その①
〈ブライトソードBright Swords 外伝〉
ゼフィロウの虎
かつて地上の戦いを厭い、深い海の底にその住処を移した人々がいた。彼らを率いたのはひとりの王と大巫女。
王は九人の王子一人一人に核と呼ばれるドームを造らせ、それぞれをその領主とし、力を合わせて一つの国を造るよう命じた。
この九つの核を束ねるのはレンという組織だ。その頂点に立つのは四年に一度、九つの核の領主の中から選ばれた者……その者がこの海の国セジュの王となる。
セジュ王は各核の領主のまとめ役と言ったところで大きな権限があるわけではない。だが、セジュの人々はセジュ王と代々の大巫女とともに長い長い年月を乗り越えてきた。
王子たちが築いた核にはそれぞれ特徴がある。ケペラは農業、ニエドは商業、ミアハは手工業、ヴァグは輸送と工業、スカハは土木と資源開発、バナムは芸術とファッション、ネストは観光・レジャー、ハルタンは医学といった具合に。
そして九番目の王子が築いたここゼフィロウは、科学技術の開発に力を入れた核だった。
「なあ、ラビス、俺はレンで開かれる新しい輸送システムについての学会に出るんだが」
ゼフィロウ城の研究室から城の夕食に顔を出した若者が言った。いつものことではあるが、髪はぼさぼさ、服もよれよれだ。身支度を整えれば、なかなか見目の良い若者なのだが、何せ、いつもこの調子なので、その良さが全く理解されない。
こんな若者が、九つの核のうち飛びぬけて実力のあるゼフィロウの領主の城をふらふらしているのには訳がある。
彼はこう見えても、ゼフィロウの科学技術を束ねる領主直属の研究所のリーダーであり、ゼフィロウ領主であるファマシュ家の親戚であり、しかも、ゼフィロウ領主エアの長女ラビスミーナと婚約したばかりという、いわば未来がバラ色に輝き、幸運の女神に愛された若者なのだ。
「レンで学会? ああ、安全性と耐久性についての検討は絶えず重ねられなくてはならないからな」
既に城の主エアとともに食卓に着いていたラビスミーナは頷いた。この二人は一目で血のつながりがあるとわかる。エアはエメラルドグリーン、ラビスミーナはブルーと瞳の色は違ってはいるものの、その流れる黒い髪も、誰が見ても美しいと感じるその風貌もそっくりだ。妻を失ったエアは未だに多くのご婦人たちから熱い視線を送られているし、ラビスミーナもゼフィロウの治安部長といういかめしい肩書にもかかわらず、結婚の申し出が多かった。婚約の話も内々なので、相変わらず熱心な求婚者がいるくらいだ。
話を戻そう。
その若者、名前はヴァン・レジス・パスキエというのだが、早速美しい婚約者の隣に座り、目の前の料理を頬張りながら言った。
「でだ、その後パーティーがあるんだ。俺の恩師が来る。婚約の挨拶をしたいんだが、一緒に来てくれるか?」
「いつだ?」
ラビスミーナ、その見目も食事マナーも麗しい妙齢の女性は、婚約したばかりの相手に聞いた。
「それが、明日なんだ」
ヴァンは気にもしないで続ける。
「何だと? 悪いな。明日はテロリストに備えた緊急出動訓練がある」
「は? どこのだれが、どこを相手にテロ行為を行うって?」
素っ気なく答えたラビスミーナに、ヴァンは呆れて聞き返した。
「わかってないな、ヴァン。このゼフィロウ、そしてセジュは全体として見れば安定している。だが、それでは面白くないと言う輩もいるのだ」
「それはお前のことか?」
「失礼だな。私は事実を言っている。いざという時、動ける者がいなくてどうする? 事件や事故に巻き込まれ、我々の油断の付けを払わされるのは、何のかかわりもない一般の人たちなんだぞ?」
「まあ、そうだ……」
ヴァンは頷いた。
「ヴァン、その恩師というのはブローフマン博士のことか?」
この、どう見ても婚約したばかりの二人とは見えない男女の会話を黙って聞きながら食前酒を傾けていたゼフィロウ領主エアは、その美しい面をヴァンに向けた。
「はい」
ヴァンが頷く。
「潜水艇のエンジンの設計に定評がある。燃料開発にも熱心だ。確か、今は……」
「ヴァグ領の研究施設にいらっしゃいます。でも、人前に出られなくなって久しい。それが今度の会議に出られるのです」
ヴァンの瞳が輝いた。
「ヴァグか……ラビス、訓練はグリンに任せて行ってきたらどうだ? 婚約者の顔は立てるものだぞ?」
「父上」
ラビスミーナは眉を寄せた。
「ラビス、お前はどうせ最近開発された対潜水艇用の実弾の威力を試したいだけだろう? だが、レンから許可は下りなかった。訓練で発砲する必要性などないそうだ。潜水艇を動かすだけならグリンで十分だろう」
「父上……実際に使ってみてこその訓練だと言うのに……レンの連中は頭が固い」
ラビスミーナは怒りの矛先をレンに向けた。
「そうだな」
エアは頷きながら、ふと表情を引き締めた。
「ブローフマン博士のエンジン設計には素晴らしいものがある。レンも博士を擁するヴァグが開発しているシステムに興味を持っているようだ。だが、実用化までには時間がかかるだろう」
「輸送システムの学会か……よし、ちょうどいい。レンの治安部も顔を出すだろう。意見の交換をしてこようじゃないか」
「ラビス、穏便にな」
ヴァンは言った。
「ラビス、わかっていると思うが、婚約者殿に恥をかかるようなことはないようにな」
エアも念を押す。
「もちろんです、父上」
ラビスミーナは請け合った。