4.甘い? 苦い? キスの味!
気付けばもう、夕暮れ時になっていた。大勢いたお客さんもかなり減ってきている。
おれたちは何となく歩調を緩めて観覧車へと向かう。
途中、頬を赤らめた唯ちゃんに「手を繋いでもいい?」と見つめられたので、少しドギマギしながら手を差し出した。
きっとおれも顔が赤いんだろうなと思いつつ、傍から見たらロリコン一直線の男と視線を送られても、今回に関しては仕方がないと諦めた。
小さな花ちゃんの手。だけど今は、唯ちゃんの手なんだ。
案内役のお姉さんに導かれて観覧車に乗り込むと、意外と静かな空間に緊張感が増す。
おれたちは手を離さずに、隣合わせで座った。
「傾いちゃうかな?」
「大丈夫だよ」
多少の傾きくらいあるかもしれないが、乗るには問題ない。心配する唯ちゃんの手をギュッと握った。
観覧車はゆっくりと上昇していく。
「……泰司くん、今日はありがとう。とっても楽しかった」
唯ちゃんは外を眺めたまま呟く。
これに乗り終わったら、もう彼女はいなくなってしまうのだろうか。
「なんで……おれなの?」
気付けば、そう口に出していた。おれは唯ちゃんのことがわからない。まだ何も大事なことが聞けていない。
「……あのね、私――けっこう重い病気で、本当に毎日、苦しくて辛かったの」
窓から夕日が差し込む。彼女は俯いていた。
「学校もほとんど保健室通いで、よく校庭で部活をしている人たちを眺めてて。調子が良い時は外にも出て、頑張ってる皆を眺めてたの。それで泰司くんも、うちの学校によく試合に来てたから見かけることが多くて。すごく元気で輝いてて、かっこいいなぁって……思って。元気を分けてもらってた」
はにかむ彼女に照れてしまう。
「それで何度目かの試合の時、少しだけ言葉を交わしたんだ」
「えっ」
やはり話したことがあるのか。思い出したいけど思い出せない。
「何を話したの?」
「……内緒」
舌をぺろりと出して、楽しそうに微笑む。
どうしても教える気がないらしい。
「あ、頂上だよ!」
言われてみれば、いつの間にやらてっぺんである。
「夕焼けの町並みって、綺麗だね」
唯ちゃんがあまりにもうっとりと言うもんだから、おれも外を眺める。
確かに綺麗だった。
それから暫く、唯ちゃんとおれは景色に見惚れていた。
「で、まだ成仏できないわけか」
生島は少し意外そうだった。
観覧車を降りた後、こいつから携帯に連絡が入り、おれたちは落ち合った。ちなみにパトロンのお姉さんたちはもういない。
生島の言う通り一緒に一日を過ごしてみたものの、確かに彼女はまだ成仏できないようだった。
「余程、逢坂とのデートがつまらなかったのかな」
「おれのせい!?」
いや、考えないではなかったけど!
すると唯ちゃんは慌てて、「違うの! その……」と、何か言いたそうにしている。
生島の眼鏡がきらりと光った気がした。
「なるほど。宮下さん、君にはまだ心残りがあるんだね」
そうなのか。唯ちゃんに目をやれば、「あう〜」とまた言葉にならない声を出す。
「遠慮はいらないよ。今日は君の為に逢坂は来ているんだ。欲しいものがあるなら買ってもらえばいいし、まだ行きたいところがあれば一緒に行けばいい。いっそ、天国でも構わないよ」
「いやいやいや、それは構うだろ!?」
さすがに天国は無茶がある。というかそんなことを唯ちゃんが望むとも思えない。
案の定、彼女はフルフルと首を振って生島の言葉を否定した。
「あの……本当に私のわがままなんだけど……」
「心残りがあるなら何でも言ってよ。おれ、唯ちゃんの力になりたい」
俯く彼女に、おれは堪らず声を掛けた。好きだと伝えてくれたんだから、その想いに応えたい。
唯ちゃんは怖ず怖ずと顔を上げ、ほっぺを真っ赤にしながら、
「泰司くんと……キスしたい……です」
何故か敬語に戻っていた。
いや、それよりちょっと待った。
今、なんだって?
「君とキスしたいんだそうだ」
ご丁寧に生島が、彼女の言葉を繰り返す。
「えええ!?」
あまりにも予想外の展開に大声で驚いてしまった。
本来ならば、喜ばしい展開だろう。おれとキスしたいなどと言ってくれる女の子なんて、そうそういない。というか初めてだけど。
しかし。しかしである。
それを実行するには、立ちはだかる大きな壁がある。今、彼女の姿は花ちゃんなのである。
「よし、まずは花に確認しよう」
生島はやけににこやかに言って、指をパチンと鳴らすと、途端に唯ちゃんがカクリと項垂れた。
次に顔を上げた時、まるで寝起きのような表情をしていた。
「ふにゃ……花はね〜、泰司くんならね〜、キスしていいよ〜」
こ、これは花ちゃんなのか?
生島は了解――と爽やかな笑顔で告げて、また指をパチンと鳴らす。
カクリと項垂れ、顔を上げれば、恐らく唯ちゃんだろう元の表情に戻っていた。
「どういうことだ?」
おれは生島に向き直る。
「さっき言った通り、花に逢坂とキスしていいか確認したんだよ。花は夢の中で憑りつかれている間のことを大体は記憶しているからね」
まじか。それはそれで、こっちが恥ずかしいぞ。
「とにかくよかったじゃないか。これで思う存分、キスができる」
フフッと気味の悪い笑みを浮かべる生島。
「ちょっと待て。本人がよくても、世間の目ってものがあるだろ」
もし花ちゃんの体にそれを実行したら、おれは完全にアウトになってしまう。
「あ、あの! 無理ならいいから!」
真っ赤な顔で目を潤ませる唯ちゃんを見て、罪悪感が押し寄せる。
「最低だな逢坂、宮下さんを泣かせるな」
ぐっ。二の句が告げん。
黙り込むと生島は面倒臭そうに溜息をつく。
「仕方ない。君の気持ちも汲み取ってあげよう」
珍しいこともあるものだと、まじまじと生島を見ると、指を二本びしっと立てた。
「選択肢を二つ与えてやる。僕も数分なら、宮下さんを憑依させることができるからな」
え〜と、それはつまり……?
「い、生島さん生島さん。それはどういう意味でしょうか……?」
「馬鹿か君は。僕か花か、キスをする相手を選べと言ってるんだ」
はっきり言い過ぎだろー! つーか、選べるか!
「なんで、そうなるんだ!」
「仕方がないだろう。憑依させられる人間自体稀だし、第一君とキスしたい女性なんてそうそういない」
確かにその通りだが、こいつに言われると腹立つな。
「お前は嫌じゃないのか」
「僕は構わないよ、キスの一つや二つ。それにキスくらいで騒ぐような年でもないだろう」
お前はいくつだ。確実に青春真っ盛りのおれにとっては騒ぎ立てたい気持ちでいっぱいだ。
第一……ファーストキスだし。
だー! 考えると虚しくなってきたー!
幼女か男か。究極の選択肢すぎる。
しかし、だ。
ここで花ちゃんを選ぶ勇気はおれにはない。
……もう答えは、一つしかなかったのだ。
「不細工な顔になってるぞ、逢坂。いや、元々か」
「うるせー、お前を選ぶという苦渋の決断をしたところだよ」
「なるほど。無難な選択だな」
おれにとっては無難じゃねー。
「あの……二人とも、そんな無理しないで。私なら……多分、成仏できると思うから」
唯ちゃんは申し訳なさそうに辞退を申し出るが、おれも男だ。キスをしたいと言ってくれる女の子を断ることなど許されるものか!
「いいんだ、唯ちゃん! キスをさせてくれ!」
「逢坂、それじゃ変態だぞ」
生島の真顔の突っ込みと、頬を赤らめる唯ちゃんを見て、自分の発言にちょっぴり後悔する。
だが、おれの決意は揺らがない。
「さあ、人気のないところに移動しよう!」
「そこは小心者なんだな」
当たり前である。
遊園地の敷地内の端っこに、ほとんど人が来ないような森林に面した場所があった。客もかなり減ってきたし、ここならきっと誰にも見られないだろう。
生島は唯ちゃんの耳元で何か呟くと、力が抜けたようによろめく花ちゃんの体を抱え込んで、木に寄り掛からせる。
どうやら眠っているようだった。
「宮下さん、どうぞ」
何もない空気に生島は語りかける。恐らくそこに唯ちゃんがいるのだろう。
ふと目を閉じたかと思うとすぐに、カッとその目を見開いてこちらを振り向く。
「あ、の泰司くん……今、生島さんに憑依しました……」
そこでおれは衝撃を受ける。これは想像以上に厳しい状況であると。
目の前の人物はどう見ても生島で、声も奴なわけで。
「唯ちゃん、それじゃ目を瞑って!」
躊躇っている場合ではない。時間を置けば置くほど、おれは彼女にキスできなくなる。
「は、はい! あの、眼鏡は外したほうがいいかな?」
「……そうだね」
駄目だ。これ以上の会話は危険だ。
唯ちゃんも気付いているのか、眼鏡を外すとそのまま黙って目を閉じる。
おれは彼女の――あくまでも彼女の肩に手を掛けて、あくまでも彼女の唇にそっと自分の唇を重ねた。
ファーストキスの味は、甘いようでとっても苦いものとなった。
それからゆっくりと唇を離せば、頭上に白い靄がかかっており、淡い光を放っている。
おれは目を凝らす。その光の中に一人の少女を見つけたからだ。
長いストレートの髪をたなびかせ、とても穏やかな微笑みを浮かべていた。
『ありがとう――』
声が耳元で響く。どこか聞き覚えのある声。
そして光は消えた。
「見えたか?」
「どわぁ!?」
生島の顔がドアップで視界に入り、おれは思いきり尻餅をついた。
奴の肩に手を掛けたままだったのをすっかり忘れていた。心臓に悪すぎる。
「い、今のはもしかして……」
「もしかしなくても宮下さんだ」
眼鏡を掛け直して答える生島にやはりそうかと、おれは立ち上がる。
しかし霊感が全くないおれに、どうして見えたのだろうか。
「君に少し霊力を注いだんだ。あの一瞬が精一杯のようだが」
生島が空を見上げたので、おれも一緒に見上げた。
真っ赤な空。
「唯ちゃんは――成仏したんだよな?」
「ああ――したよ」
生島の淡々とした返事に、おれはほっとする。
しかしそれと同時に、唯ちゃんを思い出すことができない自分が、すごく苛立たしかった――