7 ※
ちょっと長いかも
まさかとエレオノーレは思った。そんな馬鹿なとも思った。
今も昔も重罪。捕まれば何十年もの強制労働が待っている。成功したとしても何の利益もない。売り捌く事もできず、ただ己の欲望を満たすだけにはリスクが大きすぎるその犯罪を仕出かす馬鹿がいるとは。
(本当に人攫いでした……)
新しく購入したスローイングダガーを試しに狼相手に投げてみようと遠吠えの元に行き、様子を伺えばなんと少年一人が吹き矢で昏倒させられて運ばれていくではないか。驚愕を覚えつつ薮の中から犯人を観察する。
必ずと言っていいほど冒険者が付けているフードマントを着ていない。冒険者ではないのかと思えば背中に背負った剣の鞘に銀鎖が括りつけられている。銀鎖の輝きが少しくすんでいることから銀糸になってからそれなりの月日が経った者のようだ。
また、犯人は狼の群れを引き連れていた。飼い慣らしているらしく、たまに狼が犯人に擦り寄って甘える仕草を見せる。
時折他の冒険者に見つかりそうになれば隠れて様子を伺い、やり過ごしたりする。それでも見つかりそうになれば何かを口に咥えて吹き、耳を劈くような高音を出して狼達を操り、冒険者の気を違う方に逸らしたりする。
犬笛か何かでしょうか、とエレオノーレは思った。彼女は先代と共に旅をして居た頃、獣にしか聞こえぬ笛を使う一族の集落に行った事がある。あちらこちらで耳が裂けると思うような凄まじい高音が聞こえたので彼女らは三時間と居らずに集落を出た。獣にしか聞こえぬ音をエレオノーレが聞けるのは先代のおかげではあったが、そんな音に囲まれるのは流石に嫌であった。
(さてさて、どこにいくのでしょうか……)
犯人の背中が小指の爪ほどに小さくなるほど十分に距離を取り、尚且つ気配は殺しているので気取られる事はないだろう。そもそもエレオノーレが尾行していることを察知出来る相手など殆ど居ない。なんとなく見られている感じがする、というあやふやな感覚ならば歴戦を経た金糸や直感が優れた獣人などがいるが完全に察知出来るのは先代だけだ。
(まぁ私を仕込んだお師匠様なら当然なんでしょうけども)
敬愛してはいるが時折やらされる無茶な事だけは勘弁して欲しかったと思う。飛竜すら飲み込む激流に巨岩を括りつけられて泳がされたり魔物の巣に単身装備なしで放り込まれた時などは生きた心地がしなかった。
(今はどこで何をしているんでしょうかねぇ……)
五、六年ほど前に旅に出ると行って出て行ったきりだ。何時かは帰ってくるだろうが果たして何時になるのかさっぱりわからない。便りもないのでどこにいるのかすらも不明だ。
(まぁその内帰って来るでしょう)
そう思い、追跡を続行する。
犯人が向かったのは試練の森の奥深くにある樹海だ。ここには薬草や木の実もなく、獣の巣が点在するため誰も近寄る事はない。
ただ薬草や木の実がないのは木の下だけだ。樹上に上れば水分がたっぷりある、甘くて大きな赤い果実が生っている。樹海に主に生えている樹木の葉は光を通さない故に風の神術で飛行するか直接上らないとこれらの存在は分からないのだ。
また、安らかな眠りを誘う花の花粉や、植物性の毒を中和してくれる樹液を内に湛える木もある。他にも様々なものがあるため、分かるものが来ればここは薬の宝庫である。
とはいえ今はそれらに用はない。目下の目的はリンゼを救出することである。
一足で樹上に上り、上から監視していると僅かに火の明かりが見えた。エレオノーレの目は周囲が闇に閉ざされていて明かりがなくとも見渡す事が出来るのであまりそれらの照明を必要とすることはないが、あればあるで色々捗る。
焚き火の周囲に人間が二人おり、近くに馬車がある。馬車から神術の気配がした。周囲に光精が漂っている。
(ふむ、馬車の周囲の光を屈折させて他の人間には視認出来ないようにしているんですかね)
神術は使えないがエルフたるエレオノーレはあくまで使えないだけで神術の気配は十二分に分かる。命力を精製する気配までばっちりと分かるので神術に不意打ちを受ける事はない。また、神術を使ったまやかしや、幻覚の類は術者が余程熟達していなければ簡単に見破る事ができた。本来ならば馬車は見えず、当事者達以外にはこのような場所で焚き火をする馬鹿にしかみえなかっただろう。音を立てずに樹上から枝に降り、相手に見えぬよう身を隠しつつ木の幹に背中を預けてフードマントの内側を探る。
(さて、仕掛けましょうかねぇ)
前腕部に巻いたスローイングダガーのベルトシースには肘を曲げる時に刺さらない様、内側には差さず、腕の外側と側面にナイフを差すように五本。また、上腕も前腕部と同様に脇に刺さらぬよう内側に差さない形で五本。片腕に十本あり、それを両腕にしているので二十本。
また、足にも同様に巻いており、太股には座るときに邪魔にならぬよう真後ろにナイフを差せぬ形になっている。更にナイフを差すシースが階段のような構造になっており、一箇所に三本差せる作りだ。シースが十箇所あるので太股一本に付き三十本携帯出来る。通常のものと比べると階段構造になっている分、若干外側に膨らむので少々嵩張る。
更に脹脛にも全周を覆う臑当ての様にベルトシースを付けていた。ここには十本差せるので片足だけで四十本。両足で八十本。腕と合わせて百本というおかしな本数を所持していた。これらのベルトシースはナイフが収められている状態ならば少々頼りないものの防具として扱う事も出来た。それなりの者が振るう剣や重量で叩き切る斧や両手剣ならばナイフは容易く砕かれてしまうだろうが一撃ぐらいは防いでくれる。
とはいえスローイングダガーは神術という遠隔攻撃のないエレオノーレにとって貴重な遠距離攻撃兼牽制武器だ。防御に回す事はなく、更に一度に複数投げる事もよくあるのでこのぐらいの本数が妥当なのである。
初めて見た時の感想はスローイングダガーとしてはかなり刃渡りが長い、というものを抱いた。指でおおよその刀身を測れば親指と中指を縦にして同じ程であり、握りはその分短くなってはいるものの片手で持つ分ならば柄の余りもなく、しっくり来るという表現が一番正しい。
また投擲武器というカテゴリに入れるには非常に重く、エレオノーレは百本持ったとしても苦ではないが五本も持ったとしたら常人は腕を上げるのが辛くなるだろう。また全体が狩猟刀と同じ黒塗りであり、光を反射しない構造で隠密活動には最適である。
古い馴染みが在庫品を安く融通してくれたが、まるで己のために誂えた様だな、とエレオノーレは思う。初めて見た時は埃も被っていなかったし錆もなかった。ただ研磨は最低限、と言ったところで万が一の時には格闘武器として扱う可能性もある武器としては切れ味はあまり良くない。
ただエレオノーレにとって切れ味はそんなに重要ではない。確かに切れればもっといいが切れなければ鉄塊としてぶつけるだけだ。スローイングダガーも同じであり、刺さらなければ己の攻撃の射程外へ飛ばせる拳と変わりはない。刺さろうが刺さらまいが当たれば痛い。
前腕部に巻いたベルトシースからナイフを二本抜く。目標は焚き火の側に居る太った男と痩せた男だ。殺すか殺さないか一瞬逡巡して、
(一人残っていればいいか)
そう思った。
エレオノーレに殺人を厭う心はない。必要があれば躊躇いはなく、慈悲もなく、息をする様に人を殺める。必要があれば躊躇うなと育て親たる先代に教えられたし、まして共に旅をして居た頃は悪人、善人構わず数え切れぬ程の人間を手にかけている。なので今更二人増えようが気にすることは何もない。逡巡したのはそれぞれが持つ情報の点からだが頭目らしき人物はいないようで、それぞれが持っている情報も対して変わらないだろうとエレオノーレは判断した。
スローイングダガー二本を指の間に挟むように右手に持ち、一呼吸置いてから乗っている枝葉を揺らす事もなく、半身を幹から出して確固たる速度と威力を載せて腕を縦に振るい、投擲した。放ったナイフは闇に紛れ、目を見張る速度で目標へと飛来する。たとえこの場を陽光が満たしていても男達に見切る事など不可能だったろう。
まさか襲撃者がいるとは思いが寄らぬ男達目掛けてナイフが飛び、命中する。一本は太った男の眉間に、もう一本は痩せぎすの男の首に。
太った男は談笑していた顔のまま、ナイフが刺さった勢いでそのままゆっくり後ろへ倒れていく。そちらはエレオノーレの狙い通りであったが、痩せぎすの方は外してしまった。本来ならば首ではなく、こめかみに突き立てる予定であったが、狙いが甘かったようだ。多量の出血はあるものの意識ははっきりしているようで首を抑え、躓きつつも焦ったように木の裏へと身を隠す。
それを確認したエレオノーレの行動は迅速であった。足場にしている枝を根元から半ばへし折りつつ跳躍し、狩猟刀を左手に、採取刀を右手にそれぞれ逆手で引き抜いて痩せぎすの男へ肉薄。男が首のスローイングダガーを抜いて傷薬を呷ろうと硝子の薬筒を握った右手を胸元まで上げているのを確認するとほぼ同時に採取刀を右手ごと縫い止めるように胸へ、正しくは心臓目掛けて突き込んだ。
まるでないものであるかのように何の抵抗も感じさせず腕を貫き、皮と肉が裂け、風化した木のように胸骨が断たれて心臓に突き立つ。男が苦痛に何か言う暇も、心臓を破壊した事による絶命も待たず、順手に握り直した狩猟刀で背後の木を半ば断ち切りながら首を完全に切り離した
間欠泉のように噴出す血を避けようともせず、殺した男の身体が茂みに倒れて音を出さぬよう、静かに横たえる。買ったばかりのフードマントが血を浴びて鉄錆の臭いを漂わせ始めた。
もうこれは使えないなと思い、武器の血をマントの端で拭った後に脱ぎ捨て、その辺に放っておく。ついでにいつの間にか静かに唸り声を上げて周囲を囲んでいた狼達を睥睨すると尻尾を丸めてすごすごと退散していった。獣はお互いの力量に敏感だ。子がいるだとか自衛のための先制攻撃という譲れぬ理由があるならば決死の思いで向かってくるが、そうではない状況ならば威圧するか驚かせればあっという間に逃げていく。
可愛いものです、と狼が逃げていく姿を見ながら馬車に目を向け、最期の一人を生け捕りにしようとエレオノーレは動く。
と言ってもやり方は非常に単純。不意打ちからの無力化、その後拘束、それだけである。
焚き火を消し、近くの木の陰に再び身を隠して馬車から出てくるのを待つ。十回呼吸する前に先ほどのアルフォンスを運んでいた男が出てきた。先ほどはしていなかった口当てをしている。一見した感じではただの布のように見受けられる。防毒効果などは無さそうであり、煙などを吸引するのに防ぐぐらいの用途しか無さそうに思える。
エレオノーレも目から下を覆うベージュ色の布の口当てを付けているが、これも急拵えのものだったので防毒効果はない。出来れば解毒薬や麻痺治しなどと言った薬に漬けた布を使いたかったが時間がなかったので正真正銘のただの布である。
異変に気付いたのか男が周囲を見渡している。焚き火が消えている事や仲間達が居ない事、また周囲に漂う血臭を察知したのだろう。纏う空気の緊張感を一気に引き上げた。
男が震える指で胸元に下げている犬笛を吹き、狼達を呼ぶ。それと合図にエレオノーレは飛び出した。
男との距離はそんなに遠くはない。エレオノーレの足で二歩と半分だが、常人には十歩を要する距離を一瞬で音も立てずに詰める。
一歩目で彼我の距離の半分以上を縮め、二歩目で距離や向きなどの細かな調整。最後の半歩で大幅な減速を行いながら男の足元を右手で掬い、倒れた男の両腕を膝で抑え、胸部に乗るような馬乗りで捕縛という行動をしようとした時だ。風が吹き、天を遮る物がなくなって陽光が一瞬だけエレオノーレに注ぐ。
僅かに、瞬き一回分の時間視線が交差して、エレオノーレは高速で正しく常人の一歩分、身体を右にずらした。陽光から外れ、再び華奢な身が闇に染まる。
(はっ、つい癖で身を隠してしまいました)
反応は鈍いものの何年経っても身体は動きを覚えている。神術が使えないエレオノーレは真っ向勝負を挑んではいけないと先代から何度も口を酸っぱく、時には身体で教えられる事もあった。スローイングダガーや各種薬品で攪乱しながら出来るだけ相手に姿を見せず、一撃必殺と高速の離脱を繰り返して神術が使えないと言う事を悟られる前に倒すのがエレオノーレの基本だ。それは相手が如何な小物でも発揮されていて、時にはそのせいで今のように無駄な時間を食う事もある。
とはいえ、制圧まで一呼吸程度の時間が延びるだけでこの状況での最終的な結果は変わらない。光の神術を行使する気配を見せる男に対して踏み込みの気配を悟らせず、衣擦れも装備同士がぶつかり合う音すらも立てずに瞬時に男の背後へ周り、左手で採取刀を引き抜き、右腕で抱きつくように男の両腕を封じながら首の側面へ刃を突きつけた。
「動くな」
びくりと男の身体が震え、しかし神術の気配は止まらない。採取刀の切っ先を爪先ほど男の首に鎮めて更に言う。
「神術をやめろ。さもなくば殺す」
感情を乗せず、なるべく低い声で。また、殺意が本気であることを分からせるように拘束する右手に力を込めて逃がさぬ意思を表す。
「だ、誰だ」
震える声音で男が問いかけるがそれを無視してエレオノーレは膝裏を蹴って強制的に膝を突かせ、両手を頭の後ろで組ませてそれを上から抑え込む。
「聞かれた事だけ答えろ。無駄口は叩くな。長生きはしたいだろ?」
長い事こういう荒事から離れてはいたがやはりこういう口調もすぐに戻ってくる。枯れたと思っていた泉がまた湧き出たかのようだ。かつてはお師匠様と慕う先代に付き従ってこれより酷い事を飽きるほどやっていた。まだまだ思い出せるはずだと思う。
「お前達は誰だ? 一体何をしているんだ? まだどこかに仲間がいるのか?」
もはや十中八九正体は分かっているが念の為知らないふりをしておく。人攫いという犯罪者であることを本人の口で言わせるためである。万が一人攫いじゃなく、例えば何らかの正義の行動だとしてもその場合はエレオノーレの行いが露見せぬよう皆殺しで終わるだけなのだが。
「俺達は金で雇われただけなんだ! 頼む助けてくれ! 俺には妹が」
採取刀の腹で男の側頭を強かに打つ。肉が薄いゆえ、衝撃が殆ど吸収されず、骨が薄く脆い人体の急所だ。加減はしてあるので青あざは出来ているだろうがそれ以上の怪我はない。
「声は抑えろ。次に大声を出したら指を折るぞ。お前達は何者だ? あと何人いる?」
痛みに呻き声を上げて男が身を前に折ろうとするが襟首を掴んで強制的に引き戻す。
「あ、あ。俺達は金で雇われた人攫いさ……仲間と言うかは微妙だがもう一組、五人いる……いってぇクソ……」
「全て吐いたら治してやる。五人だな。やはり人攫いか、馬鹿な真似を。どんな大罪か分かっているだろうに」
僅かに呆れたような嘆息を吐いた。エレオノーレとて罪を犯すのは出来れば遠慮願いたいところである。罪人となれば衛兵や治安部隊に追われる羽目になるからだ。ただ犯罪はばれなければいいというのが彼女が先代から教わった事であり、目撃者や追っ手を始末すれば全て問題なしという教えでもある。つまりそれらを始末して後片付けするのが面倒なだけである。
「俺には金がいるんだ……金貨一袋だぞ!? 言えばもっと増やしてくれる!! 妹のために金がいるんだ俺にがッ!?」
男の手にエレオノーレの白魚のような細い指が突き込まれた。それは唾液で汚れる事を厭わず、口中にある物を親指と人差し指、中指でしっかりとホールドし、
「指はやめだ。――舌を貰う」
男が抵抗する前に幾条もの紐を引き千切るような音を立てながら一気に引き抜いた。
「ガア”ア”ア”アアア!!」
血で濁った凄まじい絶叫と共に男の口中から鮮血が迸った。
「静かにしないからこうなるんだ。とはいっても、この方が煩くなってしまったな」
引き千切った舌を男へ投げつければ慌てて拾いに掛かる。完全に元通りになるとは言いがたいが切断面をしっかりくっつけたまま保持して傷薬をかける、または飲めば腕や足でも治る。舌も同じだ。健全であった頃と比べるとどうしても一度断たれた分その周囲の筋肉や神経の反応は悪くはなってしまうが動くには動く。
口中を血で溢れさせたまま男が舌を戻し、腰につけているアイテムポーチから傷薬を取り出す。人差し指ほどに細く短い薬の瓶には白い紙が巻かれていて、その紙に樹精と風精の絵が書いてあった。
風、火、水と言った基本的な者も含めて数多居る精霊達はそれぞれ特定の種族に特に力を貸す。人間なら光精と闇精が、エルフなら樹精と風精がこれに当たる。エレオノーレは神術は使えない故に加護を授けると言われる樹精と風精は別段崇拝はしていないものの、なんとなくそれらの絵姿を薬筒のラベルに使っていた。
そのラベルが使われた薬をこの男が持っていることからもしかしたらエレオノーレの店の常連客という可能性がある。そういえば今朝見た気がします、とエレオノーレは思いながらも男に対する手を緩める事はない。
「いいか、これが最期だ。良く聞けよ? ちゃんと答えれば帰してやる」
薬を呷ろうとする男の手を右手で押さえ、採取刀を鞘に戻して左手を男の顎下に這わして下から頬を挟み込んだ。出血で窒息せぬように僅かに下に向けつつ、問う。
「あの馬車の中にリン、いや、猫の獣人はいるか? 髪は肩甲骨にかかるぐらいで肌は褐色。金の目を持ったカタナを差した銀糸の女だ。いるなら首を縦に振れ、いないなら一呼吸分そのままでいろ」
エレオノーレはヴァーレにいる全ての猫の獣人を把握しているわけではないが事リンゼに関してはこれだけで通じるだろう。カタナを扱う冒険者、かつ銀糸で猫の獣人はエレオノーレが見たことのある中ではリンゼしかいない。他にもいると言われればそれまでだがそれは平時の事。リンゼが行方不明である現在ならば男がいると言えばそれは九割以上の確立でリンゼなのである。
恐慌寸前の男の瞳を無機質にエレオノーレが見つめる。首を振らない事からいないようだ。胸中で舌打ちし、次の質問をする。
「ではもう一人の組に今言った特徴の女を見た事があるか?」
首を縦に振る。面倒な事になりましたと思いつつ、男の顔色が伺う。
少々青白い。舌を引き千切った事で多量の出血をしているせいだろうか。とはいえ、意思疎通が出来る内はまだ大丈夫と判断して続ける。
「ではその組は今どこに居る? っと喋れないか……神術で地面に居場所を書け」
風の神術が行使される気配を感じてすぐ、地面に指でなぞったような文字が出現する。風を繰って書いているのだ。やっぱり神術って便利ですねぇ……と少し羨望しつつ文字を読めば、
『昨日この森を出た。今の居場所は知らない』
今度は音に出して舌打ちした。すかさず聞き返す。
「目的地は?」
『伍星山の山を越えてすぐの麓。そこで別の奴に引き渡す手はずになっている』
「伍星山か……受け渡しの期限は?」
『今日の日没』
「今日の日没!?」
そんな馬鹿な話があるかと思う。伍星山とは大小五つの山が横に連なって出来た山脈だ。ヴァーレからは真っ直ぐ南の位置にありそれなりの距離がある。また馬車ではこちら側の麓に着くまでに二日は掛かるので昨日試練の森を出たとしても今日の日没までに山脈を越えて向こう側の麓へたどり着けるはずがない。
また、二日という時間は伍星山の一番標高が低い山を越えて行った場合だ。山越えの途中に街はあり、道の整備はされているものの魔物は出るし、高山になるので夜間の冷え込みや酸素不足による馬の体力の消費も激しい。というより人馬ともに山に慣れて居なければそんな強行軍は不可能と言っていい。
『途中で代えの馬車や高山を走れる馬が用意されているらしい』
男がそう付け加え、合点した。使い潰すつもりでやっているらしい。随分と金のかかった人攫いだなと思うが今はそんな事に気をやっている場合ではない。
男を拘束していた腕を開放する。ようやくエレオノーレの薬を飲めるようになって男は零す事も厭わず口中に流し込むようにがぶ飲みし始めた。
しかしこのエレオノーレ特製の薬、何十代と歴代の当主達が改良を重ね、もはや傷薬の域を超えて再生薬と呼ばれるようになったその薬には只一つ、重大な欠陥がある。
「ゴボアアァアアア!!」
男が血と薬の混ざった物を吐き出しながら絶叫を上げた。何かに耐えるように身を捩り、地面を掻き毟る。
男が何に苦しんでいるかと言うと痛みである。傷の痛みではない。再生による痛みである。彼女の店にある全ての傷薬はその傷を癒す際に激痛を伴うのであった。
遥か昔、当代であるエレオノーレから遡って何十代目かが、傷薬に痛覚を刺激する植物を混ぜ込んだのだ。
それは悪戯心などではない、一種の親心のようなものだ。
そもそも薬を使う状況というのは負傷を負って、それを回復するために使うと言う事。その当主の頃は傷薬をがぶ飲みしながら魔物に特攻して攻め滅ぼしたり、遺跡にある矢玉飛び交い、槍衾が落ちてくる場所を頭を死守しながらこれまた薬をがぶ飲みし、身体を再生させながら無理矢理突破する。
どんな人事不詳の傷を負いながらも、ゴリゴリと僅かずつでも押して突破する。勿論死者は多かった。首を切り落とされるとか、身体が木っ端微塵になれば再生はさすがに無理であり、引き際を誤った冒険者や、意図せぬ事故で薬瓶が割れた等という使うに使えぬ状況になった場合も当然の如く死んだ。
そんな脳筋戦術が流行り、知り合いが徐々に減っていく事に憂いを得た当主が、安易に薬を飲まぬ様に傷の痛みを倍以上にする植物を発見し混ぜ込んだのが始まりだという。
薬を飲まないようになればみんな怪我しない様になるんじゃないか、そんな思い付きだった。
「~~~!!」
もちろん、今苦しんでいる男のように大小様々な傷を負うことが多い冒険者にとってはふざけるな、と言う事以外になかったが、そんなものを混ぜ込んだ理由を泣きながら語られれば沈黙するしか無かったという。
「日没か……なんとか間にあうかもしれませんね……」
己の持てる力を全て行使すればなんとか追いつけるかもしれないという思いがある。ただまぁ追いつけなければその先まで追うだけだが。
「はぁ……はぁ……」
治癒の痛みが消えたようだ。男は脂汗をかきながら手をついて地面に項垂れるような姿勢を取っている。その側にエレオノーレは静かに歩み寄った。
「な、なんだよ! 全部喋れば生かして帰してくれるって話の筈だぞ!」
男が尻餅を突き、後ずさりながら怯える。もはや酷薄に振舞うつもりもないエレオノーレはうーん、と口に出しながらしゃがみ、男と視線の高さを合わせた。
優しく、怯えさせる事がないようにゆっくりと静かに男の頬に両手をやり、
「やっぱりそれなしで」
男の首を上下百八十度反転させた。
弾力のある骨が折れる弾けるような手ごたえを添えた頬越しに感じ、彼女の耳に張りのある古木をへし折ったような音を届かせた。尻餅を突いていた男の状態を支えていた腕が力を失い、首と同じように変な方向へ倒れていく。
しかしまだ意識はある。辛うじて即死ではない。男の瞳が何故、ともはやどこも動かす事も叶わぬ身ながらエレオノーレに問いかけていた。
「申し訳ありません。残った仲間に連絡とかされると非常に困るので。貴方の様な金に目が眩んだ奴は脅威が去るとまた金の心配をし始めます。なので貴方の利益、つまりは金を得るためになるような事を仲間に漏らす前に手を下させて頂きました」
男の瞳が緩やかに光を失っていく。聞こえているかどうかも分からないがもう少しだけ続けておく。
「運が悪かったですね。リンゼに手を出さなければ死ぬ事もなかったのに」
それは本当のことだ。リンゼにさえ手を出さなければエレオノーレは動く事はなかっただろうし、例え気付いたとしても誰かに伝えるだけで放置しただろう。己の大切な友人や、先代などと言った家族同然の者以外はどうでもいいと考えるエレオノーレに、他人を助ける心遣いなどない。
(おっと、一応確認しておきましょうかね)
念の為馬車の中を改める。もしかしたらリンゼ以外の知り合いが捕まっているかもしれないと思ったからだ。とは言っても、この付近に住む人々の中でエレオノーレが身命を賭してでも助ける相手は二人しかいないのだが。
(ふむ、誰もいないようですね)
麻痺と睡眠を齎す煙を吐き出し続けるカンテラのような金属筒を外に投げて排除しておく。ここの地面は常に湿っているので燃え広がる事はないだろう。この煙は吸い続けなければ一時間ほどで効果は消える。その間に獣の襲来を受ければ絶体絶命だが手持ちの麻痺治しは二つしかないため、ここで寝ている全員に飲ませられるほど余裕があるわけではない。
そもそもこれはリンゼ用だ。また、エレオノーレは毒への耐性があり、そんじょそこらの毒なら全く意に介さず動く事も出来た。竜を含めた一部の獣や蛇の爪や牙から分泌される、本来なら即死級の毒ぐらいなら多少は効くがそれ以外は全く、或いは殆ど効果がない。冒険者が聞けば非常に羨ましがる身体であった。
(まぁ二つありますし一つは誰かにでもあげましょうか)
一番近くにいた少年と言ってもいい風貌の若者の口に薬筒を垂直に突っ込んで飲ませる。口移しがいるかと思ったが垂直だったせいか問題なく飲み込んだようだ。時期に目を覚ますだろう。
馬車から出て拳より少し小さい石を右手に一つ拾い、樹上に出てアイテムポーチから閃光弾を一つ取り出す。親指と人差し指で丸を作った程度の大きさの厚い紙製の容器の中に少量の爆薬と、強い衝撃を与えると指先程度の大きさでも数瞬の間、視界を潰すほどの閃光が迸る光煌石という鉱物が仕込んであるものだ。
疾走や跳躍の衝撃程度では反応しないが共に仕込んである爆薬が爆発するとそれの爆圧で容器を内から弾け飛ばしつつ、それに反応して周囲に閃光を撒き散らすようになっている。爆薬は液体状で空気に触れた状態で強い衝撃を与えると爆発し、閃光弾の外殻となる紙の容器には一箇所だけ指で突き破れるほどに脆い箇所があるのでそこを指で破り、爆薬空気に触れさせた状態で投げて床や相手にぶつけて使用する。
閃光弾を左手で上空に放り投げ、声に出さず三つまで数えてから右手に持った石を閃光弾目掛けて投げる。全力ではない。全力だと着弾した瞬間に四散して閃光の威力が半減するからだ。
投げられた閃光弾の上昇が止まり、自由落下を始める直前で石と激突し、爆薬がその衝撃で起爆して、周囲に衝撃波を撒き散らして光煌石が反応して閃光を放つ。それはこの樹海の外から窺えるほどの強いものであり、周囲の冒険者の目に触れるのに十分なものだ。普通は光の神術を空に打ち上げ、救助信号として使われているが、神術が使えないエレオノーレにはこれがその代わりとなる。今の光に気付いた者たちがあまり間もなくここに集まり、下の馬車に気付くだろう。基本的に助けるつもりなどないエレオノーレだがこれぐらいならしてやる心はあった。
(さて、少し急ぎましょうか)
向かう先は伍星山だ。歩きではこちら側の麓につくまで一週間は掛かる。山越えには途中の街での一泊も含んで二日というところだろうか。
また、馬では三日ほどだろう。今から動いたのではどうやっても間に合わない。遥か遠方には竜と心通わせ、大空を自在に高速で飛び回るという竜騎士ですらいけるかどうか分からない距離だ。更にリンゼを乗せた馬車は昨日に発っている。今日の日没までに向こう側の麓に行く、と言うのはどんな技術を使っても無理だと誰もが言うだろう。
しかし、きっとこの世でただ一人エレオノーレだけが日没までそこへ行く事が出来た。
(お師匠様のくれた身体に今日ほど感謝したことはありませんね)
先代薬屋当主にしてエレオノーレを拾い、育てた親。一風変わった思考を持ち、子育てにはかなり難がある性格ながらも薬屋としての腕は確かだった。――身体強化薬なんてものを作るぐらいには。
三日三晩大釜一杯に作られたそれに漬け込まれた結果、エレオノーレは外見は華奢なエルフの女性ながらも中身は別物と成り果てた。ちょっとした家とほぼ同じ大きさの大岩を持ち上げる事だって出来たし、やろうと思えば十の山を一日で走破することも可能なほどに身体が強化された。
その人知を外れた身体と、もう一つのエレオノーレだけの秘密の術を合わせれば日没までに向こう側の麓へ行くことなど造作もない事なのである。
(久しく使っていませんでしたがまだいけますかね)
エレオノーレは神術を使えない。それは彼女に原因はなく、精霊側に問題があった。
神術とは、己の魂から命力を精製し、それを精霊に渡し、言霊をもって行う力の形を願い、発動するものである。
エレオノーレは命力を精製する事は出来る。だが、精製した命力を精霊が受け取らないのだ。
何故かは今でも分からない。渡そうとしても困惑を浮かべられるか、無いものとして扱われるかのどちらか。
精製した命力は他の者と比べても何ら変わりは無い。親兄弟やエルフの長老、彼女に生きる術を教えた先代にはそう言われている。最終的には彼女を役立たずと嘲る他のエルフ達もその事にだけは終始首を捻っていた。
だが、この世にたった二つ。彼女だけが使え、彼女しか恩恵を受けられない神術があった。
それは精霊を介さない。故に神術と呼ぶにはおこがましい技。
先代はそれに名を付けた。それは彼女だけが持つ、恐らく世界でたった一つの属性であり、火も熾せず、風を操る事も出来ず、水を揺らめかせる事も出来ない彼女だけが使えるそれを、術の特徴から先代はこう名付けた。――〝命術〟と。
自身の魂を削り、命力を生み出す。魂を削るという事は、胸の内側が無くなる様な喪失感と言われているが命術の特徴なのかエレオノーレはその喪失感を得た事はない。久しく使っていなかったその力は幸いにして感覚が鈍っているようなことはなかった。自身の思うがままに最適な量を全身に行き渡らせる。
エレオノーレの全身から仄かな白の燐光が漏れ出す。命術を使った際の特徴だ。身の内に留め切れぬ命力が微々たる量ではあるが外に漏れ出しているのだ。他の人間が神術を行使する際は命力を精霊に渡す為、全身に行き渡らせるということはない。
だがエレオノーレは命力を全身に行き渡らせて始めて己が願う力の形となる。それが齎す力は今まで判明しているもので二つしかない。だが、その二つはエレオノーレの危難を幾度と無く救ってきた。
(いきますよ……!)
加速の一歩目で足場にしていた、エレオノーレの胴体ほどもあろうかという太い木の枝をへし折って四散させ、着地した地点の大岩を足場とした二歩目の踏み込みで二つに踏み割りつつ、まるで蹴り出した時に砂が舞い上がるかの如く後方に弾き飛ばした。
三歩目で最高速度に乗る。進路に立ちふさがっていたちょっとした小山ほどある大猪を裏拳気味に軽く薙ぎ払えば七転八倒しながら吹き飛んでいく。しかしエレオノーレ自身は全力で振るった感覚などなく、それは傍目から見れば少し強めに草木を払うかのような大して力が篭っていない動き。
命術が齎す二つの力の内の一つ、身体強化の恩恵である。命力を全身に行き渡らせ、骨肉を活性強化する事で人知を超えた筋力や、鋼鉄に足跡を残す飛竜の踏み付けを受けても平気な程の強靭さを発揮する事が出来る。割ろうとは思っていない大岩を、只の加速の踏み込みで割る事も出来るほどに強化された身体ならば命術を発動させたエレオノーレはそれこそ腕を一払いするだけで人を容易く絶命させる事が出来るだろう。全力で振るえば相手がその一撃と付随する衝撃波で木っ端微塵に近い状態になることもある。
先代がくれた強化された身体に加え、命術でそこから更に底上げすれば全力で走るエレオノーレに追いつける者も、追いつけぬ者もいない。
現状の時間は昼食を摂るには四半刻ほど早い時間帯だ。急げばまだ間に合う。
(今行きますからね。リンゼ!)
音すら置いて行く速度を出して、エレオノーレは突っ走った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
太陽が半分ほど地平線に身を隠す頃、その馬車は出せる速度の限界まで出して伍星山の緩やかな下り坂を走行していた。
馬車を牽引する馬は全部で四頭。高山ゆえ、平地より気温が低いにも関わらずその全てが全身から汗を吹き出し、白い息を上げている。
「日が暮れてきたな……もうちょっと急げないか?」
「これ以上速度出したら目的地に着く前に馬が潰れらぁ。それに下り坂だからこれ以上無理させて事故ったら元も子もねぇよ」
「焦らなくても大丈夫さ。この調子なら時間の少し前か丁度いい時間に着くだろうよ」
御者席に座る三人がそんな会話をする。
「しっかしさみぃなぁおい……凍えちまうぜ」
季節は夏に近い春とはいえ山は凍える風が吹きつけており、そこにいるものの体力を容易く奪う。石畳で舗装された山道は凍結こそしていないものの先日に雪が降ったのか道の脇には膝下ほどまである雪が盛り上げられていた。
三人とも服を着込み、フードマントを身体に巻き付けて、手元には湯気を上げるカップが握られている。中身は暖めたワインだ。そうでもしないとあっという間に体温が下がって低体温症になりかねない。ワイン自体は伍星山の途中にある街で買った物で、それを暖めて飲んでいるのだが思ったより横風が強い事と高速で走行する事による向かい風も合わさって実際の温度も体感も非常に寒い。下りの半分ほどまで来たところで酒が切れ、今彼らの手元にあるのが最後の杯だ。
「おーい、交代してくれねぇかー」
「やなこった。大体おめぇが酒飲みたさにそこに行くって言ったんじゃねぇか」
一人が馬車の中に声を掛ければ、くぐもった声でそういう返事が返ってくる。思わず口篭った男に他の者が呆れた笑い声を上げた。
馬車の中は凍える寒気を受けぬ代わりに芯から温まるワインが飲めない。御者席にいるものは吹き荒ぶ寒風を浴びる代わりに暖かいワインが飲める。そういう約束であり、馬車の中の男は這い寄って来るような寒さに耐えつつも殴りつけるかのような凍気を受ける事がない安定した場所を選んだのである。
「あと少しの辛抱だぜ。もう少ししたら暖かい寝床も金も手に入るんだ。攫った奴らはどうだ? 高いびきか?」
「あぁ、ただ一人だけ寝かせた位置からかなりズレてる女がいるけどな。こりゃ途中で目を覚ましたな」
「あぶねぇなおい。何事もなくてよかったけどやっぱり中にも常時見張りがいるか」
馬車の中に居る男がそこに尻を置いたのは伍星山脈に入ってからだ。最初からそこにいたわけではない。
何しろ中には麻痺と睡眠を齎す煙毒が充満しているのだ。今は防毒の口当てを付け、更に解毒薬を飲んでいるので問題ないが何の備えも無しにそんなところに常にいればその被害を受けるのは己である。
「後ろは大丈夫かぁ? 追跡されてないかぁ?」
手綱を握る者が声を張り上げれば馬車の後ろから若い男の声でほぼ同じ声量で返事が返ってくる。
「そんなやつ影も形もいねぇよ! つうかもし追跡されてもここまで来たらもうぶっ殺すしかねーだろ!」
血気逸る年頃らしい物言いだな、と男は苦笑しながら馬車に乗る五人の仲間全員に届くよう声を張り上げる。
「みんな! 確かにここまで来たらもうばれていても誰も追いつけねぇしとは思うが油断は禁物だ! 万が一追って来る奴が居たら殺る覚悟はしておけよ!」
「「おう!!」」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
生贄の元へ音もなく、風のように迫る。
草を踏み、影を超え、木の葉を揺らして、月下に金色の髪を翻す。
友を取り返さんと、凍える殺意に身を浸した死神が迫り行く。