少女は歓喜を浴びる英雄に酔う
「全く、何で私があいつのお弁当を届けなきゃなんないの?」
「まあまあ。可愛い弟君の為だろう」
「全然可愛くない!」
日曜日の河川敷、法子は愚痴りつつ、土手の上を重たい足取りで歩いている。昨日一日眠っていたのにまだ一昨日戦った時の疲労が取れていない。起き上がる事すら困難だった昨日よりはましだけれど。
今日は河川敷でサッカー大会をやっている。幾つかあるコートに小学生、中学生、高校生、社会人と分かれて、大声を張り上げながらボールを追っている。法子の弟も小学生の部に参加しているはずだ。法子はサッカーにまるで興味が無かったので、ボールを追う人々から目を逸らし、そして凄い勢いで視線を戻した。
見れば土手の下、座って観戦している人々の中に見知った顔があった。同じクラスの生徒だった。何人かで固まって時折はしゃぎながら、中学生のコートを眺めている。名前も分からないが確かにその顔を毎日の様に見ている。
一昨日の学校でクラスメイト達に陰口を叩かれた事を思い出す。土手の下に居るクラスメイト達は法子を中傷した者達とは違うのだが、法子はクラス中のみんなが自分に対して陰口を言っていたのだと信じている。だから法子は出来るだけ見つかる事の無いようにこそこそとした滑稽な足取りで、コートに熱い視線を送るクラスの他人達の後ろを通り過ぎた。
小学生達のトーナメントが行われている場所では法子よりも幼い子供達が掛け声を上げ、ボールを追っている。辺りから喚声が上がる。俄かに色めきたった観客達の間に視線を這わせていると、弟の姿を見つけた。
ようやく面倒なお使いから解放されると安堵して、法子は重たい体に鞭打って弟の所に向かおうとして、足が止まった。
弟が何だか楽しそうにはしゃいでいる。その隣に転校生の将刀が居た。将刀はサッカーボールを器用に操り、体の至る所でボールを跳ね上げ受け止めている。弟はそれを尊敬の眼差しで見つめている。
何であの転校生がこんな所に? 疑問よりも先に、嫌だなと思った。会いたくない。喋る事になったらどうしよう。不安がどんどん膨らんで、その不安に押しつぶされそうになった。とりあえず今弟に会うのは止めておこうと思った時、
「あ! 姉ちゃん!」
弟が大きな声でこちらに手を降り始めた。法子の体が大きく震え、湿っぽい汗が体中から吹き出し始めた。
「お姉さん?」
将刀の尋ねる声が聞こえる。益々汗が強まった。自分だと気が付かれない様に顔を俯ける。
「良かった、弁当持ってきてくれたんだ」
固まる法子に、二人は近付いてくる。
「悪い、姉ちゃん!」
そう言って、弟がお弁当を引っ手繰った。
「そういや、将刀さんって知ってる? 姉ちゃんと同じ中学校に転校してきたみたいなんだけど」
肯定も否定も出来ずに法子はただ固まっている。
「さっき偶然知り合ったんだけどさ。凄いんだぜ。部活とかクラブとかに入ってる訳じゃないのに、サッカー滅茶苦茶上手いの」
弟の言葉なんて聞いていられない。今、法子の中はどうしたらこのまま顔を見られずに当たり障りなくこの場を去れるかという方策を練るのに一杯だ。
「どうした?」
「いや、その、じゃあ、私帰るね」
「いや、姉ちゃん、ちょっと待ってって」
一刻も早くこの場を去りたいという法子の願いは一向に叶えてもらえない。むしろ弟の所為で泥沼にはまっていく。
「将刀さん、これ、うちの姉ちゃん」
「ああ、さっき聞いた」
「まあ、弟の俺が言うのもなんだけど、結構美人だと思うよ」
弟がそう言った。
ハードルを上げるなと叫びそうになる。それをぐっと堪えてこの場を立ち去る方法を探す。だが思いつかない。法子は恥ずかしさと怒りと、ついでに情けなさに苛まれながら、弟を殺して自分も死のうと少しだけ真剣に考える。
「多分、将刀さんと同じ学年だと思うんだけど」
「一緒だな。それに同じクラスだ。話もした」
「え?」
法子が顔を上げて間の抜けた声を出した。弟も同時に同じ様な声を上げた。
驚き呆けている二人の視線に晒されて、将刀は少しばつの悪そうな顔をした。
「えっと、法子さん」
将刀の口調が唐突に真面目くさったものに改まる。
「昨日はごめん」
そう言って、頭を下げた。
頭を下げられて法子は混乱に混乱を極めた。謝られる所以なんてまるで無い。昨日というと公園でのやりとりだろうが、あれは完全に自分が悪かった。こちらを思って言ってくれた言葉を、痛いところを突かれたからといって、苛立って無碍に拒絶してしまった。それなのに謝られてはこちらの方が申し訳ない。
法子はどう返したものか分からなくて、つられて頭を下げた。
「こちらこそすみません。ごめんなさい」
こうなるともう訳が分からない。将刀も法子もついでに弟も、三者三様の理由で混乱をきたす。三人共が黙りこくり、その静寂の中で、法子は形容しがたい和やかな居心地の悪さを感じた。
そんな沈黙を打ち破る為に、将刀が話頭を転じた。
「お弁当持ってきたんだったよな」
「は、はい」
「料理出来るんだ」
「え?」
出来ないとは言わないけれど、得意と断言する程の腕でも無い。ついでに持ってきたお弁当は全て母親が作った物だ。そんな意味の事をオブラートに包んで言おうと法子が頭を捻っていると、横から弟が口を出してきた。
「出来るよ! 無茶苦茶上手い」
「ちょっと!」
「今日の弁当も全部姉ちゃんが作ったしね」
そう言って、弟は弁当箱を開いた。
当然嘘だ。これ以上下手な事を言うのは止めろと焦る反面、何で弟はこんなに馬鹿な事を言うのだろうと疑問に思った。からかうにしてもいつもはもう少し違った角度で、端的に言えばあからさまに馬鹿にしてくるのに。こんな皮肉めいた遠まわしな厭味は弟らしくない。
「へえ、凄いな」
開いた弁当箱を覗き込んで、将刀が感じ入って呟いた。その感嘆は法子に向いているが、当の法子は幾ら褒められても罪悪と羞恥しか感じない。
その時、危ないという声が聞こえた。良く分からないまま法子が空を見上げるとボールが見えた。法子達に向かって近付いていた。
ぶつかりそうだなぁと法子はぼんやりと考える。当たらないと思っている訳じゃない。当たるとは思っているが、それを避けるという行為が咄嗟に思いつかなかった。
どんどんとボールは向かってきて、それにつれて法子の視界に映るサッカーボールの影も大きくなり、そろそろ当たるなと法子が思った時、突然視界一杯に影が射した。
将刀が法子の前に立ち塞がって、ボールを胸で受け止め、落ちるボールを器用に足で操って静かに地面へと下ろす。
試合に向いていた観客の視線が、将刀に驚嘆の視線を向けた。
将刀はボールを蹴り上げて両手で持つと、ボールがなくなって止まった試合へ向かって歩いて行った。
去っていく将刀を見送って、法子が息を吐いた。
「凄いんだね」
「何が?」
「ボール受け止めたの」
「あれくらいは普通だよ」
「あんた、出来るの?」
「守るのが姉ちゃんじゃなかったらね」
弟が憎まれ口を叩いて笑った。だが法子は反応せずに上の空。
「どうしたの?」
「今、守ってもらったから」
その法子の呟きは問い尋ねられたから答えただけの、何の感慨も籠っていない言葉であったが、弟はその言葉の中に拙い恋心を読み取った様だった。
「へえ、成程ねぇ」
「何よ」
「いや~、別に~?」
弟は一頻り笑ってから、尚も笑顔で、
「まあ、安心してよ。ちゃんと応援するからさ」
「応援って?」
「姉ちゃんの恋に決まってるじゃん」
「恋って誰との?」
「将刀さんとの」
「はぁ?」
法子は思わず、遠く、サッカーボールを少年達に手渡している将刀を見て、すぐに視線を逸らした。
「なんで私があいつと」
「だって、気になってるだろ?」
「そんな事無い」
そこで法子はまた将刀を微かに眺め、そしてまた視線を逸らした。
法子の中に恋心と呼べる様な感情は無い。だが弟がはっきりと断言してくるので、まさかという思いが頭をかすめる。
「それに将刀さんも姉ちゃんの事、気に入ってるみたいだし」
「どこが?」
法子の目が三度将刀へと向く。将刀はこちらに戻ってくるところで、目が合いそうになって法子は目を逸らした。
「こういうのは理屈じゃないんだよ」
「はぁ?」
「あのさー、姉ちゃんと喋る男なんて稀少だよ? 他に居るの?」
「居ない……けど」
「でしょ? そんな姉ちゃんに話しかけるって事はそれはもう惚れてるんだよ」
「訳分かんない」
「だから理屈じゃないんだって。見た目も良いし、性格も良いし、サッカーも得意。悪いところないじゃん」
「だから? こっちが幾ら思ったって所詮片思いでしょ?」
「だーかーらー、少なくとも無関心でも嫌ってる訳でも無いじゃん。つーことは、これから幾らでも好きになってもらえるって事でしょ?」
「意味分かんない」
「つまりやって見なくちゃ分からないって事だよ」
「私にはそういうの無理だよ」
「じゃあどうする訳? 自分が好きだって思える人で、その上自分を好きになってくれる人を待ってる訳?」
図星なので、一瞬法子の言葉が詰まる。それを弟は嘲笑って、そしてふと真面目な顔になる。
「ま、そんな訳でさ、将刀さん、良いと思うよ、俺。マジで、姉ちゃんが頑張るって言うなら、俺も応援するし」
「何か心細いけど」
「おい」
「でも、何で? 別に関係ないのに」
「将刀さん気に入った。将来、俺の兄になる男に申し分ない」
「いやいやいや。何にせよ、私はそんな気ないから」
「えー」
何故か弟と一緒にタマまで不満の声を上げる。
なんだか腹が立って、さてどう叱ってやろうかと考えあぐねていると、将刀が帰ってきた。
法子は意識してしまって喋れない。顔が火照るのを感じてまさか本当に好きなのかと、自分の心にどぎまぎしてしまう。
どうしようどうしようと、法子が悩んでいると、何処からか遠吠えが木霊した。
法子達が発声源を見ると、遠く離れたコートに獣が居た。人よりも二回り大きい獅子の様な獣が二つ足で立ち上がり、大きく凶暴な顔で辺りを睨みつけていた。
魔物だ。
「姉ちゃん! 魔物だよ、魔物!」
弟がはしゃいで法子の手を引っ張った。
何でこんなにはしゃいでいるんだろうと、法子は不思議に思う。
よく見れば、辺りに居る人達も恐怖より好奇心の方が遥かに強そうで、魔物の居るコートへ向かう者や写真を撮ろうとする者が沢山居た。
「なあ、もっと近くであの魔物を見ようよ」
弟がそんな事を言ったので、法子と将刀の二人は顔を険しくさせて諌めの言葉を吐く。
「駄目! 危ないでしょ」
「駄目だ。危険すぎる」
息の合う二人に、弟は微笑して、尚も明るい調子で言った。
「そんな事言ってもここだって十分危ないよ。だったら早く逃げようぜ」
弟としては二人を連れだして、後は自分がはぐれるなり何なりして、二人っきりにしてしまおうという作戦だったのだが、
「え? ……っと」
法子は気乗りがしない様で言い淀む。
法子は迷った。確かに危ない。二人には逃げてもらう必要がある。だが自分まで逃げてしまっては闘う事が出来ない。とはいえ、自分だけ残るとも言い辛い。
「ねえ、タマちゃんどうしよう」
タマに頼って尋ねると、タマは少し考える気配を見せてから、答えた。
「はぐれれば良いんじゃない?」
「はぐれる?」
「だから一緒に逃げるふりをして途中で抜け出せば良いんじゃないかな?」
「そっか。それもそうだね。流石タマちゃん!」
「ちょっとは自分で考えなさいな」
頭の中で会議を終えた法子は、途端に笑顔を二人に向ける。
「分かった。じゃあ逃げよう」
硬直した二人を置いて、法子は早速土手の上へと上がる。二人は一瞬顔を見合わせてから、法子の後を追った。
土手の上にも沢山の観客が居た。土手の下に居た観客達と比べると、こちらの観客達は更に余裕の表情を浮かべている。
法子は何となくそれらの顔が鼻についたが、それよりもはぐれる事の方が大事だと、機を見計らう為に集中し始めた。それはすぐにやって来て、人口密度の高い場所に差し掛かった拍子に、法子は駈け出して、人の間をすり抜けていった。
「もう無理。もう走れない」
「うん、もう止まって大丈夫」
タマの言葉を合図に立ち止まった法子は、肩で荒く息をしながら、上手くいった事にほくそ笑んだ。弟の事が少し気になるが、将刀がきっと家まで送り届けてくれるだろう。そんな事を考えて、安堵すると、まだ息も整わぬうちに、タマに思念を伝える。
「それじゃあ、早速変身しよう」
「それは良いけど。良いのかい?」
タマが尋ね返してきた。法子にはその意味が分からない。
「何が?」
「辺りに結構な数の人が居るけど、魔法少女だってばれて良いのかい? 流石に変身するところを見られたら正体がばれるよ」
「あ」
法子が辺りを見回すと、確かに多くの群衆が居る。そのほとんどが魔物を見つめて、目を逸らす様子は無いが、中には別の場所を向いている者も居るし、いつなんどき注目されるか分からない。
「どうしよう。ばれたら恥ずかしいよ」
「自分で考えなって」
「でも」
法子はまた辺りを見たが、人目を阻めそうな、変身に適した場所は無い。
「どうしよう。人に見られない場所なんて無いよ」
「いやいや、あそこに丁度良い建物があるだろう」
タマの意志に促されてそちらを見ると、確かに小さな建物がある。だが法子はその建物をあえて無視していた。
「やだよ、あれトイレだもん」
「ああ、そうなのか。でも別に良いじゃないか」
「いーやー。汚い!」
「そんなに汚く見えないよ。うん、大丈夫」
「トイレで変身する魔法少女なんて嫌!」
「そんな事を言ったって他に無いだろう。減るものでもないし大丈夫」
「プライドが減る!」
「文句があるなら代案を出してくれ」
「うう。でもさ、例えば私がトイレに入って、その後に変身した私が出てきたら、それを見ていた人にばれちゃうかもよ?」
「その点は安心してくれよ。前にも言ったけれど、変身さえすればばれる事は無い。もっと言えば、変身する所さえ見られなければ、例えどんなに怪しい状況だろうと変身前と変身後が結び付けられる事は無い」
「むう」
遂に退路は極まって、法子は渋々と言った様子でトイレへと歩み始めた。
「魔法少女がトイレ……か」
「嫌なら魔法少女を止めるかい?」
「やだ。続ける」
法子がトイレに入って十数秒、トイレの中から魔法少女が現れた。突然の魔法少女の出現に人々は好奇と期待の視線をその魔法少女へと注ぐ。沢山の視線に晒された魔法少女の表情は晴れやかな笑顔だったが、少しだけ悲しげだった。
法子が恰好を付けて跳び上がり、人々の頭を越えて再び魔物の居るコートへ戻ると、事態は全く変化していなかった。
相変わらず魔物は唸り声を上げるだけ。観客達は楽しそうにそれを取り巻き、写真を撮っている。凄惨な様子はまるで無い。
「何だかほのぼのしているんだけど」
「そうだね」
「襲ったりとかしないの? あの魔物」
「まあ、魔物の考えは一つじゃないからね。あいつは別に人を襲おうと考えている訳じゃないんじゃないかな?」
法子の表情に微かに困惑が浮かぶ。
「じゃあ、良い奴なの?」
「良いも悪いも無いけれど。何にせよ、魔物は追い返さなくちゃいけない。前にも言っただろ? 魔物って言うのは居るだけで場を汚染するんだ」
「そういえば言ってたね」
「これ位、魔術に携わる者なら知ってて当然だと思うんだがね」
「だって学校で習ってないもん」
溜息を吐いたタマを無視して、法子は刀を抜いた。周囲からおおという歓声が上がる。
ちょっと気分を良くした法子をタマがたしなめる。
「気を付けろよ法子。あれは魔導師だ。どうやらこの辺りは大分汚染が進んでいたらしい」
「魔導師って、魔物が沢山出ると現れるっていう? 強いの?」
「少なくとも普通の魔物よりは。周囲の汚染された魔力を吸い上げるから、魔力の量は桁違い。前に黒い塊と戦っただろ? あれよりも強い」
法子は身を震わせる。
「そっか。一筋縄じゃいかないんだ」
「ああ、けど今は出現したばかりでまだまともに動けないはずだ。だから倒すなら今」
「そうなんだ。じゃあ」
「その前に、とりあえず君の力で解析してみたらどうかな? それで大体分かるだろう」
促されて法子は魔物を見た。敵として認識する事で、解析が始まる。
そうして法子の頭の中に雑誌に載っている文句の様な情報の羅列が飛び込んできた。どうやらウォークキャットという名前の恋する女の子らしい。戦闘の役にはまるで立たない。
「何これ?」
「いや、そう言われても」
「意味は分かるけど、意味わかんないよ。っていうか、女の子なの? あれ」
「それはそうだろ。法子は異種族の性別はあまり分からないのか?」
「分かんないけど。それより今のは何? また妨害されたの?」
「恐らく中途半端に妨害されたんだろう。君よりやや格下の実力なんだろうな」
その言葉で法子の顔が輝いた。
「じゃあ、あいつ私より弱いの?」
「ああ」
「よっし! そうと決まれば」
法子は刀を腰に据えてウォークキャットへと向かう。
「あ、おい、ちょっと待て」
諌めようとするタマの言葉も聞かずに法子は走る。
ウォークキャットは腕をだらりと下げて、尚も雄叫びを上げている。法子を見る様子すら無い。
行ける。と確信した法子は刀を力強く握り、ウォークキャットの目前で力強く大地を踏み締め、その刃に魔力を通して、ウォークキャットの胴を目掛けて振った。ウォークキャットの胸に傷が入り、血が流れ出る。
法子は様子を見る為に一度後ろへ跳んだ。
ウォークキャットは胸から血を流しているのに、まるで気が付いていない様子で突っ立っている。完全に隙だらけだった。
これなら行ける。
ふと弱い者いじめという言葉が頭に浮かんだが、法子はそれを否定して、けれど出来るだけ傷付けない様にしてあげようと誓って、また刀を構え、跳びかかる体勢に入った。
その時、周囲から歓声が湧いた。
どうやら法子とウォークキャットの戦いを面白がっているらしい。呆れる思いだったが、悪い気はしなかった。今、自分はみんなから尊敬される英雄になっている。何だか心が浮き上がる心地だった。思わず手を振っていた。更に歓声が高まる。浮かれているのが自分でも良く分かった。
これがヒーローなんだ。
周囲から応援の声が聞こえてくる。何だか夢を見ている様な気分だった。初めて人の為に何かをしている。初めてみんなから期待されている。初めてみんなに認めてもらっている。
嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。だがふと刀を握る手が震えている事に気が付いた。みんなから期待されている。是が非でも無様なところは見せられない。そう思うと、妙に力が入ってしまう。敵はほとんど動かない。だったらそう緊張する必要は無い。そう思うのだけれど、失敗できないと思うと変に手元が狂いそうで怖かった。
また応援が聞こえてくる。
これ以上棒立ちしているのも、期待に背いている様で、法子は急かされる様に駆け出した。
ウォークキャットの目の前に迫る。そして再び刀を振るい、
「防げ!」
タマの思念に反応して法子は咄嗟に刀を止めた。刹那、巨大な衝撃を受けて法子は跳ね飛ばされた。
着地した法子は戦慄する。
攻撃された。
法子がウォークキャットの目前に迫った瞬間に、ウォークキャットが腕を振り上げて法子を跳ね飛ばしたのだ。体よりも先に、刀に当たったお蔭で飛ばされるだけで済んだが、そうで無ければ爪によって切り裂かれていた。
「大丈夫か?」
タマの言葉に法子は頷いた。
再び周囲から喝采が湧いた。法子は自分に注目が集まる事を嬉しく思う反面、危険な戦いなのに楽しむ観客を忌々しく思った。たったの一撃でさっきまでの余裕が消え去った。
法子が苛々としていると、頭の中にタマの小言が響いた。
「あのな、戦いの最中なんだ。相手が攻撃してこないなんて思い込むな」
「分かってるよ、そんな事」
法子はタマの諫言に不機嫌な調子で答える。
「分かっているなら良いんだけどね。それでどうするんだい?」
「どうすれば良いの?」
法子が更に不機嫌な調子になって尋ね返した。
「は?」
タマが唖然とする。
「私は戦いの事なんて分からないもん。タマちゃんの方が詳しいでしょ? どうすれば良いの?」
「いや、もっと自分で考えてくれよ」
「分かんないよ。良いから教えてよ。どうすれば良いの?」
タマは一度溜息を吐いて、
「甘やかしすぎたかな」
沈んだ調子で答えた。
「良いかい? 今度だけだよ」
「はいはい」
「まあ、見た所、相手は接近戦が得意みたいだ」
タマがそう言った途端、ウォークキャットが腕を振り上げた。タマの言葉が止まる。
続いて、ウォークキャットは腕を振り下ろした。タマが怒鳴る。
「避けろ! とにかくこの場から離れろ!」
タマの強い思念に、一拍遅れて法子はその場から飛びのいた。途端に、一瞬前に居た場所がひずんだ。何も無い空間に爪痕状のひびが入り、まるでガラスでも割れるみたいにはじけ割れた。
「何? 今の」
「おそらくあの魔物の能力、というか技だろうね。離れた空間に自分の爪を届かせるんだ」
ウォークキャットがまた腕を振り上げた。法子は狙いを定めさせない様に動き回りながら反撃の機会を窺う。
「それで? 向こうは接近戦だけじゃなかったみたいだけど」
「はあ、ホントちょっとは自分で考えてくれないかな」
「良いから」
「君さ、昨日覚えた事も忘れたの?」
「昨日? あ」
昨日教わった遠距離まで届く剣撃。確かにあれを使えば近寄る事無く相手を切り裂ける。
「でも相手も同じ様な事やって来るけど勝てるかな」
「実力は君の方が上なんだ。同じ事をすれば勝てる」
「そっか」
法子は笑って刀身に魔力を込め始めた。新技のお披露目だ。出来れば派手に、カッコ良く決めたい。そう、漫画で良くある様に見開きの大ゴマを使う位のど派手さで。
「良いかい? 狙いは正確に。辺りには人が居る。絶対に当てちゃいけない」
「分かってる。一昨日沢山練習したもん。はずさないよ」
法子は尚も笑って魔力を込め続ける。だがほんの僅かに緊張がよぎった。当てる自信はある。はずすとは思えない。けれど失敗してはいけないと思うと、何だか薄ら寒い気持ちになった。
「避けられるかもしれない。隙を狙うんだ」
「分かった」
法子は走り回り、跳び回りながら機を窺う。しばらくして狙いをつけ損ねたウォークキャットの腕が止まった。好機と見た法子は込めた魔力を斬撃に換えて、ウォークキャットへと打ち放つ。
ウォークキャットに横一文字の筋が入る。遅れてウォークキャットは完全に切り裂かれ、胸と腹が分かたれ、ウォークキャットの体はずれ落ちながらゆっくりと倒れた。
「やった!」
「良い訳あるか!」
法子の喜びに、タマの怒鳴り声が被さった。
「な、何で?」
困惑する法子の視線の先で、ウォークキャットはゆっくりと倒れ伏す。倒れた瞬間に土埃が舞い、すぐに風に運ばれる。土埃が消えた向こう、血を噴き出して倒れるウォークキャットの向こうに、観客が居る。
「強く打ち過ぎだ、馬鹿者」
観客の中に子供が居る。血を流して倒れている子供が居る。
「あ」
倒れた子供の血溜まりはどんどんと広がっていく。泣き声が聞こえる。母親らしき人物が泣きながら子供の傍らに座って何かを叫んでいる。周りの人々が子供の下へ集まっていく。泣き声が響いてくる。怒号が上がる。誰かが走る。慌ただしい様子で人が行き来する。みんなが写真を撮っている。電話をし始める。血溜まりが広がっていく。母親が悲鳴を上げている。
やがて子供は担架に乗せられた。緊張した空気の中、群衆が割れて、子供は輪の外へと運ばれていく。まだ救急車は来ていない。どこかで応急処置をするのだろう。
運ばれていく子供の傍を母親が泣きながらついていく。そのまま子供と共に群衆の向こうに消えるのかと思いきや、ふと母親が顔を上げて法子の事を見た。燃える様な目付きだった。怒りと悲しみと悔しさと恨みの籠った母親の痛々しい視線に晒されて法子は思わず目を逸らした。
逸らした先の観客達もじっと法子の事を見つめていた。
法子は怖くなって視線を逸らす、そこにもまた目が。目が。目が。目が。沢山の目が法子の事をじっと見つめていた。
法子はもう動けない。沢山の視線に縛られて呼吸すらも忘れそうな程ひっそりとその場に立ち尽くす。やがて救急車がやって来て少年を搬送していった。法子を負かした魔法少女もやって来た。魔法少女が法子に向かって何か言った。法子にはそれが聞き取れない。ただ魔法少女から向けられた視線が怖かった。魔法少女はしばらく何か言っていたが、やがて諦めた様に倒れた魔物へ歩み寄って、送還を行うと、人々から喝采を受けて去って行った。
年も魔物も魔法少女も少消え、全ての視線が一点に向けられる。けれどその一点、法子の居た場所に、法子の姿は無かった。誰かが悪態を吐いて、それに誰かが同調した。
人々の視線から逃れる様にして河川敷を抜け出た法子は屋根を跳び継いで、やがて人通りの無い道に法子は着地した。そこで力尽き変身を解く。闇夜に溶ける様な衣装は、私服となる。法子は汚れる事も構わずに道の上で跪き無念そうに項垂れた。
そうして今、精神と魔力をすり減らし切った法子は遂に力尽きて変身を解いた。柔らかな日に照らされた法子は呆けた調子から立ち直れずにぼんやりと呟いた。
「何でこうなっちゃうんだろう」
誰にともなく吐き出した呟きは風に紛れて消えていった。タマは答えない。今は傍観に徹し、法子に成長してもらおうと考えていたからだ。自分で答えを見つけて自分で先に進む。法子はまずその当たり前の事が出来る様にならなければいけない。タマはそう考えていた。
今迄タマが変身させてきた者達は皆耐え難い情動を変身の核に据えていた。ある者は復讐の為に、ある者は友を助ける為に、ある者は一族を再興する為に。だからこそその目的の為に皆必死になって変身し目的に邁進した。一方法子の情動はと言えば、単に変身する機会を見つけたから、楽しそうで変身しているに過ぎない。惨めな自分を変えたいという英雄願望も、切実という程強くない。どうしても変身しなければいけない理由が法子には無い。それが悪い訳ではないが、必死になれないのであれば、やはり問題がある。
このままいけば、法子はタマが支えていなければ歩けない人形になってしまう。
「結構さ、頑張ったんだよ。私にしてはかもしれないけどさ。魔法少女になれて嬉しかった。だから一所懸命頑張ってさ、でも全然上手くいかないんだもん。なんでだろうね」
法子が引きつった笑いを浮かべる。タマはそれに何も答えない。
「今日なんてあの子を」
一瞬言葉が途切れた。法子の目から涙が零れ落ちる。
「どうしよう、人切っちゃったよ」
法子が必死に目を擦る。泣きじゃくる。
「死んじゃったらどうしよう」
法子は自分の手を見つめた。直接切った訳ではない。それでも何故だかその手には切った時の感触が残っていた。それを感じ続けている内に、自分の頭が狂っていく様な気がした。法子は思わず頭を振って、手の感触を払いのけようとする。
タマは何も言わない。法子が人を殺したとしてもどうこう思わない。今迄の契約者の中にも人殺しは幾人か居た。法子がどんな事をして、どんな法律を破り、どんな倫理観を蹴り飛ばしても、タマはそれを悪い事だとは思わない。
「ねえ、タマちゃん、私どうすれば良い?」
ただこれだけはやめてくれと思う。法子はどうしてこんなにも頼ってくるのだろう。今迄一人ぼっちだったから、その孤独を埋めた相手に殊更依存しているのだろうか。それなら下手に励まそうとしてきた事は失敗だったのか。
悶々としつつ、タマは答えた。
「さあね。それは君の問題だろ?」
「冷たい」
法子の沈んだ言葉に苛々してタマは怒鳴った。
「勝手にしろよ!」
法子の呼吸が止まる。
「何でそうなんでもかんでも私を頼ろうとするんだ!」
言い切ってからタマは言っちゃったなぁと思った。多分法子は傷ついただろう。それでも自分の欠点に気が付いてくれれば。そう期待してタマが法子の言葉を待っていると、やがて法子が言った。
「……ごめん」
そう謝った。まだ何か言いたそうにしている。タマはもうしばらく待つ。これから頼りっきりにならない。もっと自分の頭で考える。そう言ってくれるだけで良い。そんな言葉を待っている。
けれど法子の言葉はタマが期待したものとまるっきり違うものだった。
「……私、魔法少女辞める」
「は?」
「だって、私、何やっても上手くいかないし、これ以上続けても良くなるなんて思えないし、自分で考えてなんて出来ないし、それに……それに人……切っちゃって、何だかやになっちゃった」
タマは絶句した。本気か? 一瞬、意志伝達の魔術に何か不具合でもあるんじゃないかと疑う位に、信じられなかった。
「だから魔法少女辞めたい。……あ、勿論、ずっとって訳じゃないと思うけど、多分またやりたくなるだろうし。でも……しばらくの間は魔法少女……辞めたい」
法子が遠慮がちに伝えてくる。その思念を受けて、タマは駄目だと思った。
こいつは駄目だ。
「ね? だからしばらくの間だけ」
「分かった」
「ホントに?」
「ああ。君との契約は打ち切ろう」
「うん! ありがとう」
嬉しそうに言った法子へ、タマは溜息を伝える。
「やっぱり甘やかしすぎた」
申し訳なさに身を縮こまらせる法子へ、タマは尚も伝える。
「あんまり甘やかすのは良くないみたいだね。次の参考にさせてもらうよ」
「う、うん。きっとまたすぐに元気になると思うから、その時に、ね」
タマが不思議そうに尋ねた。
「その時?」
「え?」
「どうして君は次があると思っているんだい?」
「だって……タマちゃんが次の参考にって」
「次の契約者って意味だと思わないのかい?」
法子の思考が止まる。
「何か勘違いしてないかな?」
「勘違いって……」
「私は人を変身させて人々を守る使命を持っているんだ。変身しない人間の傍に居続けるなんてあると思う?」
法子が手に握るタマを驚愕の目で見つめた。
「で、でもタマちゃん」
「君が私の事を友達だろうと何だろうと思うのは勝手さ。私だってそういった関係になる事にやぶさかではないよ。けれどね、いの一番はまず使命なんだ。一緒に居る者は変身してくれなきゃ意味が無いんだよ」
「タマちゃん待って」
「それで君が私との契約を止めると言うのなら」
「違うよ。ほんの少しの間だけで」
「同じ事だよ。君は契約者じゃなくなるんだから」
「タマちゃん、分かった。私が間違ってた。魔法少女辞めないから、だから」
必死に縋る法子をタマは冷徹に振り払う。
「君はヒーローになる事を望んでいたね。けれど今の君の姿はヒーローから掛け離れすぎている」
「ごめん、タマちゃん、ごめん」
「君の言葉にも一理あるよ」
皮肉気な笑いを伝えながら、止めの言葉を放つ。
「これ以上このまま続けても良くなるなんて思えない。全くその通りだ」
タマと法子の繋がりが途切れた。意志伝達の魔術が途絶え、今迄伝わって来ていた相手の精神が伝わらなくなって、法子は慌てて剣の形をしたアクセサリーに縋る。
「ごめん。ごめんタマちゃん。待ってよ。嫌だよ」
許して欲しい。また話して欲しい。けれど幾ら謝っても答えてくれない。さっきの怒り様を思い出す。タマちゃんは完全に怒ってしまった。ならどうすれば良い? タマとの最後のやり取りを思い出す。タマちゃんが望んでいたのは、私がヒーローになる事だ。私がヒーローになればきっとタマちゃんは許してくれる。
一瞬湧きかけた希望は、すぐさま、けれど、と沈められた。けれど私はヒーローになれなかった。強くなろうと頑張った。人を助けようと頑張った。けれどそれをした結果が、今なんだ。ヒーローになろうとしてもなれなかったんだ。ならどうすれば良い? どうすればヒーローになれる?
「分かんないよー」
法子が情けない言葉を吐きだして、涙を流し始める
出来れば誰かに教えて欲しい。けれどいつも教えてくれたタマちゃんはもう居ない。相談出来そうな友達だっていない。誰も居なくなった。
一人ぼっちなのはずっとだった。だからいつもの日常に戻っただけなのだ。今迄だって一人ぼっちを寂しいとは思いながらも、嫌だと思いながらも、それでも何処か慣れた自分が居て、一人ぼっちでも平気だと思う自分が居た。
だからおかしかったんだ。私に話し相手がいるなんて。タマちゃんと出会ったこの数日間だけが異常だったんだ。また元に戻るだけなんだ。昔と同じになるだけなんだ。けれど、それでも、その異常な数日間が──この上の無い幸福感を感じた数日間が、確かに法子を変えていて、一人ぼっちな自分を思うと死にたくなるくらいに、嫌になった。