ご主人様は一人ぼっち
地響きの様な唸り声が部屋に満ちた。ベッドの上には、膨れ上がった掛け布団があって、その枕側から黒い髪の毛がはみ出ている。しばらくすると、枕に掛かっていた黒い髪の毛がゆっくりと掛布団の中に引きこまれていった。そうしてもぞりもぞりと掛け布団が波打って、掛け布団の横から腕が現れ、頭が現れ、体が現れて、そのまま全身がベッドの端から落っこちた。床にへばり付いた法子が唸るように言った。
「体が重い」
法子は這ったまま枕元のタマを掴み揚げる。
「軽い筋肉痛だよ」
「全然軽くない」
頭の中にくすくすという笑いが響いてくる。それに苛立って法子は思いっきり立ち上がった。
けれどすぐに法子はベッドの上に倒れ込んだ。
「無理。今日学校休む」
「ほら、さっさと用意する」
無慈悲なタマの言葉を法子は渋い顔で受け止めて、のろのろと軟体質の生き物の様にゆっくりと動き始めた。
着替えを終えた法子は、タマに最後の確認を行う。
「分かった?」
「ああ、分かったよ。学校では」
「うん、私に喋りかけてきてね」
紐を通され簡易なブレスレットになったタマは、髪を梳く法子に疑惑の念を送っる。
「でもどうしてだい? 普通正体を知られない為にも人前でのやり取りは禁じるものだろう? 少なくとも私の前の主達にはそういった方々が多かった」
「だってタマちゃんと話すのに声に出したりしないでしょ? ばれる訳無いもん」
「まあ、そうだが、何があるか分からないだろう? 学校といえば四六時中人と関わる場所だ。うっかりという事もある。実際、最初の邂逅ではあの少年に見られてしまったのだし」
その瞬間、法子は酷い声を上げてベッドの上を転がった。
「お、おい」
タマが心配して声を掛けると、法子は苦虫を噛み潰した様な表情で立ち上がった。
「とにかく、大丈夫だから。話しかけて」
法子の言葉をタマはどうしても信じられなかったが、それでも、今迄会話に飢えていたので、話をして良いというのは嬉しかった。
紐を通されてブレスレットになったタマは、法子が黒い髪を結い上げる手の動きに合わせて、揺れ動く。法子の目を通してセーラー服を眺めながら、先代の通っていた学校を思い出して、タマは何だかわくわくとした。
学校に着いた法子が誰とも話さずに机に着いてぐったりとした様子で机にへばり付いていると、ふと教室から転校生がやって来るという言葉が耳に届いた。何だか格好良い人の様で騒ぐ声が聞こえてくる。
転校生か。法子は机に頬を付けながら思いを馳せる。
季節外れの転校生は何か秘密を持っていると相場が決まっている。何かの組織の一員だったり、特殊な能力を持っていたり、あるいは前の学校で暴力沙汰を起こしたとか。一体どんな秘密を持っているんだろう。そんな風に楽しい空想にふける。けれどふと自分の方が余程秘密めいていると気が付いてにんまりと笑う。そう法子は人々がうらやむ魔法少女なのだ。確かに昨日は失敗してしまったけれど、でも確かに私は魔法少女なんだ。
転校生か。話してみたい。法子はにやつきながらそう考えたが、すぐにその笑顔が引っ込んだ。でも自分が他人と話せる訳が無い。転校生はきっとすぐにクラスの輪に入る事が出来るだろうけれど、自分はクラスの外に取り残されたまま、転校生とも他の誰とも話せずに終わる。
話せる人。そう例えば同じ魔法少女だったら。他の人と違った秘密を抱える者同士、話が合うんじゃないだろうか。そう思うのだけれど、そんな人がそう簡単に居る訳が無い。
そんな風に思考を巡らせる法子にタマはおずおずと思念を掛けた。
「向こうで賑やかに話しているけど、君は会話に入らないのかい?」
「うん、だってあの人達友達じゃないし」
朝の喧騒に包まれた教室は温かいのに、法子の周りだけは空気が違った様に冷え切っていて、何だか寂しかった。
「そうか……なら友達の所へ行ったらどうだね?」
「私、友達居ないから」
「友達が居ない? そんな事は無いだろう」
学校と言えば同年代の子供達が沢山集まる場所だ。法子位の年齢であれば、学びの場としてだけでなく、仲間を見つける場所でもあるはず。少なくともタマが今迄見てきた学び舎は全てそうであったし、タマの主人やその周りで友達が居ないという者は居なかった。
「普通居るものだ」
言ってからタマは気付いた。長年魔女という概念に振れていながら何故思いつかなかったのか。友達が居ない。孤独である。それはとりもなおさず、法子が出生や身分等の理由で迫害を受けているという事だ。
「タマちゃん」
「な、なんだね、御主人」
タマが思わず改まった口調の思念を送ると、法子は冷徹に言った。
「私とあなたは繋がってるんだからね。なんとなくあなたの考えは伝わって来るんだからね」
「分かっているよ。今更言われなくても」
「あのね、多分あなた、私が何か特殊な生まれで、その所為で無視されていると思っているでしょ? そう同情しているでしょ?」
「う……ああ、そうだ。確かに同情されるのは心外だろうが」
「全然見当外れだから」
「何?」
「あのね、私はふっつうの生まれで、別になんにもおかしい所は無くて、周りの人達もわざと私の事を無視してるんじゃないから」
「どういう事だ? なら何故君は周りと話そうとしない」
タマは本気で困惑している。そんな事在り得るはずが無いと信じ込んでいる。人はすべからく他者と交流をするべきだと信仰している。法子はちくしょうと思った。怒りや悲しみを始め、恥ずかしさや自嘲等様々な感情が湧いたが、突き詰めればそれはただ一つの言葉、ちくしょうに収斂された。
「私が話せないから」
「何故?」
「何故も何も人と話すのが苦手だから」
その言葉は益々タマを困惑させる。
「私とはこうして話しているじゃないか。思念のやり取りだが」
「そうだね。自分でも何でこんなに普通に話せているのか良く分からない。あなたが人じゃないからなのかもね」
「しかし、話すのが苦手とは、分からない。見た所、礼儀は欠けていない。礼を失さなければ人と話すなど特段技術が要るものでもないだろう」
そんな言葉を言われたら、法子は自嘲するしかなかった。そんな普通の事さえ出来ないのが自分なのだと。
「何話していいのか分からない。話しても嫌われそうで怖い。上手く話せるかどうか分からない。だから話せないの!」
段々と法子の思念が荒くなってくる。
「そうは言ってもだな、友達との会話なんて話す内容はそれこそ話す内に作っていく物だろう。嫌われるなんてよっぽどの事だ。別に話下手だからって恐れる事は無い。気にする人なんて居ないよ。案ずるより産むが易しだよ。話してみれば良いのさ」
「無理だよ! だってもうみんなグループ作って固まってるもん。今更私が話しかけたって何こいつってなるに決まってるし」
「そんな事は無いだろう」
「なる! 絶対なる! タマちゃんは学校を知らないからそんな事が言えるんだよ!」
「確かに今の学校は知らないかもしれないが」
法子の息が荒くなる。それを近くで談笑している内の一人が気にして、法子へ視線を送って来た。それに気が付いて、法子は俯く。見られた。一人でぜえぜえ息を荒くしている所を見られた。気持ち悪い奴だと思われた。法子は途端に恥ずかしくなって、興奮していた自分を戒めて、思念を沈ませる。
「それにさ、私、話が下手なだけじゃなくて、皆が知ってる事も知らないし、流行なんて特に分からないし、むしろそういうのつまらないって感じるし、人と一緒に居るのが嫌だし、気持ち悪くなるし、むしろ私が気持ち悪いし、変な匂いがするし、肌も汚いし、油っぽい気がするし、体も曲がってるし、顔も体も貧相だし、運動とか出来ないし、得意な事も無いし、卑屈だし、すぐ落ち込むし、心が汚くて人の悪い所ばっかり見ちゃうし、本当に良いところないし」
どんどんと法子の自虐が重なっていく。その自虐の大部分が法子の頭の中で形作られ発酵した妄想に過ぎなかった。だが法子はそれを本気で信じている。タマはそんな自虐が出る度に、そんな事無いさと否定していくのだが、法子は聞いていないかのように自虐を続け、タマは聞いていて気が滅入ってきたので、それを止めた。
「分かった。分かったから止まってくれ」
「あ、ごめん。本当にさ、私、話しててもこんなんだし、いっつもこんな事考えてるし」
「分かった。君が自分をどう思っているのかは十分に分かった」
「本当にごめんね。嫌だよね、こんなのと四六時中に一緒にさ。そもそも何で私が選ばれたの?」
「理由は無いよ。君が私を見つけた。運命が噛み合ったからさ」
「多分私よりももっとふさわしい人、居るよ。だから」
法子が続けようとした思念の上に、タマが思念を覆い被せる。
「私は君が気に入った。私は君を魔法少女にする。だから君から離れるつもりは無い」
「え、な」
法子の顔が赤くなる。
「べ、別に勝手にすれば。でもきっとすぐ嫌になるよ」
法子の思念は言葉上、未だに頑なな自己卑下であったが、ほんのりと嬉しそうな思念も伝わって来た。タマも嬉しくなる。もっと法子の自信を引き出したかったが、これ以上言葉を重ねると逆に心を閉ざしてしまう可能性もあった。でもその前にどうしても言っておきたかった。
「君は自分の事を駄目だ駄目だと言っていたがな、私からすれば決してそんな事は無い。この世の何処にもいない完全な人間でも目指しているのかい? 君は何処からどう見ても可憐な女の子だ」
「嘘ばっかり」
言葉ではそう言っているが、やはり喜びの感情が流れてくる。タマはとりあえず言いたい事は言ったので思念を伝える事を止めた。法子から混乱した思念が流れ込んでくる。多分、褒め言葉をどう受け取って良いものか迷っているのだろう。やがて法子がおずおずと思念を伝えてきた。
「ありがとう」
「いや、事実を伝えたまでだ」
「タマちゃんが男の子だったら良いのに」
「性別は君が下らない理由で決めたんだ。今からでも男に換えたらどうかな?」
「ううん、無理。もう私の中でタマちゃんは完全に女の子だから」
「そうかい。まあいいけど」
「タマちゃんが沢山居たらな。百本位居たら賑やかで楽しいのにな」
「やめてくれよ。自分が沢山居るなんて悪夢だろう」
タマがぼやいていると、教師が入って来た。その後ろに一人の男子が連れていた。クラスが喜色に色めき立つ中で、法子もまた初めて楽しい朝の時間を過ごせたので満足していた。
休み時間の教室の一角、法子の席の少し後ろの席に人だかりが出来ていた。転校生に群がる人々だ。法子は振り返ってそれをちらりと見て、餌に群がる犬の様だと思った。
人垣に囲まれてその向こうに居る転校生の姿は見えない。未だ法子は転校生の顔すら見ていない。常に俯き加減の法子は紹介された時ですら顔を上げなかったから。体中を襲う筋肉痛の所為で何もかもが億劫で机に突っ伏し、どうでもいいやと眠りに入る。だがどうしても耳は後方の人だかりに向いてしまう。
その時ふと嫌な言葉が耳に入った。
「あそこで寝ているのは?」
え?
途端に嫌な汗が全身ににじみ出た。まさか私の事かと法子は焦りつつ、必死で心を落ち着けようとする。
高鳴る心臓が嫌な予感を告げ続けている。
また声が聞こえてくる。
「ああ、摩子の事?」
誰かの言葉に転校生らしき声が答える。
「あのおさげの子」
法子は自分の髪型を改めて考えて、数秒思考を巡らせて、ようやくおさげだという事に気が付いた。
私おさげだ。
でも分からない。まだ私と決まった訳じゃない。他の子かも知れない。さっき誰かが言っていた摩子? っていう子かもしれない。
他の子であります様にと法子は祈りながら耳を澄ませ続けた。
「ああ、あれは、えーっと名前なんだっけ?」
私じゃありません様に。私じゃありません様に。
「なんだっけ? えーっとね、ちょっと待って、あー、えーっと、あ、法子だ。何とか法子」
私だー!
「十八娘とかいう変わった苗字の」
「いっつも本読んで誰とも話さない」
やめてー。
「何かいつもこそこそしてるよね」
「休み時間本読んでばっか」
「たまににやにや笑ってるし」
やめて。
「そういや話してる所見た事無いよね」
「前に話しかけてやった時ずっと俯いてて感じ悪かったし」
本当に止めて。
陰口をたたいているのはごく少数だった。転校生の周りに集まっていた内のほとんどはクラスメイトに対するあからさまな悪口に眉を顰めて、その内の半分はその場を離れていった。
俯いて背を向けている法子にはその光景が見えなくて、あたかもクラス中が自分の事を馬鹿にして居る様な気がしていた。
「あの子、前に風呂敷持ってきた時あったじゃん」
「あったあった。何かおばあちゃんが持ってそうな古い感じの。お弁当包みだっけ?」
「そうそう。しかもそのお弁当の中身が煮物と梅干とごはんと焼き魚だったの。婆じゃねえんだから」
「あれは笑ったね」
だって、丁度お母さんが入院してて、おばあちゃんに来てもらって、いつも通りじゃなかったんだもん。それにあのお弁当はおじいちゃん用のお弁当を私が間違って持ってきちゃったからだし。おばあちゃんは料理が上手でとっても美味しいし、あの日の私と弟の為のお弁当はフレンチ風の豪華なので。
そんな言い訳を心に思い浮かべながら、法子は必死にじっとしていた。何か反応すれば、更に陰口を言われる事は分かっていた。
「うちらのクラス、みんな結構仲良いけどさ、あの子だけ何か浮いてるんだよね」
「ね。壁作ってるよね」
「ホント居るだけで空気悪くなるよね」
「しぃ。それ以上大きな声出すと聞こえるよ」
もう聞こえてる。
法子は心の中で力の無いつっこみを入れた。
やっぱり私、みんなに嫌われてたんだ。
クラスに溶け込めていない事は法子自身分かっていたし、多分良い思いをされていないだろうとも覚悟していたけれど、実際に周囲の心を聞かされると覚悟なんて易々と貫いて、酷い悲しみが法子の中に突き抜けてきた。
鼻の奥が痛くなって思わず鼻根に指先を持っていく。当然、そんな事をしても痛みが取れる訳が無い。鼻根に添えた指の先に目から流れてきた液体が触れて、法子はいたたまれなくなって更に強く突っ伏した。
背後から容赦の無い法子への中傷が響いてくる。
法子がそのあからさまに聞こえてくる陰口にじっと耐えていると、突然転校生が中傷を遮った。
「なあ、そんな事は良いからさ」
法子はようやく自分に対する陰口が終わった事に安堵しつつ、同時に転校生が自分に対して何の興味も持っていない事が分かって、嬉しい様な悲しい様な気持ちになった。悪目立ちするのは嫌だけれど、見てもらえないのは寂しい。普通の人は簡単に両立して自分を主張しているのに、自分にそれが出来ないのは何故だろう。
転校生が次の言葉を接ごうとした時に、丁度教師が入って来て、同時に予鈴が鳴る。授業の始まりに当たって、クラスメイト達は各々の席に戻り、法子は自分の席についたまま俯いて震え続けた。朝の嬉しさも忘れて、法子はその日の学校が終わるまで、ふとすれば込み上げてくる悲しみを堪えながら俯き続けた。
帰り道、俯く法子にタマが言った。
「ちょっといいかな」
何とか落ち込み続けている法子を励ましたくて声を掛けたけれど、何と言ったものか分からなくて、一瞬言葉に詰まる。
単純な励ましをかけても、拒絶されるだろう。それは今日一日落ち込む法子を励まそうとし続けた事で分かっている。同情にしか聞こえない様だった。
ならば気を紛らわせ、落ち込んだ時の事を忘れさせてしまうのが良いだろうと思った。
だからタマは今日、周囲の話を聞き耳して得た情報を開示してみた。
「最近、この近くに大きな店の集まりが出来たそうだよ。アトランと言ったかな? 何でもそこに国内最大の魔術専門店があるそうだ。出来れば後学の為に行ってみたいのだが」
きっと法子も気に入るだろうと思って、その話題を振ったのだが、
「ごめん、そんな気分じゃない」
「そうか」
そうしてまた沈黙が降りた。
法子は俯いたまま、あの公園へと足を向けた。
誰も居ない公園。四方を囲むマンションが影を作りだして、その影が辺りを暗く閉ざしている。法子はブランコに歩み寄って、勢いよく坐り、思いっきり漕ぎ始めた。筋肉痛の痛みすら、嫌な事を忘れる為の清涼剤に換えて、法子は漕ぎに漕ぐ。
「なあ、パンツ見えるぞ」
「ぴぎゃ」
突然掛けられた言葉に、法子が思いっきり地面に靴を突き立てて、何とか急停止し、恐る恐る後ろを振り向くと、そこには昨日の男子が立っていた。
「ああ!」
法子が叫びながらその男子を指した。指された男子は溜息を吐いた。
「なあ、あんた、十八娘法子だっけ? もうちょっと周りを見て行動した方が良いよ」
余計な御世話だと沸騰しかけたのは一瞬で、すぐに相手が自分の名前を知っている事に引っかかって何も言えなくなった。
何処で名前を知られたか思いを巡らせても一向に分からない。何処かで会っただろうか。美形、背が高い、プラス失礼。会ったら忘れそうにない相手だ。けれど昨日会った以外に覚えがない。まさか小さい頃遊んだとか? それで結婚の約束をしていたり? と段々脱線し始めた思考は、記憶の引っかかりが現れた事で止まった。
この男子の声、何だか聞いた事のある声だ。昨日じゃなく、更に最近。法子の行動範囲は限られている。すぐに自分の関わった人々が頭の中に網羅され、そうしてすぐに思い当たった。
「あ、転校生」
「そうだけど」
変な事言っちゃった。法子は自分の口走った言葉を反省した。今日一日、ずっと俯いていた為に、転校生の顔を見られなかった。しかし転校生からすれば、あの時クラスに居た全員が自分の事を見知ったと期待しているはずだ。その期待を裏切ればどんな逆恨みをされるか分からない。
とりあえず、ここは何とか和やかなムードにして退散しなければならない。法子は必死に会話の方法論を頭の中に思い浮かべて言った。
「えーっと、将刀君」
相手の名前を呼ぶ事が仲良くなる第一歩。苗字で呼ぼうと思ったけれど、残念ながら苗字までは覚えていなかった。
「ああ、野上将刀っていう。よろしく」
「うん、よろしく」
とりあえずの挨拶を済ませ、法子は次の会話を考える。
だが既に万策は尽きていた。
話題も何も持たない法子に会話を接ぐ力はない。会話が出来ずに、法子が心の中で右往左往していると、先に将刀が口を開いてくれた。
「学校、嫌いなの?」
「え?」
「楽しそうにしてなかったから」
何で急にそんな話題を? 今日来た転校生に言われる程、楽しそうではなかったのか。まあ、その通りではあるけれど。
法子は恥ずかしい気持ちで一杯になって、口すら満足に開けない。黙っている法子を見て将刀はふっと笑った。
「まあ、分からなくはないよ。俺もあんな陰口を言うクラスは嫌だ」
「ち、違うよ!」
思わず法子は叫んでいた。
「あれは私が悪いだけだから」
そう、誰もがしている当たり前の事をまともに出来ない自分が悪いのだ。自分がもっとちゃんとしていればあんな事は言われない。言われるだけの理由がある。それなのにこの転校生はクラスの人達を悪く言うなんて。転校してきたばかりで何も知らないくせに。
そう考えるうちに、本当に自分は駄目な奴だなと嫌な気持ちになった。
きっとこの転校生は孤立した私に同情して気を使ってくれたのだ。それなのに、その優しさを不快に感じてしまった。もう私は他人の優しさすらまともに受ける事が出来ない。
どんどんと思考の泥沼にはまって、法子はいたたまれなくなって、その場を後にする事に決めた。
「とにかく違うから。悪いのは私だから」
ぼそぼそとそれだけ言って、法子は背を向け、公園の出口へと向かう。
その背後に向けて転校生が言い放つ。
「だったら笑って話せば良いだろ。そうすればあんな事は言われないし、あんただってそっちの方が幸せなはずだ」
それを聞いて、法子はもうその場に居られなくなって、走り出した。
そんな事は分かっている。それが出来れば苦労しない。そんな事は分かっているけれど、それが出来ないから苦しいんだ。それなのにあの転校生は無神経にもあんな事を言った。
走って走って。息苦しくて死にそうになってもまだ走って。
ああ、分かっている。あの転校生にとってそれは当たり前の事で、至極簡単な事なんだ。だからそれが出来ない私がやっぱりおかしいんだ。
家の前まで来て、玄関を開けて、自室に飛び込んで、ベッドの上に転がって、ポケットからタマを取り出して、そうして強く握りしめた。
「法子」
「変身させて」
「法子、あまり思いつめちゃいけないよ」
「良いから変身させて」
タマはしばし沈黙していたが、やがて法子の服装が変わり、髪の色が変わり、法子は魔法少女になる。魔法少女になった法子は煮えたぎる様な悲しみの猛るままに、窓の外へと飛び出した。
「魔物は? 居る?」
ひときわ高く跳び上がり、夜の風に吹かれながら、法子は辺りを一望した。住宅地には仄かな温かみを持った光が灯っている。それがむかつく。太陽の様な輝きがあるでもなく、常世の様に暗い訳でも無い。もっと輝けるのに、人類の為という名目でその力を抑えている。その実に中途半端な様が気に食わない。
遠く行く先には、爛々と照る輝きがある。ビルや繁華街の強烈な明かりが灯り、昼とまでは行かないが、精一杯に輝いている。その光に誘われる様に法子は跳んでいく。
「ああ、微弱だけれど感じる。行く先そのまま」
法子は頷いて屋根の上に着地して、また跳んだ。
「嫌な気分になっているのは分かるけれどね、八つ当たりは感心しない」
「うるさい。魔物を倒せばみんなの為になるでしょ」
法子は民家の屋根を跳び次ぎ跳び次ぎ、やがて駅を中心とした繁華街に辿り着いた。一際高く跳んでビルの屋上へと上り、縁に立って駅前の広場を見下ろす。
人々はあちらへこちらへ勝手気ままに歩き回っている。遊び歩く姿、駅へと向かう姿、待ち合わせをしている姿、誰も彼もが我が物顔でのし歩いている。だが屋上に立つ法子には気が付いていない。自分が立っている事を誰も知らないのだと思うと、法子には目の前の光景がどうにも愚かな気がして、とても嬉しくなった。
「それで魔物は?」
「視界の右端、五階建ての建物の五階」
言われるままに視線を右に滑らすと、五階建ての駐輪場があった。窓や隙間から見るに、一階から四階までは人の往来があるのに、五階にだけは人が居ない。
「何かあったのかな?」
法子は屋上の縁を蹴り、そのまま駐輪場の五階へと跳び込む。
誰も居ない駐輪場、ずらりと並んだ自転車の合間に一匹の犬が見える。
法子の解析が発動する。
犬、では無い。魔物だ。ただ自分の縄張りに人を寄せ付けないだけの無害な魔物。
法子が見つめている前で、犬もどきは突然法子に吠えたてて、かと思うとお尻を向けて、その後唐突に振り返り、俄かにぐるるると喉を鳴らし、いきなり跳びあがって自転車の影に隠れた。法子にはその行為の意味がまるで分からなかったが、歓迎されていない様だと思った。何て生意気なんだろう。
魔物の姿は犬に酷似している。可愛らしい姿だ。だが魔物である。存在すればいずれ危険な魔王を呼ぶ。居るだけで周囲に迷惑を掛ける。
周囲に迷惑を掛けると思いたったところで、自分の姿が思い浮かんだ。自分もまた居るだけで、周りの雰囲気を悪くしているらしい。
法子が頭を振って想像を打ち消した。私は違う。魔物を倒してみんなに尊敬される英雄になるんだ。
そうして無理矢理に魔物の姿とクラスメイト達の姿を重ねた。今日の会話が頭に浮かぶ。邪魔者だというのは分かっている。それでも、それでも、あそこまで言わなくたって良いのに。
苛々が募る。怒りが募る。敵意が募る。殺意が募る。
法子は刀を抜き放った。殺す。そんな凶暴な思いが湧いた。殺す。学校での会話を更に鮮明に思い出す。笑われ、馬鹿にされ、嫌われて。頭の中に浮かんだ嫌な映像を切り裂き、暴れだしたくなる気持ちを手に持った白刃に込めて、横一文字に構えた。辺りに気を配る。隠れた犬もどきはいつの間にかすぐ後ろに居た。
犬もどきは自分の尾を追って回っている。そんな間の抜けた姿へ向かって、法子は刀を両手で振り上げて、明確な殺意を持って切り下した。犬もどきの腹に切れ目が入る。悲痛な声を出して、犬もどきは自転車の影へと逃げ込んだ。
追う。追っている法子の胸に、後味の悪い後悔がわだかまり始めた。犬もどきが何をしたというのだろう。ただ人を遠ざけただけ。確かに迷惑をこうむった者も居るだろう。だがそれが追われ、切られ、殺される程の罪だろうか。ただそこに居るだけで本当に悪いのだろうか。本当に人付き合いが苦手というだけで糾弾されなければならないのか。
そんな疑問が法子の胸に湧いてしまった。再び魔物と自分が重なった。だがもう後戻りは出来ない。全てへの反感が強くしこりとなって容易には取り除きようがない程膨らんでしまった。
犬もどきはみんなに迷惑を掛ける魔物だ。だから犬もどきを殺さなくちゃいけないんだ。心の中でそう叫ぶ。ふつふつと怒りが湧いた。犬もどきを殺そうとする自分は間違っている。可哀そうだ。そんな当たり前の感情に流され、後悔し、投げ出そうとする自分すら憎らしく、自分を含めた全てが気に食わなくなった。
今日の学校での陰口、いつも一人で居る自分、暗澹として生きつづけている自分、そんな見たくも無い光景が頭に浮かぶ。これをどうにかするには目の前の存在を切るしかない。切って殺すしか、この嫌な気持ちは払えない。
法子が自分の心に苛まれていると、犬もどきを見失った。辺りを見回したが見当たらない。だったら高いところから全体を見ようと、跳びあがって、体を上下反転させて、天井に着地して、隅の方で震えている犬もどきを見つけて、足に力を込めた。殺気を漲らせる。そして天井を蹴り、犬もどきへと跳んだ。
震えている犬もどきに迫る。法子は刀の柄に手を掛けて、刀身にありったけの魔力を込めて、目前まで迫った犬もどきへ振り下ろした。
しかし止められた。
必殺の意志を込めた刀は、横合いから飛んできた杖に弾かれ、犬もどきには届かなかった。
何が起こったのか。咄嗟に法子は判断できなかった。だが犬もどきを殺す。その凶暴な意志に支配された法子は、杖に当たって軌道の逸れた刀を、上段に構え直して再び犬もどきへと振り下ろそうとした。
だがそれも失敗に終わる。
突然横合いから衝撃を受けて、法子はふっとばされて転がった。法子の体には少女が一人抱きついている。
攻撃を受けたと思った法子は、全身総毛だって、必死になって体に巻き付いた何かを引き剥がす。引き剥がして蹴り飛ばして距離を取って顔をあげると、引き剥がした何かと目が合った。良く見ればそれは先日助けてくれた魔法少女だった。丈の短いドレスの様な白い衣装を着たその魔法少女は、悲しげな顔をして法子の事を見つめていた。
「駄目だよ」
魔法少女が、そう諭す様に呟いた。法子にはどういう意味だか分からない。だが言葉に込められた切実な響きを感じ取って、法子は刀を鞘に納め魔法少女の話を聞く事にした。
「どういう事? 私はあの魔物をやっつけようとしたのに、どうして邪魔したの?」
既に法子の中にはその疑問に対する漠然とした答えも持ち合わせていた。傍から見てどちらが悪か。
「駄目! あの子は悪い子じゃないんだよ! それを殺そうとしちゃ駄目!」
ああ、やっぱり。法子には弱者を守ろうとする少女がヒーローに見えた。それなら自分は何に見えるのか。法子は少女と視線を合わせていられず、視線を逸らす。
「でも、あれは魔物で」
「そんなの関係ないよ。あの子だって生きてるんだから。痛みも感じる普通の生き物なんだから」
あの魔物が何をした。殺されるだけの謂れがあったのか。
そう問う魔法少女に法子は心の中で必死に反論した。
ある。魔物は悪だ。放っておけばさらに強力な魔導師を呼んで、もっと放っておけば魔王を呼んで、いつかきっと世界が滅びてしまう。人を害する事しかしない。現に魔物に殺されそうになった。魔物は悪だ。だから、殺さなくっちゃいけない。そうするのが変身ヒーローである自分の役目だ。
法子は何度も何度も心の中でそう繰り返す。けれど口に出せない。法子自身がその言葉を信じていないのだから。この場に居る犬もどきと悪という概念がどうしても重ならない。
だからと言って、おいそれと止められる程、法子のやるせない感情は軽くない。法子は魔法少女の悲しげな目を睨み返した。
法子が魔法少女へ抱いた感情を読んで、タマが慌てて法子を咎める。
「法子、君は一体何をする気だ」
「決まってるでしょ」
法子の親指が刀の鍔を押し上げる。魔法少女を敵と見定める。
解析が働く。けれどあの黒い塊を解析した時の様にまともな情報が返ってこなかった。意味を持っていそうで何の意味もない日本語の羅列が頭の中に入り込んでくる。
「何これ?」
「妨害されたね。相手の実力が同等かそれ以上だって事だ。ここは退こう。これ以上衝突すると戦いになるよ」
「戦いは望むところだよ」
「目的を忘れたのかい? 君の目的は魔物を倒して人を救う事だろう?」
「その魔物を庇うなら、排除して目的を遂げるだけ」
「このままじゃ本当に殺す事に」
「だから何?」
完全に頭に血が上った法子には、タマの言葉も届かない。ただ魔物を殺す、ただ邪魔者を排除する、そして英雄になる、そしてみんなに認められる、惨めな自分から脱却する、哀れな過去を帳消しにする、惨めで人から嫌われ周囲に迷惑を掛けるそいつを殺す。そう頑なに心を決めて他の事は考えられない。
法子が唸る様に言った。
「魔物は悪だよ。痛みを感じようと、生きていようと、悪さをするなら排除するだけ」
そうして刀を構える。
魔法少女は驚いた様子で一度振り返り、背後の震える犬もどきを見てから、再び法子を見て懇願する様に言った。
「それなら向こうの世界に帰してあげれば良いでしょ? 何も傷付ける事は」
その必死な姿に向けて法子は思いっきり刀を抜き放った。だが刃が届く前に魔法少女はまるでバネに弾かれた様に後ろへと跳び退り、犬もどきを背にして着地した。
「どうしてもこの子を殺そうとするの?」
魔法少女が幾分冷めた口調でそう尋ねてきた。それに対して法子が怒鳴る。
「当たり前でしょ! そいつは悪い奴なんだから!」
言い終えると同時に、法子は地面を蹴った。目にもとまらぬ速さで、一気に距離を詰める。と、魔法少女は杖を掲げて応戦する気配を見せた。
もしも立ち向かってくるなら相手よりも早く切る。そんな単純な作戦で法子は刀を振りかぶる。
そして振り下ろそうとした時、突然目の前が爆発した。強烈な熱気に晒され、思わず立ち止まると、今度は煙が襲ってきて、法子は咳き込んだ。
煙で辺りが見えない。何処からいつ攻撃されるか分からない。恐怖を感じながら、とにかく煙から脱出しようと、法子は焦って横に跳んだ。幸い煙の量は少なく、すぐに煙から抜け出せた。しかし、抜けた瞬間目に入ったのは、フロアの反対側に移動した魔法少女がその頭上に、光で出来た人の頭大の魔法円を四つ従えた光景だった。
「魔法陣……あれは」
「とても基本的な魔術だね。そういえば今日の君の授業でもやっていたな。ただ魔力を飛ばすだけのお手軽魔術。でも込められた魔力が強大だね。普通の人間が当たればただじゃすまない」
「どうしよう」
「もう一度言うよ。退きな。これ以上続けても何も良い事が無い。魔物はあの同業者に任せて、君はこの場から離れるんだ」
「嫌! それだけは絶対に嫌! それじゃあ、私の負けじゃん! 英雄が負けたら誰がみんなを救うんだよ」
絶叫して再び駆ける。折角魔法少女になれたのに、魔法少女の世界でも自分は駄目なのか。そんな思いを振り払いたくて、法子は必死に駆けた。
遥か先の魔法少女の頭上には今や四つの光球が現れて、ぎちぎちと辺りに嫌な音をまき散らしている。
「避けなきゃまずいよ」
タマの言葉には答えずに、法子は刀に手を添えてじっと光球を見つめ続けた。
光球が一つ飛んでくる。拍子抜けする程ゆっくりとした速度。法子はそれを横に跳んで回避した。そこに二つ目の光球が飛んでくる。今度は物凄い速さ。体勢の整わない法子へと狙いを済ませた一撃だった。
迫って来る光球に驚いた法子は、無理矢理地面を蹴って何とか上へと逃げる。その際に避けきれず右の足に光球が当たった。激痛が走った。だが動揺は無い。体を反転させて、傷ついた右足で天井を蹴り、更に距離を詰める。
三つ目の光球が跳んでくる。避ければまた同じ事になる。そう判断して法子は刀を抜いて、光球を切った。魔力を込めた一撃で光球は霧散する。そこに四つ目が襲ってくる。無理な体勢から何とか刀を返して光球を切る。力はまるで入っていないが、魔力のこもった一撃は、触れた瞬間光球を砕いた。法子は安堵し、着地し、更に床を蹴る。
もう光球は無い。魔法少女はがら空きだ。今度こそ切る。そう考えて、法子は刀を横に振りかぶる。
しかし法子が魔法少女の目前に迫った瞬間、目の前にいきなり壁が出現した。止まり切れずに壁にぶつかり、全身に衝撃が走る。壁は砕け、突き破った法子は壁の残骸と共に床に転がり、何とか立ち上がった時には既に魔法少女は遠くに退き、再びその頭上に四つの光球を作っていた。
忌々しい思いで胸が一杯になる。法子は歯ぎしりしながら再び魔法少女へ向かった。ゆっくりと一つ目の光球が。法子はそれを刀で切った。そこに二つ目の速い光球が。法子は何とか刀の先をその光球へ触れさせた。光球は砕けた。触れさえすれば防げる事に気が付いた法子は刀を前に構えて、そのまま駆けた。そこに三つ目の光球がやって来る。触れて壊れる。四つ目がやって来る。触れて壊れる。
今だとばかりに力強く踏み出した。法子が魔法少女に肉薄する。刀を振るう。魔法少女の首に向けて、本当に殺す気で刀を振る。
その瞬間、魔法少女の背後から鉄杭が飛んできて、法子の両肩を貫き、法子の体を後ろに引っ張って、いつの間にか作られていた背後の壁に磔にした。
法子が体を暴れさせて杭を抜こうとするが抜けない。どんどんと力が抜けていく。
「無駄だよ。もう逃げられない」
目の前の魔法少女が冷たく言った。
法子がそれに反発して暴れる。だが抜けない。
「あなたの負けだよ。もう諦めて」
「嫌だ! 負けたらヒーローじゃなくなっちゃう!」
「でももう動けないでしょ? その杭は魔力を吸い取るから、あなたの魔力をどんどん吸い取ってる」
「うるさい! 絶対負けられない!」
法子が再び暴れた時、骨の折れる音がした。それにも関わらず法子は更に暴れる。
「何で? 何で諦めてくれないの?」
魔法少女の問いに法子が叫ぶ。
「何で私ばっかり諦めなくちゃいけないんだよ!」
その瞬間、法子は杭から抜けた。肉はえぐり、骨は砕け、腕は今にももげそうだったけれど、結果として杭から逃れた。
激痛が走る。奥歯に気味の悪い痛みが走って、全身に悪寒が上った。
それでも法子は歯を食いしばって、刀を握り締める。傷はすぐ治る。痛みにさえ耐えれば、何の問題もない。心が痛む事に比べれば体の痛みなんて何て事無い。
法子が目の前の魔法少女に向けて刀を振り上げる。突然両腕に激痛が走った。見れば幾本もの針が突き刺さっている。魔法少女の攻撃だ。けれど問題無い。腕は動かせる。
法子が刀を振り下ろす。炎が立ち上って法子の体を焼いた。けれど問題ない。刀は振り下ろせる。
刀が魔法少女の杖に弾かれる。弾いた魔法少女が体勢を崩して倒れこんだ。そこへ追い打ちを掛けようとして、法子は周囲から自分の体に向かって光が射している事に気が付いた。
魔法少女が何かを呟く。
すると周囲から射す光が実体を持った糸に変わり、法子の体を貫いて宙へ吊り上げた。
法子の体から力が抜ける。刀だけは手放さなかったものの、死んだ様に動かない。
魔法少女が荒く息を吐きながら、立ち上がって、そうして吊り上げられて死んだ様に動かない法子を見ると、慌てて駆け寄った。杖の先端に光を生み出し、法子へと近づけ──法子が突然目を見開いて魔法少女を睨みつけた。
魔法少女が後退る。その表情に初めて恐れが宿った。
法子が己の体を引き千切りながら光の糸の戒めを解いていく。
魔法少女は大きく後ろに跳んで、震える声で呟いた。
「どうしてそんな」
「私は」
そこから先は言葉にならず、法子は息も絶え絶えといった様子で刀を構え、そうして地面を蹴って前へ跳んだ。ぼろぼろの体から想像できない程速く、渾身の力を込めた今までで一番速い速度で魔法少女へと跳んだ。
魔法少女は恐怖の浮かんだ表情で一歩退いたが、自分の足元にいつの間にか犬もどきが寄り添ってきているのを見ると、表情から恐れを消して杖を構え直した。魔法少女は毅然とした無表情で杖を振り、自分の周囲に4つの魔法円を生み出す。
法子はそれを見ても何も思わない。朦朧とした意識の中で魔法少女へ向かう。だが急に足をもつれさせて転んだ。床に擦れて皮膚がそぎ取られるが、すぐに治る。体の傷は治る。体に異常は全く無い。それなのに、どうしてか体は思う様に動かない。
「限界だね」
タマの声が伝わる。法子がそれを無視して弱々しく立ち上がって顔を上げると、魔法少女の頭上には既に四つの光球が用意されていた。
「初めての本格的な戦闘にしては良く動けていたよ。特にあの絶望的な状況から良くあそこまで動いたと思う」
一つ目が飛んでくる。法子は何とか刀を光球に触らせ打ち破る。
「でも疲労が極まった」
二つ目が飛んでくる。法子は刀を光球に触れさせる。だが既に刀から魔力が抜けていて、光球に変化はなく、そのまま突っ込んできた。法子は衝撃を食らって後ろに飛ばされた。
「残念ながら君の負けだ」
法子が転がって、止まる。体が動かず起き上がれない。
三つ目は飛んで来ない。代わりに魔法少女が近付いてきて、腹這いになって何とか顔を上げる法子の鼻先に杖を突き付けた。魔法少女の目は驚く程冷たい。
殺される。咄嗟にそう思って、法子は後ずさろうとした。だが動けない。手足を微かに動かしただけ、惨めな姿をさらしただけだ。
魔法少女の杖に光が灯る。魔力が込められていく。
それが放たれれば、死ぬ。殺される。
そう思って、法子は目と鼻から液体を流して、手足を動かし逃げようとする。だがそれすらも次第に出来なくなって、床に這いつくばったまま、顔も上げる事が出来ず、顔面をくしゃくしゃに歪めながら法子は助けてと心の中で願い続けた。
すると魔法少女はふっと笑みになって優しげな声を掛けてきた。
「どう? 殺されそうになるのがどれだけ嫌な事か分かった?」
その声音に、自分の命が救われる可能性を見出して、法子は顔を上げようとした。だが顔を上げる事すら出来ない。体が言う事を聞かない。口から涎が垂れるだけ。
「ね? 嫌でしょ? 駄目だよこんな事。もう二度と酷い事をしようとしないで、約束して」
最後の言葉だけ妙に底冷えしていた。動かないはずの法子の体が動いて、何度も頷いた。
「分かってくれてありがとう。それじゃあ、ばいばい。あの子は大丈夫。私がちゃんと帰しておくから」
足音が離れていく。それから何か音が聞こえて、しばらくして止んだ。後には外からの喧騒が聞こえてくるだけだ。
魔法少女は居なくなった。命の危機が去って安堵した法子の心に、急に悔しが溢れてきた。流れていた涙が更に多くなる。何かにすがりたくて、法子はタマに尋ねた。
「ねえ、タマちゃん。私間違ってたの?」
「押し通せない正しさなんて存在しないよ。でも、私はあの同業者の言葉も間違っていると思うね」
「どういう事?」
「理由は三つ。
一つ目は授業で習ったかもしれないけれど、魔物は向こうの世界の概念に守られているからそう簡単に死なない。首を切ろうが真っ二つにしようが時間をかければ元の状態に戻る。だからあの同業者が魔物を殺す罪で君を糾弾したのは間違っている。起こりえなかったんだからね。
二つ目に、魔力を有するものは魔術に対する抵抗が備わっている。魔物だって魔力で出来ている様なものだから当然抵抗を持っている。魔物を向こうの世界に帰す場合は送還の魔術を行う訳だけど、魔物の抵抗力が働いて上手くいかない。だから抵抗力を少なくしないといけない。その一番簡単な方法が肉体を痛めつける事だ。君やあの同業者程度の力量じゃそれしか選択肢が無い。つまりあの同業者だって魔物をどうにかするには結局暴力に頼る必要がある。君がやろうとした事と、意識の差はあれ同じだ。
そして三つ目。これは今の君の姿を見れば一目瞭然。あの同業者は君に酷い事をした。あの魔女が正しいなんて私には到底思えない」
「そっか」
タマの長々しい説明は法子の頭にほとんど入って来なかった。けれどその言葉が法子を励ますためのものである事は分かった。だからこそ、それに法子は感謝して、同時に自分の不甲斐なさに悔しい思いが強くなった。
魔法少女になれば変われると信じていた。魔法少女になれば自分は何か豪い人間になれて、学校生活にだって変化があるって信じていた。でも現実はこれだ。学校では前にもまして居心地が悪くなり、外では自分勝手な八つ当たりで魔物を殺そうとして同じ魔法少女にそれを諌められ、更にその魔法少女に楯突いて完膚無きにまで叩きのめされた。
魔法少女になっても変われなかった。それが悔しくて悲しかった。テレビでは日夜魔法少女やその他のヒーローの活躍が採り上げられ、その華々しい戦果が讃えられている。一方で自分は地面にへばり付いて惨めな姿を晒している。その差が悔しかった。魔法少女になって変われる人間が居る一方で魔法少女になっても変われない自分が居る事が悔しかった。
惨めな自分の中に縷々として残っていた最後の希望、魔法少女になれば自分も変われるかもしれないという幻想が取り払われ、後にはいつも通りの無力な自分に対する悔しさだけが滲んでいる。それが虚しかった。
法子はうつ伏せになったまま唇を噛んで、涙を袖で拭った。だが涙は後から後から流れてくる。
「法子、君が悔しいと感じるのは分かるよ」
タマの優しい思念が法子の心に響いた。
「でもね、前にも言ったけれど、まだ始まったばかりだ。これから幾らだって強くなれるし、幾らだって豪くなれる。勿論、魔法少女だけじゃないさ。君はまだ子供だよ? これから幾らだって良い方向へ向かえるんだ」
優しい言葉が胸に沁みた。鼻の奥が痛くなって、とうとう法子は泣き声を上げ始めた。
それに対してタマが更に励まそうとした時、遠くで人の声が聞こえた。犬もどきが帰った事で人払いが解かれたのだ。
「人が来るみたいだ。もう体は回復している。辛いだろうけれど、立ち上がって。すぐにここから立ち去ろう」
法子は言われるままに立ち上がり、人目を忍ぶようにこそこそと窓枠に足を掛けて、跳んだ。出来るだけ人に見られない様に帰る自分の姿がまたも惨めに思えて、法子は嫌になった。
「星が綺麗だよ」
外に出ると唐突にタマがそんな事を言ってきた。
星空なんてどれも同じ、ただ暗い背景に白い点が散らばっているだけ。常々そんな事を思って取りたてて感動をした事の無かった法子は、今回も、だからどうしたのだろうと投げ遣りな事を考えながらぼんやりと上を見上げて、そこにある月の美しさに打ちのめされた。
夜空に細々と星が散っている。その中に大きな月がある。黒々と滲む様な空の闇に、月が孤高を貫く様に照っている。周りの星々はまるで月に及ばず単なる彩に過ぎない。その月を、法子は美しいと感じた。法子が手を伸ばす。決して手が届かない。そんな遠大な月を美しいと思った。
「もう泣くのはお止しよ」
「うん」
法子は涙を拭う。
確かに魔法少女になっても私は何も変わらず惨めな思いをしただけだった。でも一つだけ変わった事がある。それはタマの存在だ。初めての友達。いつも一緒に居て落ち込んだら励ましてくれる友達。タマは私の事を友達だなんて思っていないのかもしれないけれど──
「友達だと思っているよ」
モノローグに横やりが入って少し興が削がれたけれど、とにかくタマという友達が出来た。それだけは今日の惨めさを全部覆して余りある収穫だ。
法子はそう考えて、そこでふと気が付いた事があって、不安げにタマへと尋ねた。
「タマちゃんの目的は何なの?」
「だから何となくだよ。誰かを魔女にして世界を救うっていう使命があるにはあるけど。結局私が何となく人を変身させたいから……かな?」
「そうなんだ。それで、その」
「ずっと一緒に居るよ」
タマが法子の言いたい事を読み取って先に答えた。
「本当に?」
「ああ」
「見捨てたりしない?」
「君がどんな状況にあっても見捨てたりしない。ずっと一緒に居る。約束するよ」
その言葉で今日の苦労は全部消え去った。十分だ。私は幸せだ。そう考えて法子は一際大きく跳ねた。
あの公園へとやって来た法子にタマが尋ねた。
「どうしたんだい? 帰るんじゃなかったのか?」
「ううん、ちょっと修行をしていこうかと思って」
「動ける位に回復したとはいえ、まだ疲労は強いだろう。帰った方が良いと思うけれどね」
「もう今日みたいな思いはしたくないから」
「そうか。なら何も言わないよ」
法子は空を見上げた。先程美しいと感じた星空はいつもの無機質な夜空に変わっていた。
さて修行をしようと気合を入れた時、背後に気配を感じた。
「何だ。魔物かと思ったら同業者か」
振り返ると、昨日の騎士が居た。全身を黒い鎧で覆い、黒い兜で顔を隠し、黒いマントをはためかせている。その口元には皮肉気な笑みが浮かんでいた。
「あなたは」
「だからあんたの同業者だよ。魔物が居ないなら」
そこで騎士の言葉が一瞬途切れる。
「あんたやけに傷ついているな。魔物との戦いで消耗したのか?」
法子は自分の体を見回した。だが何処にも傷は見当たらない。もう治ったはずだけれど。
不思議そうにする法子にタマが言った。
「きっと魔力が減っているのを見てそう言っているんだよ」
成程、そういう事かと思って、騎士の問いに答えようとして、それが敗北という自分の恥部に当たる事だと気が付いて口を噤んだ。
「どうした? まさかまだ辺りに魔物が居るのか?」
騎士の声音が段々と真剣味を帯びたものになっていく。法子は慌てて首を振った。
「違います。もう魔物は居ません」
「そうか、やっぱり魔物が居たんだな。それであんたが追い払ってくれたのか」
「いえ、別の人が」
騎士はしばらく黙って法子を見つめてから、やや声を落とした。
「あんた負けたのか」
痛いところを突かれて法子の顔が歪む。それが答えとなる。
「見たところ、まだ変身出来る様になってから日が浅いんだろう? 一つの負け位で気にする必要は無い。闘っていれば嫌でも敗北は付きまとう」
そう言われても悔しいものは悔しいのだ。
「敗因は?」
「え?」
唐突な騎士の言葉に法子は聞き返した。
「負けた理由」
何だか遠慮のない人だなと思ったが、不思議と不快感は湧かなかった。相手の方が同じ変身ヒーローとして遥かに格上の様子だからかもしれない。
「負けた理由と言われても、相手の方が強かったから?」
「それじゃあ、何にもならないだろう。自分がどうして負けたのかを冷静に分析しなくちゃ」
法子は駐輪場での戦いを思い出す。思い出しても圧倒された記憶しかない。力の差がありすぎたからとしか言いようがない。
そこにタマのつっこみが入った。
「いや違うだろう」
そう言われてもどうしてだか分からない。考えあぐねる法子に騎士は助け船を出した。
「なら、どんな戦いだったか教えてくれ。第三者の目から見れば分かる事もあるだろう」
そう言われても、負けた事を話すのは恥ずかしい。まして同じ魔法少女に負けた等とは言いたくなかった。でも負けた原因というのは確かに気になる。
どうしよう。
「話してみれば?」
何故だかちょっと怒っているタマの言葉に促されて、法子は迷った末に駐輪場での戦いを騎士に話した。ただし戦った相手は魔法少女ではなく、あくまで魔物という事にして。
法子が話し終えると騎士が一つ頷いた。
「成程な。どうやら相当強力な魔物だったみたいだな。聞いた限りでは良く戦ったと俺は思う」
「えっと、ありがとうございます」
ちょっと上から目線ではあるけれど、褒められたのは確かで、何だか法子は気恥ずかしくなった。
「でだ。肝心の敗因だけど、それは接近戦にこだわった事だろうと思う」
「接近戦……」
「そう、不用意に近付いた結果、相手の魔術にしてやられた。遠くから攻撃する手段があれば牽制しつつもっと慎重に闘えていたはずだ」
騎士の発言にタマが法子の心の中で噛み付いた。
「そんな風に慎重に闘ったらすぐに魔力が尽きただろうけれどね」
勿論騎士には聞こえない。法子にはどちらが正しいのか分からないので、おろおろとしながら成り行きを待った。
「どうやら遠方に届く攻撃は持っていない様だな」
騎士がそう言って、法子の持つ刀に目を遣ってから、離れた場所にある砂場を指差した。
「見ててくれ」
すると砂場から柱がせり上がってきた。それに対して騎士は剣を抜き、体を半身にして、剣を持った腕を体に巻き付かせるようにして一呼吸置く。構えた剣に魔力が蓄えられていく。そしてその貯めた力を、剣を振ると共に解放した。一瞬何かうっすらとした光が柱に向かって飛んだ気がした。続けて風切り音が鳴り、再び静寂が訪れる。一拍遅れて、柱の中心が横一文字に弾けて、柱は真っ二つになった。
「おお」
法子の口から思わず感嘆の吐息が漏れる。
騎士は法子に向き直って、口元を微笑させた。
「魔力を剣に込めて放つ。単純だけれど、その分使い勝手が良い。魔術として意味づけもし易い。だから簡単に出来る」
法子は感心しきりといった様子で何度も頷いた。その様子に騎士は笑みを強くした。
「そんな大した助言じゃない。ま、役に立つと良いな」
法子はまた頷いて、ふと首を傾げた。
「あの、教えてくれるのはありがたいんですけど、どうしてこんなに優しくしてくれるんですか?」
法子が疑問をぶつけると、騎士は背を向けて歩き始めた。
「ヒーローだからさ」
そう呟いて、騎士は剣を納める。
「それじゃあ、君の勝利を祈っているよ」
騎士は何故か無駄にマントを翻して高く跳んだ。そして夜の闇にまぎれて消えた。
「何だかきざったらしいというか恥ずかしい変な奴だったね」
注意を騎士の消えた闇夜に向けながら、タマは法子へそう思念を送った。
「格好良かったね」
法子がそれに対してぼーっとした様子で答えた。
「は?」
「ヒーローか。私もあんな風になりたいなぁ」
「いやいやいや。あんな気取った変なのが良いの?」
タマの否定に耳を貸さずに法子はしばらく騎士の消えた方角をうっとりと眺めてから、やがて砂場に立つ柱に目を向けた。
「それでさ、タマちゃん」
「どうしたの?」
「さっき教えてもらった技、どう思う?」
法子としてはすぐにでも覚えて使いたかったが、タマが騎士に対して良い感情を抱いていなさそうだったので、遠慮してそう聞いた。
それに対してタマはちょっと不機嫌そうに答えた。
「まあ戦術の幅が広がるし、覚えて損は無い」
「そっか!」
法子は早速刀を構える。
「それでどうすればいいの?」
「それぞれの感覚によるから何とも。とにかく対象を切りたいと思えば良い。あの騎士も言っていたけれど、とっても簡単だから、やってみればすぐに出来るんじゃないかな?」
「分かった」
法子は刀に魔力を込めた。そうして砂場の柱を見定め、体をゆっくりとねじって、思いっきり振り回して、魔力が前に飛ぶ事を祈った。勢い回って一回転して倒れ込み、しりもちをつく。
目を回しながら砂場を見ると、柱に切り込みが入っていた。
「やった! ホントだ! 出来た!」
「お見事。でも、あそこを狙ったの?」
切り込みが入っているのは端の方である。法子が狙ったのは柱の中央だ。
「ちょっと違うかも」
「百発百中で当たる様にしないとね」
「むう」
法子は立ち上がって刀を構え、それから何度も刀を振った。柱の傷がどんどんと増え、時に切れて柱がどんどんと短くなっていく。
しばらく経って、ようやく狙い通りに切れる様になった頃に、タマが言った。
「はい、そろそろ止め」
「ええ! ちょっと待って。ようやく当たる様になってきたんだから」
「気付いてないのかな? また倒れるよ? 間違いなく、明日は今日よりも体が重くなるからね」
「うっ」
「帰る為の力も残しておかなくちゃいけないし、今日はもう切り上げ」
「はーい」
法子は渋々刀を納め、公園の時計を見上げた。
「あ、もうこんな時間!」
「どうしたの?」
「夕飯の時間だよ! 早く帰らないと」
法子は急いで跳びあがり、屋根の上を渡りながら、家を目指した。
その途中で法子が嬉しそうに言った。
「何とかあの技をちゃんと使える様にしたいなぁ」
少し前の落ち込み様など無かったかの様な嬉しそうな声にタマは少し不思議に思う。どうしてこんなに元気になったのだろう。あの騎士の影響か、あるいは新しい技を身に付けたからか。タマには良く分からない。一体何が法子の支えとなったか、タマには分からない。
「やる気を出してくれたのは嬉しいけれどね。自分の体は大事にしてよ」
「分かってるよ。でもね」
「でも?」
「私はヒーローだから多少苦しいのは我慢するよ」
「そういうもの?」
「そういうもの。今はまだ未熟かもしれないけど、私にはまだこれからがあるから。これから沢山の人を救って、みんなの笑顔を守る立派なヒーローになる」
タマには法子の語る言葉が何処となく子供っぽく思える。とはいえ、子供っぽいかもしれないが、法子の明るい言葉がタマには嬉しかった。傍に居る者が明るくなれば自然と嬉しくなるものだ。