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墓守の己は街に出ると露骨な嫌悪、とまではいかないが妙な距離を保った目線を向けられる。
非人なら普通その場にいないものとして扱われるからこれだけでも己の特殊な立ち位置がよくわかる。
真っ当な感覚の持ち主なら何を好き好んで墓守なぞやっているのか理解に苦しむ、といった感じだろう。
事実それは正しい。一昔前ならともかく神の威光が薄れ始めているこのご時勢に墓守なんて奇特な職に就いているのはよほど信仰心の篤い者か、供え物をちょろまかす小悪党かのどちらかだ。
しかし己は聖職者でもその見習いでもないし、供え物に手を付けたこともない。そもそも異人族の墓に供え物をするような奇特な人間はどこかの修道女以外見たこともない。
己が墓守をしている理由は二つだ。
一つ目は言わずもがな教会の連中の自分勝手な理屈の押しつけ。
もう一つは単に家業だからである。
親父も、爺様も、そのまた爺様も。そのまた更に爺様も。
己の一族は代々墓守だ。まあ、一族といっても血の繋がりはないのだが。
墓守が老いさらばえてくると、教会が適当に選んだ非人の子供を連れてきて教育させる。
それの繰り返しが己の一族だ。
詳しくは知らないが、あるいは何か選ぶ基準があるのかもしれない。別に興味も無いが。
ここで寝て起きて墓穴を掘り、一族に伝わる歌を口ずさみ誰かの死体を埋め、教会の連中から給金というにはささやか過ぎる金を頂き、また眠る。
その繰り返しが己の全てだ。一族の過去のことなんてどうでもいい。
今日何度目かの無駄な思考が頭をよぎる。
しかし目線を空に移した途端、そんなものは吹き飛んだ。
いつのまにかオレンジ色に染まっていた空は抜けるように高い。見上げているとなぜだか逆に空へ向かって落ちていくような不思議な感覚になる。
空に浮かぶ雲は流れるように形を変え同じものは一つとしてない。どんなに有名な芸術家でもこれを真似るのは不可能だろう自然の造形。
そして目線を下げると西の地平線に落ちようとしている日輪が目に入る
赤く輝く光球はただひたすらに美しくて神聖なものすら感じる。上手く言葉にならない。
この昼でも夜でもない夕暮れ時に見る空と雲と日輪が己が一番好きな光景だ。
己は神を信じていないが、この瞬間だけは信じてもいいような気がする。
そんな光景だった。
生ぬるい風が髪を揺らす。初夏とはいえ汗だくでいたら風邪をひくかもしれない。
今日の晩飯はどうしようかと考えながら目を閉じてさっきの光景を頭に刻み付けようとする。
瞳の奥に刻まれた景色が絵のように浮かぶ。
一日一日で少しずつ違う黄昏時にまた新しい光景が加わる。
誰がどう言おうと穴を掘ってから見る夕日は美しい。
それだけで十分だ。
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「こんにちは、ですよディル? それともこんな時間ですからこんばんは、の方がよいでしょうか? 」
「……」
いつも通りな挨拶をかけてくる修道女に対して、現実逃避から立ち直った己も普段通りの無言で返す。
それにしてもこいつらは飽きもせずによくこんな場所に来るものだ。いや、マーカスはこの女の護衛として随伴しているだけだから、単純に仕事なのだろうが。
「おいおい、ダンマリかぁ? こちとら時間を割いてテメーの様子を見に来てやってんのによぉ、気ぃ遣って茶の一杯くらい出したらどうだぁ?」
そんなことを考えているとそのマーカスが再度声をかけてきた。
中肉中背で刈り込んだ金髪の頭、表情は自分よりも下のやつを見下す傲慢のそれ。町長の三男坊という生まれのせいなのか元々の性格のせいなのかは知らないが、その態度は金持ちの家に必ず一人はいる典型的な甘やかされたお坊ちゃんだ。ガラの悪い連中とつるんで奴隷や己のような非人を小突いて回るのが趣味だというのだから、兵士見習いというより性質の悪いチンピラだろう。
「マーカス、そんな言い方は良くないですよ。それからディルも。挨拶をされたら挨拶を返すのは人と付き合っていく中でとても大切なことの一つです。 ディルが人と喋るのが苦手なのは知っていますけど、せめて私たちが来たときくらいは会話の練習だと思って頑張ってみてもよいのではないですか?」
対照的にそのチンピラ、いや兵士見習いを窘めている女、アリスは清楚・純粋という言葉がしっくりくるだろうか。
女のことに疎い己でも一瞬思考の止まる、野に咲く花々のような可憐な容姿。この世の全ての罪を赦しますと言わんばかりの慈愛に満ちた表情で話しかけられれば大抵の人間は顔を緩ませて心を開くはずだ。
最も己はこの女の面倒くさい部分が分かってからはそんな気持ちにはなれなくなったが。
己が口を開く前に各々好き勝手なことを言ってくる二人。正直鬱陶しい。素晴らしい夕暮れの余韻を返せ。
「……己がいつお前らに来て欲しいと言った。」
いかにも不機嫌だ、という感じを出した言葉を返す。こいつらの頭は一体どういう仕組みをしているのか、気遣いや無愛想云々以前に己は一度だってここに来てくれといった覚えは無い。
「あぁん? テメェどの口で生意気言いやがんだ? 俺らフツーの人間様がテメェみてぇな非人に用があって直々に来てやってんだぞ? 本当なら地面に平伏して会話するくれぇが普通なんだ。面と向かって話しできることに感謝しろよ」
「……誰かに傅いてほしいなら奴隷でも買えばいい。己は非人であって奴隷ではない。従って雇い主でもない相手に頭を下げる義務はないし、そもそもお前はそこの女の護衛として同行してきただけだろう? 只の付き添いにそこまでする筋合いはないと思うが」
己の言にマーカスが額に青筋を浮かべる。
いつものことだがこいつは本当に短気だ。そんな調子で周りとうまくやっていけているのだろうかと、柄にもないことが頭をよぎる。
「ひ、非人のくせに……! いっつもいっつも癇に障る野郎だなぁ!!! 今日こそは俺の剣の錆にして……!」
顔を真っ赤にして剣の柄に手を掛けようとするマーカス。己もただ斬られるのはごめんなので腰を浮かして逃げる体勢をとった時。
「いい加減にしなさい!!!」
それまでオロオロしながらも黙って事態の推移を見守っていたシスターが鋭く言い放った。
その普段とは違う声質に己もマーカスも思わず首を竦め、背筋が伸びる。
「マーカス、あなたは兵士見習いでしょう!? 上官の方から教わらなかったのですか! 人を殺めるための武器をそんなにも軽々しく抜き放とうとしてはいけません! 激情にあかせて武器を振るおうなど魔物にも劣る最低の愚かしい行為ですよ!! それが善良なる人々を守り、町の安全を守る兵士を志す者として正しい行いなのですか!? 言語道断、恥を知りなさい!! それともあなたは野盗にでもなるつもりなのですか!?」
「い、いやそんなつもりは……」
説教の体制に入った修道女の激しい叱責にマーカスはたじたじになっている。
こいつの面倒くさい部分というのがこれだ。
こいつは武器の類が大嫌いで、それをみだりに振り回す輩には教会で培われた説教と戒めという名の暴力でもって返答する、という困った癖がある。
子供の頃、墓穴を掘っていた己をからかいにきたバカ共が気紛れから手にしていた木の棒で己を叩こうとしたとき、たまたま居合わせたこいつは怒りを爆発させ、そいつらから奪い取ったそれでもって半泣きで逃げまわる悪ガキ共を追いつめて順にぶん殴り、その後己の至福のときである夕暮れ時まで直立不動で説教を聞かせたというとんでもない所業をやらかしたことがある。
ちなみにその時の連中のリーダー格が誰あろうそこのマーカスであり説教を嫌がって口答えしたヤツをあろうことかこの女は本職の剣士も舌を巻きそうな勢いの振り下ろしでもって撃沈させてしまった。
マーカスは頭にどデカイ瘤を作って気絶してしまい、仲間達に引き摺られながら帰ってきた息子を見たマーカスの両親が一様に顔を引き攣らせ、素行の改善を図るために奴を兵士見習いにねじ込んだ。
それ以来、マーカスはこの女に一切逆らえなくなってしまったのだそうな。
そしてその件で己はこの女に対する自分の中の評価を改めて下方修正し、こいつらが来るたびに大なり小なりの騒がしい時間に捕らわれるのだ。
だからいい気味だ、とは思わない。どうせ直ぐに……
「ディル! あなたはあなたで歯に衣を着せることを覚えなさい! マーカスの傲慢なところはあなたもよく知っているでしょう!? お友達なら行き過ぎた言葉に対して優しく諌めることもできるはずです! 短気で粗野なマーカスと冷静で思慮深いあなたとでは水が合わないのは分かりますが限度というものがあるでしょう!」
こうやって叱責の矛先は己にも向かってくるのだから。
「己がいつお前らの友達に……」
「だまらっしゃい!!! お説教はまだ終わっていませんよ! この際ですからいままでのあなたのことについて色々といいたいことがあります! まずどうしてあなたはそうも非社交的なのですか!?」
「 私たちは十になる前からの仲だというのにあなたは一度も私の名前を呼んでくれたことがないじゃないですか!何度も言っているのに“おまえ”とか“修道女”としか呼ばないし!」
「 それどころか私が教会の仕事の合間を縫って会いに来ているというのにいつもいつも邪険にして鬱陶しそうにしてお話もろくにしてくれません!」
「私が収穫祭や冬越しの祭に何度誘っても墓の管理があるから、とか言って一度だって来てくれた試しがありませんし! お祭りですよ!? 少しくらい羽目を外してもいいと思わないのですか!?
陰気な顔をして町にも必要最低限しか立ち寄らないし! 他にも……!」
「傲慢……短気……粗野……」
……こいつこそ歯に衣を着せることを覚えたほうがいいのではないだろうか。
自分の人となりを実に明確な形で表現された兵士見習いは地面に座りこんでいじけてしまった。
態度がデカい割に打たれ弱くて繊細なのだ。流石のお坊ちゃん気質である。
微妙にマーカスに対して追撃を放ちつつ途中から説教だか愚痴だか己への罵倒なんだかよくわからないことを騒ぐ修道女に己は心の中で嘆息した。
関わっても碌なことがない。
やはりこいつらは厄介者だ。
美しい黄昏時にそぐわない喧しい声が陰気な墓場を通り抜けて行った。