6 ※
彼は冒険者だ。
但し、一時間ほど前に始めて銅玉を貰ったばかりの新米である。
冒険者になった理由は格好いいからというもの。
彼が知る冒険者というものは未開の秘境を切り開き、時には魔物と遭遇しながらも仲間と共に倒すものだ。彼が幼い頃より聞いていた冒険譚が冒険者はそうあるものと決めている。
自身が生まれた村は街道沿いにある宿場町で、更に彼の家は宿屋を営んでいた。幼いながらも家を手伝い友達とあまり遊ぶ時間がなかった彼の相手は宿泊する冒険者がしていた。
それらは筋骨隆々とした男性であったり、線の細い少年だった。あるいは肉感的な女性であったり、顔も見えないぐらい目深なローブを着た少女であった。
一度彼の宿場町が大量の魔物に襲われた事もあったが、その時に助けてくれたのも冒険者達であった。彼らは大半がたまたま訪れた者たちばかりであったが、一目見ただけとは思えぬ見事な連携を繰り出して魔物を撃退し、宿場町を救った。
それらから冒険者としての体験談を聞き、尊敬と憧れが募り、親の反対を押し切って齢十八になる頃に全財産を持ってヴァーレへと飛び出してきた。
ヴァーレに来てから一週間。講義を受け、簡単な試験に合格して初めて銅玉を授与されて今ようやく試練の森へ辿りつき、宿屋の跡取りとしてではなく、輝かしい冒険者としての人生が始まる。
筈だった。
「うわぁぁぁぁぁぁ!」
受けた依頼は幾つかの薬草とキノコの採取だ。依頼主はヴァーレで有名な薬屋の店主である物臭であるらしいエルフ。彼も初めて薬を買いに行った時にその姿を目にしている。
臀部に掛かるほどに長い金の髪は、陽光を柔らかく反射し、一本一本が絹糸のように細く輝く。風精が運んできたと思われる髪から仄かに漂う花の香りは相対するものの心を非常に穏やかにする。
表情も豊かで少々眠たげな目つきは時々によって喜怒哀楽を柔軟に表現する。彼が見たものは常連客と喋っている時と金を払う時の喜と楽の表情だが、整った顔と言葉を紡ぐ桜色の可憐な唇に一瞬目を奪われた。
呆けている間に彼より身長が頭一つ分高いその店主は彼の真新しい銅玉を目に入れると柔らかく笑って彼のこれからを祝福してくれた。
その時に彼は心を奪われた事を一瞬で理解した。そして誓う。
この人を艱難辛苦から守れるように強くなりたい。両腕に納めてあらゆる悪の目に触れさせないようにと。
少年のその姿を見ていた銅玉と銀糸の冒険者はまた一人ライバルが増えたと笑っていた。だが彼女の事を良く知る昔ながらの一部の銀糸と金糸はその様子を見て苦笑していた。
「くっそぉぉぉぉ!」
彼、アルフォンスは試練の森で狼の集団に襲われ、逃げていた。
最初に襲われた時は四匹ほどだったが今は増えて七匹ほどいる。全ての狼がアルフォンスの腰辺りまで体高があり、二本足で立てばきっと彼の身長を超えるだろう。
魔物ではない、よくいる野獣の類だが銅玉に狼の群れは脅威だ。一、二匹なら倒せるだろうが三匹を超えた時点で厳しくなる。
一匹を倒しても二匹目三匹目が死角から襲ってくるのでその対処は非常に困難だ。万が一に足の腱を食い千切られればそのあとは嬲り殺しになる。狼の群れを舐めた銅玉がそうやって食事にされるのはよくある話だ。
「あがっ!」
石に躓き、派手に転んだ。擦り剥いた膝や頬が熱を持ち、咄嗟に突いた右手の手首に違和感が走った。それらを堪え、再び走ろうと体勢を戻した瞬間には狼に囲まれていた。
仮に彼が転んでいなくても土地勘や何の道具もなければ人間の足で狼を振り切る事は不可能に近い。人間が十秒で走る距離を狼は五、六秒で走りぬけるのだ。神術を使って風の精霊の力を借りれば人間はそれ以上に早く走れるが銅玉たる彼にそんな技術は未だ無い。
狼が最初に狙うのは機動力を殺ぐための足である。また、狼は集団で狩りをするので、その次は違う個体によって四肢を咬まれ、押さえつけられてから一番身体が大きく、力が強い個体が首を咬んで窒息させ、息の根を止める。
狼が大口を開けて彼目掛けて跳び掛かるための力を溜めている間に採取刀を抜いた。
この採取刀はギルドで支給されるものだ。刃渡りは十センチ程で切れ味はそんなにない。生き物を断つには不向きである。
掘る事も考慮に入れられた刃先は欠けぬように丸い。だが、相応の重量を持った柔らかい物を突き破れる程には鋭かった。勿論そのような用途に使われるため、頑丈でもある。咄嗟に抜き、防御に使う分には申し分ない得物だった。――相手が剣や槍に頼らない、爪牙で生き抜いていく頑強で生命力の強い獣でなければ。
構え、周囲を見渡せば狼の数が増えている上に、囲まれて背にした背後は崖が壁のように聳え立っている。
どうあがいても絶望だ。足は震え、涙が溢れて心が折れそうになる。だが屈しない。彼が知る冒険者とはそうあるものだ。
「やってやる……!」
狼が唸りを上げる。いつでも跳びかかれる様に機会を伺っているのだ。順手で握った採取刀を暗闇を払う松明の様に狼たちに突き出しながらアルフォンスは最後まで戦う覚悟を決めた。
その矢先、首筋に爪で叩かれたかのような衝撃が走った。
そしてそれは鋭い痛みを伴う衝撃でもあった。虫か何かかと首に手をやり、払えば小さな針がついた小指ほどの透明な容器が地面に落ちる。
「なんだあれ……」
そう呟いた直後、上腕から指先にかけて小さな痺れが走り、それはすぐに痛みすら伴う大きな苦痛の痺れとして全身に回った。それは彼の身体を支える両足も同様で、堪えようとしてもその努力すらしてないかのように容易く地面に崩れ落ちる。、
それと同時に痺れが訪れた場所から順に力が勝手に抜けていくような虚脱感。力を込めてもその感覚がない。指先に力を込め、土を握ろうとしても髪の毛一本たりとも動かないのだ。
「あ……か……」
喉も舌も動かない。幸いにして呼吸は出来るようではあるがこのままでは狼達に食い殺されてしまう。
動けと願い、しかし身体は意に反して倒れ伏したまま。
(畜生ッ! こんなところで死にたくない!! 誰か助けて! 何のために俺は……俺は……! クソッタレぇぇぇぇ!!)
脳内で一通りの罵声と嘆き、命乞いを喚いて、もう一度首筋に同じような衝撃を受けてアルフォンスは昏倒した。
(ふぅ……これで三人目か)
大の男の背丈を僅かに超える程度の薮の中。薮の向こうは細かな小木の枝やその葉が隠していて正確に伺う事は出来ない。それは陽光が差す昼日中でもそうだった。
とはいえここは樹海と言って良いほどに木々が密集しており、上空は暖かな陽光が遮られて木漏れ日となるほどの僅かな隙間しか空いていない。
更にその男は全身を黒と深緑の装束で迷彩していた。木漏れ日程度の光量しかないのならば薮中でなくても草原に寝そべれば昼日中でも目視はし辛くなるだろう。
(悪いな新米。金のためなんだ)
男は身を潜めていた薮から出て今しがた昏倒させたアルフォンスの元に近寄る。その手には腕一本より少々短い程度の木筒が握られていた。
(さすがは希代の薬師様特製と言った所か。吹き矢二本も撃つ必要無かったな)
吹き筒を指で回し、弄びながら擦り寄ってきた狼の頭を撫でる。アルフォンスを追っていたこの狼達は彼が飼い慣らしているものだった。魔獣ではなく、普通の獣なので言葉による意思疎通は取れないが、人間の耳には聞こえぬ特別な音を出す笛を使い、狼達を操る術をその男は持っていた。
(さてさて、運ぶとするか)
昏倒しているアルフォンスを担ぐ。この作業が一番面倒だと男は思う。何しろ無力化した人間を乗せるために馬車を使っているのだが、それは試練の森の奥深く、昼でも夜のように暗い樹海の奥に神術を使って隠しているのだ。その場所は薬草や果実と言った益となるものがなく、おまけに暗所ゆえ視界が悪い上に獣の巣がそこらにあるので誰も立ち入らない場所になっている。
(はー重い……男はこれだからなぁ……。ま、金のため金のため)
人攫いというのはどの国でも重罪だ。それは自治都市であるヴァーレでも変わらない。だが彼には法を犯してでも金が必要だった。
両親はいないが良心はある。また、それへの呵責もあったがこの人攫いの代わりに得られる莫大な報酬に釣られてこのような事をしている。全ては妹のため。難病に罹り、命を繋げる為に絶えず高額な薬を必要とする妹のために。
肉体的な傷はあっという間に傷薬で治るが、風邪を始めとした疫病は薬をある程度の期間摂取し続けないと治らない。また、彼の妹が罹患した病気は肺腑が腐り、血を吐く病気だ。大きな痛みはないが呼吸がし辛く、碌に動く事も食べる事も出来ない。薬を飲んで一、二日は平気だが、それを過ぎるとまた血を吐き始める。一ヶ月程の薬の摂取が必要でそのため彼の妹は薬を飲み続けなくてはならない。
金のために、ひいては妹を養うために冒険者という職業をしていたが、大きな仕事をしないと実入りが思っていたより悪い事に気付いたのは銀糸の昇格して少し経ったあとだ。金銭的余裕が出来るかと思ったがそうでもなく、逆に妹が病気になってしまったことで僅かにあった蓄えが失われ、仲間や友人に借金をして食い繋いでいる状態に陥っている。
幸いにして男の周囲は理解があったため、何のわだかまりも無く貸してくれているが何時まで経っても好意に縋る訳にはいかないし仲間達にも限界はある。何か高額な依頼はないかと探している最中に声を掛けられたのだ。
顔形はフードを目深に被っているせいで分からなかった。だが、聞こえた声が瑞々しい若い女のものであったので二十歳を超えているかどうか、というところだろう。その女は特に声を潜める事も無く、いぶかしむ彼をテーブルに誘い、席に着かせると法を犯すという気持ちすらないような声音でこう言ったのだ。
理由を一切聞かない事を条件に人攫いをしないか、と。
勿論拒否した。そんな事をすれば重罪だ。彼一人が捕まるならばまだよいが妹がいる。このヴァーレに善意で運営されている孤児院はあるが、病人を受け入れるほどに優しくはない。友人達も己自身や養うものがいるために妹の引き取り手などはなく、その為彼がいなくなれば妹に訪れるのは緩やかに肺腑が腐り、吐いた血と膿とどろどろに溶けた肺に沈む悪臭と苦しみに満ちた最期だ。
断固拒否の姿勢を見せた彼に対し、その女は両手を合わせた手の平に僅かに余る程度の小袋を、正確にはその中身を見せた。
その中身は黄金の輝きを持っていた。眼前に太陽が現れたと錯覚したほどで、一瞬光精でも入っているのかと思うほどだ。
両手一掬いでは取りこぼすほどの大量の金貨。その袋の中にはそれが入っていた。
金や銀、宝石と言った物はそれなりの技術が必要だが神術で作り出す事が可能だ。ただ、それらを自身で作り出したとしても売買で使うことは出来ない。貨幣に施された細工が同一のものでも、規格が同じでも、純度が一緒でもだ。
国ごとの貨幣の違いはあるが、それら貨幣は流通する前にどこの国にも属さない、どこの勢力にも入っていない完全な治外法権である竜人の国に通され、そこに真贋を見分けるための特殊な神術を込められてから発行元の国に戻り、そこで始めて世に出回るのだ。小袋の中の金貨を持てばそれは確かに金貨の重みであり、真贋を見極めるために命力を込めれば金貨の縁が淡く輝いた。竜人たちの審査を通った売買で使えるまごう事無き貨幣である。
――一人につき一袋が報酬です。
この言葉に彼の心はぐらりと揺れた。薬の費用は三回分で金貨三枚というところだ。夫妻に子供二人という家族構成の場合、一ヶ月の生活費が大体金貨五枚。彼の収入が依頼の内容にも寄るが平均して銀貨五枚ほどだ。薬は長くても二日おきの間隔で飲まなくてはならないため、金がかかる。袋に金貨が何枚入っているかしらないが五十枚は手堅いだろう。袋一つ分で根治までの薬代が賄える、或いは近いところまでいくだろう。
重罪を犯す代価としてはそれなりなのだろうが露見し、捕まった場合の事を考えるとやはり頷く気にはなれなかった。後ろ髪を引かれる様な気持ちで断り、席を立てばその女はもう一度言った。
――二袋では?
足が止まった。眉間を寄せ、女を見れば口元が弧を描いている。
――三袋でも構いませんが。
妹のために。その言葉を免罪符に彼は女の依頼を、もとい、人攫いをする事にした。
実際人攫いをする集団は二組であり、既に一組目は十人ほどを捕まえて昨日の深夜に受け渡し場所目掛けて出発した。突出したものこそないが速度と持久力に優れ、安定した走破距離を持つ馬車に乗せてあるので一日もあれば着くだろう。その先は別の運び屋に渡し、報酬を受け取って解散の手はずとなっている。
ちなみに攫う人間は無差別であるが、なるべく果実摘みに来た一般人や銅玉を狙って捕獲するように動いている。その方が抵抗が少なく、あっても損害が軽微なためだ。先に出た組に例外として一人、獣人の銀糸と手練れの剣士が二人居たと彼は聞いたがやはり抵抗は苛烈なものであったようだ。先に出発した組は獲物に誘眠効果や麻痺を齎す煙幕を先制の不意打ちで仕掛けたのだがそれらの道具があってなんとか、という程の損害を受けたと聞く。
やはり銀糸は怖いな、と自身も銀糸ながら彼は思った。
アルフォンスを肩に担ぎながら時たま見掛ける冒険者達から木々や薮を使って時に伏せ、時に待ち、狼達を笛で操ってわざと冒険者達の目の前に出させる事で気を逸らしつつ、身を隠しながら馬車が置いてある試練の森の奥深くに辿りつく。
ここから先は昼間でも夜のような暗所ゆえ、神術で光を灯さなければとてもではないが先には進めない。それも同じ人攫いをする仲間以外に発見されては困るので、伸ばした腕の指先が僅かに見える、というところまで光量を絞らなくてはならない。他の者はどうだか知らないが彼には狼達を操る笛があるのでそれを使ってこの暗所で狼達に周りの索敵や警戒をさせていた。
狼達が周囲の匂いを嗅ぎながら歩き回る音と陽光が届かず、苔でぬめり、湿った大地に己の足がぬかるみ、木の葉が風に揺れてざわめく中を十分ほど歩いただろうか。小さな橙色の明かりが見えた。
焚き火の明かりだ。やはりそれも外に漏れぬようとても小さな光だが、そばにある馬車や仲間を暗闇の中から露わにするには十分な照明である。
大声で呼びかけるような真似はしない。この周辺の獣は出来るだけ排除しているとはいえ、人の声は腹を空かせた獣を呼び寄せるし、ただでさえ獣人は耳が良く、気がいい者たちが多い。耳聡いものが聞きつけてもしかしたら銅玉が入り込んだかと勘違いされ、こんなところにくるべきではないと忠告をしにくる可能性もある。現に彼らは一人、そういう獣人を捕獲していた。
(たまたま挟み撃ちの形になっていなければ逃げられてたよなあれ……)
その時は留守番組と獣人が問答している間に運よく人攫いから帰ってきた彼が吹き矢で昏倒させた。吹き矢の射程内に入るまでに気付かれるか冷や冷やしたが幸いにも問答に夢中になっていたのか気取られる事もなかった。
(気をつけないと)
思い、馬車に歩み寄る。付き従っていた狼を解散させると彼に気付いた人攫いの連中が座っていた石から腰を上げ、応対する。
「おう、戻ったかい。相変わらず余裕があるな」
「そうでもないさ。内心いつかばれるんじゃないかと冷や冷やしてる」
違いねぇ! と腹の肉が垂れ下がった男が豪快に笑った。隠密姓が尊ばれるこの犯罪に対して些か緊張感が足らないなと思いつつもしょうがないかと彼は苦笑した。
お節介焼きの獣人がやってきた事以外は順調なのだ。このままいけば早ければ明日、遅くても明後日にはここを出発し、その次の日には小金持ちである。そう思えば少々気が緩むというものだ。
「こんな楽な仕事があるなんてなぁ。今までの仕事がチンケに見えるぜ。人攫い様々だな」
痩せぎすの男が言う。冒険者というより盗賊に見えるような風貌だ。まともな性格をしていそうにはないな、と彼は顔合わせの時に思っていた。実際その通りの男だった。
「俺はこれが終わったらやりたくないけどな。早く金を受け取って帰りてぇもんだ」
布で口当てをして馬車の荷台に上る。口当てをしたのは馬車の中で特殊な草を燃やしており、その煙を吸わないためだ。
その草を燃やした煙を嗅ぐと身体が麻痺し、緩やかな眠気に襲われる。嗅ぎ続けていると何時まで経っても目覚めないのだ。たまに強靭な意志を持つものが動いたり、変に耐性を持つ者、衝撃で目覚める者もいるので油断は出来ないがそれでもやはり麻痺のせいで動きは鈍い。また、常習性と依存性があり、一度や二度吸った程度では問題ないが長期に渡って吸引したり乱用すると摂取を止められなくなる。依存すれば最後に待っているものは麻痺で身体が動かず、香炉に草を供給する時以外は眠り続ける事による栄養失調や脱水症状からの衰弱死だ。
甘いような酸っぱい様な何ともいえない匂いを嗅いで溜息を吐き、担いできたアルフォンスを馬車の荷台に乗せ、両手足を縛って装備を奪う。手首に付けた銅玉が傷どころか汚れ一つもない物と気付き、数時間ほど前になったばかりかと僅かに憐憫に目を細めた。
(すまんな)
そう思って馬車を出る。
少し休憩する、と仲間達に声を掛けようとして気付いた。優れた嗅覚を持たない人間の彼でも分かる程に濃密な、まるでそれで出来た霧の只中に放り投げられ、更に赤錆びた鉄を口の中に突っ込まれたような、口当てをした上からでも分かるほどに強烈な、
(血の匂い……!?)
靴が苔のぬめりではないもので滑り、乾かぬ雨の湿り以外のもので濡れた。仲間達の声は聞こえない。それどころか僅かながらも周囲を照らしていた焚き火の光すらもない。焚き火があったところを確認すれば完全に消えていた。
彼がアルフォンスを置くために馬車の中に入り、装備を奪って手足を拘束して出てきたのが馬車の中に入って五分も経っていない。その間争う声など何もしなかったのだ。神術が行使される気配もなかったし何かが動く物音もしなかった。震える指で狼達を操る笛を懐から出し、吹く。一匹も来なかった。
風が吹いて木々がざわめく。上空を塞いでいる枝葉が揺れて一瞬、遮る物が無くなった陽光が一筋だけ彼の眼前、踏み込み一歩分ほどの前方が照らされる。
「っ!?」
何かと目が合う。しかし合ったのは瞬き一回分だ。良く見よう、と思う間もなく忽然と消え失せた。
美しい翠色の瞳だ。その瞳の色を持つものは種族的にあまりおらず、エルフの大半と一部の獣人がそんな色を持つという。
(もしかしたら薬屋……いやまさかな……)
今朝に薬を調達しに寄った薬屋の女店主。ヴァーレにただ一人定住するエルフの事が一瞬脳裏に過ぎるがその店主が薬草も何もないここにいる理由はない。
更に彼女は神術を使えない、エルフとしてあるまじき致命的な欠陥があると聞いている。戦う術は何もないはずだ。狼一匹が彼女にとって絶対に逃げられない殺し屋になる。ならば尚のこと、獣の巣が点在するここには寄り付くはずはない。ヴァーレに古くからいる人間は彼女を怒らせてはいけないと言うがその理由は彼にはとても信じられるようなものではない。
曰く、巨岩すら持ち上げる怪力を持つだとか、狼より足が速いだとか、風のようにどこにでも居るだとか、どこの怪物だと言いたくなるようなものばかりだ。
俊足だとか怪力なんかは一部の特化型の獣人がそうだったりするが身体が脆弱なエルフがそうであるはずはない。時には子供にすら力で負ける女性のエルフならば尚更だ。
(まずは状況確認だ……)
このむせ返る様な血臭や焚き火が消えている事。仲間の声も気配もない状況は異常過ぎる。そう思い神術にて明かりを点けるために命力を精製し、術を発動させようとして、
「動くな」
死神の声が聞こえた。