ヒーローになる為に
朝起きて、いつもの通り用意をして、刀の形をしたアクセサリーを手に取って、アクセサリーから流れて来るはずの精神が感じ取れなくて、そこでようやくはっきりと覚醒した。
タマに幾ら話しかけても答えてくれない。何度謝ってもうんともすんとも言ってくれない。悲しくなって目に涙が浮かんだ。
結局、タマは法子と繋がってくれなくなった。タマはただのアクセサリーになった。
窓から外を見ると、晴れ晴れとした青空が広がっていた。外はあんなにも明るいのに、自分の心はなぜこれほどに暗いのか。
溜息を吐いて、昨日の事に思いを巡らせて、子供を切った事を思い出して、吐き気が込み上げた。近くのビニール袋を急いでとって、その中に口を突き出す。幸いにも涎が少し垂れただけで、吐瀉する事は無かったが、何だか酸っぱい味が口の中に広がって、気持ち悪くなった。
切った。人を切ってしまった。大きく広がった血だまりが思い出される。慌ただしく運ばれていく子供が思い出される。自分に向けられた恨みがましい目が思い出される。
殺してしまった。人を殺してしまった。そう思うと更に気持ち悪くなった。涙は出ない。ただ吐き気が酷い。頭が痛い。体を傷つけたくてしょうがなくなった。我慢できなくなって、思いっきり頭を後ろに引いて壁にぶつける。ぶつけると後頭部に張り締める様な生暖かい感覚。それがやがて鈍い痛みに変わっていった。けれどそれで何が変わる訳でもない。心は全く晴れない。
虚しいだけだった。
部屋を出て一階に下りる。子供の日常を奪ってしまった自分が、日常生活を送ろうとする事が浅ましく感じられた。制服を着た自分が何だか許せない。けれど日常生活を捨てる勇気は、法子に無かった。
リビングに入ると、弟は既に朝ごはんを食べ終わっていた。
「おはよう、姉ちゃん。昨日はどうだった?」
弟の質問に、法子は顔を俯かせた。答える気力は無い。
弟はそんな姉を見て話題を変え為に、笑顔を向けて、楽しそうに語る。
「そういや、あの魔物騒ぎ大変だったみたいだよ」
法子は反応しない。その事に焦って、弟は更に朗らかに言った。
「何だか、怪我人も出たらしくてさ。幸い生きてるみたいだけど、やっぱ姉ちゃんの言った通り、危ないんだな。姉ちゃんが止めてくれて助かったぜ」
そこでようやく法子はのろのろと顔を上げた。
「生きてるんだ」
「え? うん、意識も取り戻したとか何とか、さっきニュースで言ってたよ。もしかしてその場面、姉ちゃん見てたの」
「うん、ちょっとね」
法子が元気無さそうに答えるので、弟はそれ以上話題にするのを止めた。きっと姉は怪我人が出たところを見てしまってショックを受けているのだろうと思い、無神経な話題を反省した。
「じゃ、俺もう行くから」
弟は気まずくなって、法子の脇を通り抜け、出て行った。
法子はそれを見送りながらそっと息を吐いた。どうやら一命は取り留めていたようだ。人殺しにならなくて済んだ。応急処置を施した人や病院の人達に感謝する。
だがすぐに自分を戒めた。切った事には変わりない。命が助かったとはいえ、傷付けたのは確かなのだ。罪が軽減される事は全く無い。一歩間違えれば死んでしまっていた以上、人殺しの汚名が晴れる事は、無い。
法子が酷く沈んだ様子で入って来た時、その様子にクラス中のみんなが注目した。そしてほとんどが早とちりをした。法子さんが落ち込んでいる。あれはきっと転校生がやってきた日の悪口を聞いていたからに違いない。悪口を実際に言っていた者達は何も感じなかったが、それ以外の者達は何だか申し訳なく思って、すぐに目を逸らした。
法子はそんな形で注目を浴びている事なんて全く気が付かずに、ひたすら下を向きながら自分の席についた。すぐに教師がやって来て、学校が始まる。新しい一週間が始まる。
法子はいつもの様に俯きながら学校生活をやり過ごす。だがタマと出会う前の、諦念と羞恥の入り混じった無心に近い心ではいられなかった。本を読んでも頭に入らず、寝ようとしても周りの音が大きく聞こえる。孤独が酷く浮き上がって、法子は涙が出そうな位に悲しくなった。
話したい。話し相手が欲しい。タマちゃんに戻って来て欲しい。そう考え続けているのだけれど、そんな切なる願いもまた自分が一人ぼっちだと実感する為の材料にしかならず、法子はひたすらタマが戻ってくる事と今日という日が過ぎる事を祈りながら、俯いて学校生活を送り続けた。
時は進み帰りの時間にさしかかり、最後の関門ホームルームが始まった。それも教師のちょっとした話が終われば解放される。そう考えて、法子は早く帰りたいと思い続けたが、事はそう上手くいかなかった。
「あ、そうだ、学園祭ももう一週間前だ。お前等そろそろ準備しとけよ」
教師がぶっきらぼうな調子でそう言った。
法子は嫌なイベントが迫って来たなとやさぐれた気持ちになった。今の最低に沈んだ気持ちで孤独な学園祭を迎えたら死んでしまうのではないだろうか。
「出し物は前に決めたよな。えーっと……何だったかな?」
教師のとぼけた発言に、周囲が一斉にカフェだと突っ込む。法子にはその予定調和なやり取りがうっとうしくてたまらない。
やさぐれている法子を余所に、学園祭の話がどんどんと纏まっていく。中にはめんどくさそうな人も居るけれど、その人も含めてクラス全体は楽しそうに、学園祭に向けてはしゃいでいる。
ただ一人自分だけが何も喋らずに一人ぼっちで俯いている。本当は周りと同じ様に楽しくやりたいのに。本当は周りの人達と親しくしたいのに。
いつもクラス一丸となる様なこういったイベントは嫌で嫌で仕方が無かったが、今日はいつもより色々と考えてしまう。どんどんと嫌になる。その原因であるタマの失踪を思うと、更に嫌になった。
法子は文化祭に向けたやり取りを聞きながら胸の奥に何か重い物が詰まっていく様な心地がしていた。
きっと私がみんなで楽しくする事なんて一生ないんだろうな。
そんな事を考えているとホームルームはいつの間にか終わっていて、法子はいつもの通り一人ぼっちで家に帰り、何もする気が起きずにすぐに寝た。
それから文化祭までの一週間はあっという間に過ぎた。
火曜日はホームルームが終わった後に学園祭の準備があった。ほとんどクラスとの繋がりが無い法子はまともに立ち動く事も出来ず、役に立つ事が出来ず、辺りをうろうろしながら、手持無沙汰に仕事をしているふりをしていた。それに対するクラスの意見は、この前の陰口で傷ついたから仕方が無い可哀そう、やっぱりあいつは役に立たないクラスのゴミという二つに分かれた。それらの評価はほとんど法子に届かなかったが、最後の最後、丁度帰ろうとした時に、あいつ本当に使えないな、そんな言葉が聞こえて法子は思わず振り返ってしまった。意地の悪そうな顔達が法子を見て笑っていた。法子は逃げる様に走って帰った。何もする気が起きずそのまま寝た。
水曜日、タマを失って沈む気持ちに加えて、更に学校に行きたくないという憂鬱までが混じって、朝からどん底に陥った。だが底まで来たのなら後は上るだけで、登校している内に法子の心境に明確な変化が表れる。前日まではタマの事を考えても、ひたすらタマが居ない事に沈むだけだったが、その日はどうすればタマが戻って来てくれるだろうと前向きに考える様になった。必死に頭を働かせてタマとの会話を思い出しながら、タマが戻って来てくれる為の方法を考えて、学校に着く頃になってとりあえず自分の欠点を直していこうと結論付けた。欠点とは何か。それこそ数えきれない位にあるのだが、法子はその中で一番気にしている事、非社交性を治そうと考えた。そうだ、クラスの人と話してみよう。私が他の人と喋れる様な位にまともになったらタマちゃんは戻って来てくれるかもしれない。まずは挨拶を。心に久しぶりの火を灯らせて、教室のドアを開き、そうして大きく息を吸って、大きな声で朝の挨拶を言い放とうとして──結局声を出せずに自分の席へと座った。駄目だった。話そう話そうと強く思うのだが、実際に行動に起こす事がまるで出来ない。結局、何度も話そうとしては諦めて、放課後まで誰とも話せなかった。学園祭の準備では相も変わらず積極的な参加は出来ないが、せめて少し位は役に立とうと、前日よりは大分働いた。だが頑張ったところで周りと比べると結局役立たずが少し役に立った位であり、ついでに手伝いの中で相手から話しかけられても法子は喋る事が出来ずに黙っていた為に、クラスの評価は前日よりも更に明確に分かれた。辛い事があったのに頑張ってくれている。今更何やる気出してんだよ。同情と嫌悪の割合は全く変わらないが、前日よりも法子に注目する人数が増えて、評価は両極端になった。教室から向けられる二種類の視線。法子がもしその視線に気付いたらいつもの如く後ろ向きに捉えて落ち込んでいたであろう。だが幸いにも法子はその視線には気が付かず、ついでに心にはほんの僅かながらも達成感が湧いた。今日は頑張った。これならもしかしたらタマちゃんも。そんな期待をして家に帰るのだが、結局タマは反応をみせてくれず、がっかりしてまた沈んだ気持ちになり、そうして前日と同じで何もする気が起きずにそのまま寝た。
木曜日、ヒーローになろうと思った。別れる際にタマは法子がヒーローになれないと失望していなくなった。ならヒーローになればまた戻って来てくれるんじゃないだろうか。一度は否定した答えを再度吟味して、法子はこれこそ答えだと確信した。答えを見つけたつもりの法子は何処か嬉しい気持ちで学校へと向かった。学校での様子は前日と変わらない。文化祭の準備もほぼ同じ。今日は加えてヒーローについて考えた。ヒーローにはどうすればなれるのだろう。帰り道の途中、ヒーローの条件とは強さと優しさではないだろうかと思いついた。誰にも負けない強さと人を助ける優しさ。そうだ、そうに違いないと勇んで、法子は人助けをしようと辺りを見回しながら家に帰る。だが特に困っている人は見つからず、最終的に家の前に落ちているポイ捨ての空き缶を拾っただけで終わった。優しさが駄目なら強くなろうと、腕立て伏せを開始し、三回目で力尽きて、疲れ切った法子はそのまま寝た。
そうして金曜日の今日、クラスの人々はほとんど帰り始めて、残りは有志達だけが残っている。法子もこそこそとした様子で家路についた。帰り際に、ホントキモいよな、あいつ、という声が聞こえたが、今日は振り返らなかった。顔が熱るのを感じながら、急いで教室から離れた。結局この一週間、タマは反応してくれなかった。もしかしたら今持っているのは既に何でもないアクセサリーに過ぎず中身のタマはもう別の所に行ってしまったのではないか。そんな不安が心をよぎる。だがそれを考えても仕方が無い。今はとにかく自分が出来る事をするだけだ。
どうすればタマちゃんは戻って来る? 再び頭を巡らせて、ふと思いつく。アトランという巨大なショッピングセンターがある。最近出来たその商業施設には国内最大の魔術専門店がある。そこにタマは行きたがっていたのではなかったか。もしかしたらそこへ行けばタマが興味を持って戻って来てくれるかもしれない。
人の多い所に行きたくは無かったが、タマが戻って来る為になら仕方が無い。法子は意を決して道を変えた。
そうして勇んで歩き出したのだが、かなり歩いてもまだ着かない。法子は死にそうになりながら道脇の石塀に手を掛けた。情報に疎い法子はショッピングセンターがどの位離れているのか知らなかった。近いとだけ聞いていたが、それは専用のバスや車で行く場合の話であって徒歩で行く距離ではない事を知らなかった。荒い息を吐きながら、そもそも道順すら知らない事を思い出して絶望的な気持ちになった。
ふと近くから人ごみ特有のざわつきが聞こえてきた。その賑やかさに思わず踵を返したくなったが、踏みとどまる。ショッピングセンターに行けないまでも人通りの多い所に近付いてみよう。そんな決意が心に湧いた。嫌いな人ごみに自分で入って行けたら、何かが変わる気がした。
そうして決意を込めて一歩踏み出そうとした時、
「あ、法子さん」
傍から聞こえてきた呼びかけの所為で足が止まった。聞き覚えのある声だ。横を向くと転校生の野上将刀が居た。
「……野上君」
辛うじて法子は言葉を発する。将刀は朗らかに笑った。
「どうしてこんな所に?」
友達が居なくなって寂しくて、だなんて言える訳が無い。しかし咄嗟の嘘も思いつかずに、法子は顔を伏せた。
「そっちこそ、どうして?」
「俺は……まあ、何となく」
将刀が歯切れ悪く答える。
「じゃあ、私も何となく」
法子も不愛想に答えた。
沈黙が下りる。
法子は自分で作り上げた沈黙なのに、その重苦しさに耐えられず逃げ出したくなっていた。
将刀は戸惑った表情になったが、すぐに笑顔を浮かべた。
「そういえば、文化祭は明日だな」
法子は文化祭に苦痛と無関心しか感じない。笑顔で文化祭の話題を出した将刀に法子は怒りすら感じて押し黙った。
将刀は訝しむ様に眉根を寄せたが、またすぐに笑顔になって将刀は殊更明るく言った。
「そういや、文化祭の準備頑張ってたな」
後ろ向きな法子にとっては皮肉にしか聞こえない。将刀の爽やかな笑顔が自分とは全く違う存在だという事を誇示している気がした。そうして駄目な自分の元にタマが帰って来なかった事を、この一週間の全てが無駄だった事を嘲笑われた様な気がした。瞬間、沸騰した感情のままに叫ぶ。
「分かってるよ! あたしが役に立ってないってのは! みんなに嫌われてるのも分かってるから! いちいち言わなくても分かってるよ!」
「な! そんな事言ってないだろ!」
「うるさい! 自分でも分かってるよ、こんなんじゃ駄目だって! でもしょうがないでしょ! どんなに頑張ったって人並みに出来ないんだから!」
急な剣幕に圧されて何も言えずにいる将刀へ、法子は尚も言い募る。
「良いよね、野上君はさ! 楽しいんでしょ? 生きてて! 明日の文化祭だって楽しみなんだよね? でもね、世の中にはあんた等みたいな恵まれた人間ばかりじゃないの! 何をしたって、皆に嫌われる人が居るの! 明日の文化祭だって、生きてる事だって、辛くて仕方が無い人が居るんだって分かってよ!」
ぶちまけられた一方的な物言いに今度は将刀が逆上する。
「お前な!」
そこで感情が高ぶり過ぎて一瞬将刀の声が詰まる。突然の将刀の大声とほんの一時の悲しげな間に法子は虚を突かれた。そこに将刀の言葉が突き刺さる。
「そんだけ後ろ向きに考えてれば、誰だって鬱陶しいと思うに決まってんだろ! こっちが楽しくしようとしてるのに、そっちがそれをぶち壊して、しかもそれを他人の所為にして不満に思って! そうしたいって言うならそれでも良いよ! けどなそれが嫌だって言うなら変わろうとしろよ! 何で嫌だと思うなら自分を変えようとしないんだよ! どうして物事を前向きに捉える努力をしないんだよ!」
それはまさしく法子が日頃から自分に対して抱いている悪い評価その物だった。でも変わろうとしても変われないのだからしょうがない。どんなに努力したって出来ないのだ。けれど、それが普通の人にとっては簡単な事で、出来ない事が異常で、他人から見れば努力をしていない様に見える事は分かっている。だから法子は何も言い返せずに、目に涙を浮かべて顔を俯けた。
法子の頭の中に言葉の衝撃が鳴り響いている。視界が揺れて安定しない。首筋から悪寒と熱が奇妙に綯い交ぜになりながら這い上がって、息が荒くなる。法子はよろめいて、後ずさった。もう将刀の声は聞こえていない。
「実際あんたは頑張ってただろ? 変わろうとしてたんだろ? みんなもそれを歓迎してた。だから後は前を向くだけなんだよ! ──あ、おい!」
法子はその場に居られなくなって、背を向けて人通りの多い道へ走り出た。将刀の言葉など聞く余裕は無く、法子は涙をこぼしながら、後ろ向きな自分を責め、それを指摘した将刀を責め、自分の周囲を責め続けて、人通りの多い道を駆け抜けた。先程の将刀の言葉に、自分という存在と今迄の生き方とこの一週間の頑張りを否定された気になって、法子は心を瓦解させながらひたすら頭の中で呟き続ける。
嫌だ、もう全部嫌だ。
すぐに息が切れて走れなくなり、丁度良く在った時計台を囲むベンチに腰かけて、ふさぎ込んだ。
嫌だ、嫌だ。
段々と思考は曖昧になり、もう何が嫌なのか明確に思い浮かべぬまま、むしろ明確な思考と結びつかぬ様に頭の中を塗り潰すそうと、嫌だ嫌だと思い続けた。
そこに声がかけられた。
「ねえ、一人?」
見上げるとスーツを着た中年男性がにやにやと笑いながら法子の事を見下ろしていた。脂ぎった毛深い手が法子の肩を掴む。
「ちょっと見ててよ」
そう言って、中年男性はもう片方の手で懐から銃を取り出して、己のこめかみに当て、引き金を引いた。音も無く男性の頭が破裂して消えた。
「え?」
気が付くと街の中が狂っていた。
頭の破裂した男は手を鳥の様に羽ばたかせ、往来にぶつかりながら何処かへと消えていった。ぶつかられた一人の女性は、猿の様な声を上げながら、近くで店の呼び込みをしている男性に掴みかかる。それをはやし立てる男達が手に手に箒を掲げて踊っている。別の場所では電柱に掴まってけたたましく笑う女が居る。それをしきりに眺めながら何やら画用紙に絵を書きなぐっている男が居る。他を見れば、裸になって抱き合う姿も見えた。嘔吐しながら転げまわっている者も居る。
恐ろしくなって逃げようとした時に、横合いから腕を掴まれた。さっき頭を破裂させた男だった。男は無くなった頭に満面の笑みを浮かべて、優しげに語りかけてきた。頭が無いはずなのに、何故かそこに笑顔が見える。
「さあ、君も一緒に」
法子は悲鳴を上げて掴む手を振り剥がそうとするが、力が強く引き剥がせない。男は蛆の湧いた瑞々しい首の断面を法子に近付けてくる。
法子がもがく。男は放さない。
助けて。思わず法子は祈っていた。浮かんだのは、自分に語りかけてくれた刀の優しい声。助けてともう一度繰り返す。だがタマは反応しない。男の傷口が迫って来る。
その時ひしゃげる音が響いた。乾燥した木の枝を複数まとめて押しつぶしたような音だった。目の前の頭の無い男の頭に、一本の矢が突き立っていた。
次の瞬間に、世界がひび割れ、崩れ落ちる。気が付くとネオンの灯った繁華街。ただ通行人は居ない。その代わりに道路には沢山の人が倒れている。そして法子の目の前にピエロが立っていた。頭には矢が突き立っている。
「ひひ、僕の邪魔をするのはだあれ?」
ピエロが奇妙にねじくれた動きで横手を見上げた。法子の視線もそれに釣られる。
ビルの上に誰かが立っていた。良く見えないが、人の様だ。黒い姿が闇夜に滲んで、おぼろげにしかその姿を把握できない。
その人影が消えた。法子がビルの上の人影を見失った瞬間、法子の体に衝撃が走った。続いて宙に浮く心地がして、気が付くと元居た場所から遠く離れていた。遠くにピエロが見える。訳が分からない。足がつかずに混乱した。
「大丈夫か?」
法子へ優しい声がかけられる。その声の出所は法子のすぐ傍にあった。法子に技を教えた漆黒の騎士が西洋兜の合間から見える口元を微笑させていた。自分が今抱き上げられているのだと気が付いた。
「大丈夫……です」
熱に浮かされた様にはっきりしない頭で、法子はそれだけ答えた。
騎士は頷くと、法子を地面に下ろして呟いた。
「危ないからそこから動くな」
剣を構えてピエロへと向く。ピエロが腹を抱えて笑いながら、近くに転がる人間を蹴り上げた。その瞬間、騎士が消えた。
ピエロが宙に飛び上がる。一拍遅れて、ピエロが居た場所に、剣を振り切った騎士が現れ、大きな破裂音がした。
それが、剣で切ろうとした騎士と回避したピエロの一瞬の攻防だったと法子が気付いた時には、ピエロは近くのビルの中へと逃げ込み、騎士もそれを追って消えていた。
ビルの奥から笑い声と金属音と爆発音が断続的に聞こえてくる。しばらくしてビルの窓という窓から何かが流れ出てきた。血だ。鉄錆の匂いが外にまで充満する。
やがてビルの内部が光り輝き、しばらくしてから騎士が飛び出してきた。そうして法子の前に着地する。
「とりあえずあの魔物は帰した」
騎士がそう言った。法子は安堵して騎士を見上げた。人と面と向かえない法子だが、兜に隠れて目が見えないからか、平気でその顔を見る事が出来た。
「で、何で君はここに居るんだ?」
突然、騎士がそんな事を言った。法子はその意図が読み取れずに何とも答えられない。
「君はまだ学生だろう? 夜にこんな所に来たら危ない。早く帰……りなさい」
心配してくれてるんだ。厳めしい鎧を着たまるで物語に出てきそうな騎士が、そんな素敵な存在が、自分なんていう惨めな存在を心配してくれていると思うと、法子はそのちぐはぐさがおかしくて、そして嬉しかった。
「はい、帰ります。どうせ用事なんかなかったから」
「ならどうして」
「それはアウトレットに行こうとしたけど、どう行けば良いか分からなかったから、とりあえずここに」
高揚した気分の所為でそこまで言ってしまってから、自分がとても恥ずかしい事を言っている事に気が付いて法子は口を噤んだ。
笑われるかなと思った。けれど騎士は微笑を崩さず、そうかとだけ言って法子に背を向けた。
「とにかく早く帰った方が良い。じきに皆起きて混乱するだろうから」
その言葉を残して、騎士が闇夜に消えた。
法子が空を見上げていると、辺りからうめき声が聞こえてきた。確かに騎士が言った通りの様だ。混乱する前にと、法子は急いでその場を離れた。
家への帰り道、法子はぼんやりと空を見上げながら、騎士に助けられた事を思い出していた。カッコ良かった。悪党から人々を守るヒーロー、まさしく法子がなりたい理想の姿だ。
あんな風になれたら良いなと思った。その為にどうすれば良いのかは分からない。けれど何となく具体的な目標が見つかって、法子は満足していた。いっそあの騎士に弟子入りしようかと考える。
人を守るヒーロー。誰かが危険な目に遭っていたら、真っ先に駆けつけて守ってあげる。数あるヒーロー像の内の最も単純で最も普遍的な姿だ。けれどその見飽きたヒーロー像が今の法子にはとても新鮮に感じられた。心の底に確かに灯る英雄の形が出来た。
次の朝、法子が巻き込まれた繁華街での事件がニュースで報道されていた。意識の混濁や怪我等の軽症者が多数に、重傷者が幾らか。最近の魔物の事件ではかなり大規模な被害だったと告げている。魔物の出現は一度現れ始めると加速度的に増加するので一帯に住む人々は注意するよう呼びかけている。
そんな大事件だったのかと今更ながらに恐ろしくなった。だが法子の顔はにやついてしまう。騎士に助けられた事と明確なヒーロー像が浮かんだ事を思い出して。
準備をして外に出ると、寒さが昨日よりも一段と強まっていた。寒さに体を縮こまる。体を縮こまらせると同時に心も縮こまった。さっきの嬉しさは何処へやら法子は今日の事を思って憂鬱な気持ちになる。
クラスの出し物における法子の役割は裏方だ。料理を作ったり配膳したり。外に出て接客をするウェイターやウェイトレスに比べれば随分マシだが、それでも自分に務まるとは思えなかった。何なら良かったのかと言われても、出来ると思える事は何も無く、結局の所、文化祭に参加する事自体が嫌なのだ。
そして仕事以上に自由時間が問題だった。友達が居ないので文化祭を楽しむという選択は難しい。文化祭の賑やかな雰囲気の中をたった一人でうろつくというのは、自分の孤独な惨めさが際立って、想像するだけで吐き気がした。ましてその様子をクラスの誰かに見られる可能性が非常に高い。その事を種に笑われると考えると地獄以外の何物でもない。
どうすれば良いか。法子の今日の当番は正午から。つまり文化祭開始と同時に暇という災厄が降ってかかる事になる。時間は無い。どうにか身の振りを考えなくちゃと法子は無闇に気合を入れた。
法子が装飾された教室のドアを開けると、駆け寄ってくる人影があった。勿論自分に用事がある人なんて居ないので、法子が身を引いて道を譲ろうとすると、あろう事か目の前に立ち止まり満面の笑みを浮かべてきた。
「おはよう!」
法子は突然の事に訳が分からず何も考えられなくなる。クラスの人が自分に話しかけてくるなんてありえない。あまりの事に法子は挨拶すらも返せない。
「あのさ、ちょっと法子さんにお願いがあるんだけど良い」
法子が首を傾げる。その首を傾げるという行為が相手の言葉に対する反応なのか、緊張した体が痙攣した結果なのか、法子自身にも分からない。
「法子さん、12時から3時までキッチンだったでしょ? でも変更して欲しいの。9時から12時までホールに。良い?」
法子が頷く。
法子にとって相手のお願いを断る事は相手にいずれ復讐されるという事であり、そんな事は御免なので、承諾しないという選択肢は無い。だから無意識の内に頷いていた。
「良かった! じゃあ、私も同じ時間だからよろしくね」
忙しそうに駆けていく生徒を眺めながら、法子は今のやり取りが非常に重たいものだと気が付いた。
つまり自分に接客をやれという訳だ。でも、自分が接客なんか出来る訳が無い。不可能だ。まともに人と喋れないのに、どうして接客なんて出来るだろう。法子に悪意を持つ者が、きっと務まらないであろう接客役にわざと据えたに違いない。しかも一番早い時間にして、心の準備も何もさせない様に。
一瞬視界が暗く陰った。倒れそうになった体を踏ん張って支えながら、法子は泣き出したいのを堪えて、キッチンに入る。シフトを確認すると、自分の名前が書き直されて、朝のホールになっていた。絶望の表情を浮かべた法子は空っぽの頭で、キッチンとホールを隔てるカーテンを潜って、ホールに出た。机と椅子が整然と並べられている。生徒達が思い思いの場所に座り、立ち、だらけた調子や高揚した様子で文化祭の始まりを待っている。
法子はその間を通り、教室の外へと向かう。目的は無い。一人になりたかった。だが外に出る為の出口に生徒が数人、まるで塞ぐ様にして立ち話をしていた。以前法子の事を大声で批判していた者達だった。法子は途方に暮れて、立ち止まる。
その時、その出口の戸が開かれた。
登校時間で出入りの多い今、誰もそんな事気にしない。目もくれない。戸の前に立っていた者達と戸を見ていた法子だけがそれを見た。
ピエロが立っていた。それはまさしくピエロ。何処からどう見てもピエロ。そして、昨日大量の負傷者を出したピエロの魔物と同じ姿をしていた。
昨日の事を思い出して法子はすくみあがる。逃げる事も、周囲に避難を促す事も、魔物に立ち向かう事も出来ずに、法子はただその場ですくみ上って動けなかった。
一方で扉の前に立っていた生徒達は入って来たピエロを見て、文化祭の出し物だと思った様で、おかしそうに笑いながらピエロの事を取り巻いた。
「笑うな」
甲高い声が響く。ピエロの言葉だった。その言葉を聞いた周りの生徒達は更に大きな笑いを響かせた。
次の瞬間、ピエロの前に立っていた一人が吹き飛んだ。ガラス窓に激突して突き破り、ベランダに飛び出した。ピエロが生徒の腹を殴り飛ばした所為だった。
唐突な非日常に、教室中のざわめきが止まる。ピエロの周りに集っていた生徒達が後ずさりをし始めた。ホールに居る生徒達がピエロに視線を送り始めた。キッチンの生徒達が物音を聞き付け、ホールを覗いてきた。
そして悲鳴があがった。混乱をきたしながらみんなが教室の外へ飛び出していく。法子は異常な状況にしばらくぼんやりとしていたが、はっとしてホールとキッチンを区切るカーテンを急いで潜った。
法子はカーテンを潜る瞬間、背後を振り返った。ピエロがベランダに倒れた生徒へ近付いていくところだった。きっと酷い事をしようとしている。きっと酷い事になる。
怖かった。見ていられなかった。
法子は振り切る様にしてキッチンを駆け、廊下に通じる扉へ向かった。教室にはもう誰も居ない。みんな逃げてしまっている。
法子が急いで戸に向かおうとした時、甲高い金属音が響いた。音の出所は足元で、見れば刀の形をしたブレスレットが落ちていた。紐が切れて手首から落ちたのだ。だがそんな事に構っていられない。今は何よりも逃げる事が優先だ。ブレスレットは後で取りに来ればいい。
ふと頭の中に英雄という言葉が閃いた。法子の足が止まる。逃げなくちゃと頭の中で繰り返しながら、体だけは無意識の内に立ち止まっていた。
背後から何かを引きずる音がする。きっとピエロが生徒を引きずっている。それが分かって、法子の中に言いようのない焦りが湧く。これからカーテンの向こうで残虐な事が行われるに違いない。英雄という言葉が更に強く頭の中に響いた。
英雄は強く優しい存在。もしも同じ立場であれば、きっとピエロに捕まった生徒を助けに戻るだろう。
法子は振り返ってカーテンを見た。その向こうから人を引きずる音と奇妙な笑いと、そして呻き声が聞こえた。
ヒーローにならなくちゃタマちゃんは戻ってこない。
ヒーローになるなら、ここで逃げちゃいけない。あのカーテンの向こうに飛び行って、ピエロを倒してクラスメイトを助けなくちゃいけない。
誰かが危険に遭っていたら真っ先に駆けつけて助ける。それがヒーローだ。
だから私は。
法子は唇を噛み締めながらカーテンを睨み続け、
そして法子の足が動く。
教室の外へ向けて、法子は逃げる為に走り出した。今の自分に何が出来る? 何も出来ない。助けに行っても返り討ちに遭うだけだ。二人共死んでしまう位なら、一人だけでも生き残った方が良い。誰だって同じ様にするはずだ。だから、だから逃げても悪くない。法子はそう心の中で念じながら、カーテンの向こうの物音を聞かない様に必要以上に足音を立てて、教室の外へと逃げ出した。