て言葉を飲み込んだ。
「どうかな? 少し派手ではないか?」
「いや、そんなことは」
ヴァンは小さい頃からラビスミーナが美しいことを知っていた。たとえどんな格好をしていても、だ。しかし、やはりこうドレスアップされると戸惑ってしまう。
「いいならいいと、褒めてくれてもいいんだが」
ここまで言われると言葉に窮する。いつもなら簡単に言い返せるのだが、ここまで可愛らしいと言葉が出ない。
「ヴァン様、見とれるのは後にして、さっさとご自分の着替えです」
エレンに助け舟ともいえない助け舟を出され、ヴァンは怖い顔をするスタイリストの女性に連れて行かれた。