5 ※
ドジった。リンゼがそう思うのは囚われてから何度目か分からない。
簡単な護衛のはずだったのだ。依頼主は貴族だというお嬢様一人。酔狂にも冒険者という職業に興味があるらしい。
姿を見れば可憐という言葉が似合いそうな美しい少女であった。血風や砂塵に塗れたことなど一度も無い筈であり、それどころか友人と共に街角や草原すら駈けずり回った事もなさそうでもあった。
少女は名をヴィラと名乗り、家名は言わなかった。恐らく血筋を隠しているのだろう。大きな家名は良くも悪くも人を惹き付ける。さぞかし名のある貴族の娘と思われた。
また、ヴィラは二人の男を連れていた。護衛であるらしい。二人という少なさは無断で来た故か、またはこの二人が余程腕が立つかのどちらかであろう。
背にリンゼの身の丈を遥かに超える大剣を担ぎ、むすっとした顔で笑みすら浮かべず、常に辺りを見渡し警戒していて、髪は黒く短く、筋肉質で大柄な男がロウェル。握りに見栄えがする派手な細工を施した細身の剣を差した、口が軽く髪は長く、後ろで一つ結びにして軽薄な笑みを浮かべている如何にも軟派な優男がリルト。
恐らくではあるがリンゼ以外全員昏倒しており、彼女とヴィラに負傷はないがロウェルとリルトは多少の傷を負っている。命に関わるものではなく、獣人の鼻が捉えた僅かな血の匂いからして出血も止まっているので何ら気に留める事はない。
リンゼが気にしているのは現在の状況だ。何ゆえに生まれも職業も平凡な己がこのような目に遭わねばならないのか。
(人さらいはたい罪だってのに……)
そう思った直後床が跳ねて体が一瞬、僅かに浮き、すぐにまた落ちる。落着の痛みはない。もし痛みがあったとしても恐らく気付きはしないだろうと思う。
茫洋とする頭を動かして頭上を見れば側面に小さな穴が無数に空いた金属の円筒がある。その穴から煙が落ちて空間に充満しているのだ。それを嗅ぐと体に力が入らず、にじり寄る様な睡魔に襲われ、思考が定まらなくなる。リンゼは少し前に意識を取り戻せたが、身体はまるで鉄輪でも括り付けられたかのように重く、頭はまるでまどろみの淵にいるかのようだ。
更に一切合財の武器はなく、両手が後ろで縛られており、それは足首も同様だ。立つ事は可能であるが今立っても生まれたての動物のように震えてまともに立つ事は出来ないだろう。
再び床が跳ねて体が浮き、すぐにまた落ちた。濁る頭でリンゼは必死に考える。考えると言う事は時には命運を分けるぐらい重要な事だ。
(状きょう……今の……)
動けと思いながら首を捻り、頬を床に擦って周囲を見る。
周囲は真っ暗闇に近い。光源は忌々しい煙を落とす円筒、その中で燃えている炎が筒に空いた穴から光を漏らしている程度で、普通なら見渡す事は出来ない。だがリンゼは夜目が利く猫の獣人だ。一切合財の明かりがなくとも輪郭程度なら分かる。爪の先に炎を灯すような僅かな明かりがあればそれで五足ほど先にいる人の顔が判別出来るのだ
彼女の周囲にはヴィラとロウェル、リルトがいる。全員武装はなく、リンゼと同じように縛られて無造作に転がされていた。目は開いておらず、規則的な呼吸音が聞こえるので寝入っているのだろう。
そして三人より奥には同じような形で転がされている人間が複数、十人ほどだろうか。やはり無造作に転がされている。男女入り乱れて昏倒しており、衣服の端や手から銅玉や銀糸が見えているので冒険者だと思われるが武装や傷薬などを持ち歩くアイテムポーチなどがなく、ご丁寧にそれまで奪ったようだ。リンゼも己の腰を見れば買ったばかりで一度も使っていない愛刀とポーチがない。牙を剥き、猫の獣人特有の滑るような鋭い呼気で苛立ちを表しながら更に周囲を伺う。
(おとが……これは車りん……? それとどーぶつの……?)
篭っているようなはっきりしない音だが、何かを回している様なかなり調子が早いごとごとと言う音が聞こえ、時折何かにぶつかるような音がしたかと思う瞬間、身が浮き、すぐに落ちる。痛みはなく、息が詰まる事もない僅かな衝撃程度だ。その衝撃は今にも落ちそうなリンゼの意識を僅かに覚醒させ、思考を少しだけ明瞭にする。
(床が木だ……車輪が付いててこれは車か……)
車とはその構成を木材が大半を占め、迫り出した木の棒を伝う形で上部には雨避け、風除けの幌がかかっており、木製の車輪を持つので僅かな力で動かす事が出来る。種類によっては金属で出来たり、豪華な装丁を施したもの、内部で寝泊り出来るなどと言ったものもあるが基本的に人員や荷物を運ぶための運搬用具だ。
問題はこの車を誰が引いているかだ。人が引くことはないので大抵力のある獣だが、
(この音は馬っぽい……四頭ぐらい?)
力強く重量感のある足音。蹄鉄を打っているのか時折蹄が石に当たったと思わしき硬質な音が聞こえ、それが複数聞こえる事がある。一度に四回同時に聞こえたので四頭と思った程度の推測だ。
外の情報を知りたいと思い、身をくねらせて幌へ近付くが、
(幌で囲まれてて外どころか明かりすら一切見えないな……)
今が昼なのか夜なのかも分からない。恐らく幌を二重三重にしているのだろう。音が篭っているように聞こえるのはそのせいかな、とリンゼは思い、時間を知ろうと光精と意思疎通を試みて、
(精霊がいない……?)
常なら見えているはずのこの車の中に精霊が一人もいないと言う事に気付いた。
いや、見えていないだけならまだいいのだ。見えていなくても精霊は呼びかければ応答してくれる。だが呼び掛けても返事が返って来ない。気配の一つも感じられないというのは異常であった。光精以外の精霊を呼びかけてみても誰も返事をしない。騒がしいぐらいに存在を主張する精霊達が消え失せている。
(霊排石……? これはちょっとやばいかも)
狭い範囲に短い時間、作る人間もあまり居ないゆえ希少な事もあって大変高価ではあるが、一定のあいだ精霊を周囲に寄り付かなくする特殊な石がどこかに仕込まれているようだ。万全に身体が動く普段ならばそれは神術という超常の力に左右されない分あらゆる種族に肉体的な性能で勝る獣人には大変有利な事であるが今は拘束され、武器もない。更に体は不可思議な煙で言う事を聞かない。頼みの綱の精霊も居ない。獣人には最後に頼るべき物として己の爪牙があるが、それは拘束されている状況では意味のないものであり、
(考えてもしょうがないか……とにかく動こう)
動いているところを見つかってもこうして運ばれている以上恐らく命は取られまいと割り切る。もしかしたら殴られるかもしれないがこのままおかしな所へ連れて行かれて死よりも恐ろしい目に遭うかもしれないのだ。
猫の獣人はとにかく自由を尊重する。今の状況でも十分屈辱的なのにこの先で更に拘束されて奴隷のような扱いになったらそれは猫の獣人として死んだも同然だ。それを思えばこの程度で怯んではいられぬ。思い、気合を力の入らぬ体に込めて根性で立ち上がる。
その立ち上がった直上に依然として煙を吐き出し続ける円筒の筒があった。忌々しそうに見上げるリンゼの顔に煙がかかり、迂闊にも呼吸を、溜息の前兆となる吸気が早く、深い呼吸をしてしまった結果、
(あ、これだめだわ……)
リンゼは再び昏倒した。
――獣人は勇猛で、仲間思い。己が危機に瀕していても仲間が苦難を迎えているならば必ず助けに向かう。それこそ自分の命を投げ出しても。だがそれと同時に馬鹿でもあった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
(やれやれ、やっぱりこっちには居なさそうですね)
エレオノーレは熊と相対しながらそう思った。
試練の森に来た彼女は出来るだけの範囲を捜索した。
その中にはもしかしたらとローパーが好みそうな場所も何個か含まれていたがリンゼの痕跡は皆無だ。
道中出会った冒険者にも聞いてみたところ、何人かは昨日に複数の人間を引き連れたリンゼの姿を見たが、試練の森以外では分からないという。盗賊の祠に行ったという冒険者はいなかったので最後の一箇所を捜索して盗賊の祠に行こうと自分の中で結論付けたところで熊に襲われた。
熊のサイズは生半可なものではない。黒々とした中に所々あるこげ茶色の体毛に覆われたそれはエレオノーレの身長を優に超えている。三メートルを超えているか超えていないかは分からないがその付近だろうとエレオノーレは思う。
体重と膂力もそのサイズを裏切らない。大木のような前足から繰り出された一撃はエレオノーレが身を低くして避けた際に腕の軌跡にあった、彼女の腰ほどの太さの木を一撃でへし折った事からも必殺の威力があることが分かる。駆け出しの銅玉では戦ってもまず叶わないだろう。
だが、
(ちょっとブランクを確かめてみましょうか……)
偶発的な遭遇だ。相手も恐慌状態に近いだろう。害意を持って来るならば子供でも容赦しないが自己防衛の先制攻撃ならエレオノーレは一回目は許す。逆を言えば二回目はないが。
低くした身体を戻す際に左手で右腰に差した狩猟刀を抜く。森とは言え、木漏れ日が差す昼間では黒塗りの刀身はあまり意味がない。ただ、エレオノーレが熊相手にそんな小細工する必要もなかった。
相手の体勢は右腕を攻撃のために振り下ろし、四つん這いになっている。
最初の一刀は攻撃した左腕で、順手の抜き打ちによる切り上げだ。狩猟刀は一般的な冒険者が使う刀剣と比べるとリーチが少々足らないがそれでも熊の足を一息に切断出来る長さは備えている。
(まず一回)
獣の目を持ってしても見切れぬ高速の斬撃が熊の左腕、肘の外側から迫り、皮を僅かに切って止まった。寸止めだ。
その一撃は振り切られていれば腕を落とし、次に右の肩へ狩猟刀を内側に鋭い角度で切り込んでいただろう。
肩の傷の深さは鎖骨を断ち割り、背中の皮一枚というところまで達していたはずだ。寸止めでありながら淀みなく振られた刃はその光景を幻視するには十分な一撃だ。水を切るかのように野生動物の頑強さをものともしない。
熊が怯んだかのように一瞬動きを止め、再び咆声を上げながら右手を振るう。爪がしっかりと立てられたその一撃は掠めても顔半分の肉は抉れるだろうし直撃すれば人間の首の一つや二つを叩き飛ばすには十分な膂力だ。
だがエレオノーレは左腕を曲げ、手首を返して剣先を下に下げつつ己の肘をカウンター気味に熊の手首にかち当てて止める。粘りのある成木を一撃でへし折る豪腕を受けても身体は髪の毛一本たりとも揺るがず、踏ん張った右足が衝撃で僅かに地面にめり込んだ。
(二回目)
当てた肘、その先から熊の骨が軋むいい手応えが返る。獣の一撃の威力とエレオノーレの肘打ちの威力が乗った攻撃的な防御だ。熊の爪が腕に掠るが手首を止められ、その先が動いただけの擦傷すら出来ぬ慣性の動きだ。手傷を負わせるには全く持って足らない。
思わぬ衝撃と痛みで熊が僅かに硬直している間に左手に持った狩猟刀を手を開いて落とす。剣先は下に向いているので当然握りとなる柄は上であり、離せば落ちて地面に突き刺さるが、
「よっと」
右手で勢い良く掴み取る。その際に逆刃になっている狩猟刀を、握る前に人差し指で柄を弾き、武器自体を横に半回転させることで刃を相手側に、峰を自分側に向けた。そうしてその動きで出来るのは逆袈裟、武器を振るう直前の溜める動きだ。
一閃する。
(三回目)
その一撃は熊の右脇腹から入り、左肩へ綺麗に迷いなく抜ける。これも寸止めで皮一枚を切っただけだ。熊の剛毛の下から僅かに血が滲み、お返しと言わんばかりにがら空きの右側面に熊の左腕が振るわれるが、これもやはり右肘を被せるように叩き込んで真下へ落とす。
(四回目)
下に勢い良く落ちた左腕に釣られて熊の身体が飛び込むように前に出てきた。おまけとして横を向いた、大口を開いた熊の顎がある。その熊顎に対してエレオノーレは武器を離し、両手を合わせるようにして無理矢理閉じた。小手先の技術がない力技だ。
(五回目~)
開放された両腕を熊が振るうより早く、右の膝蹴りを腹に叩き込み、かち上げればエレオノーレより遥かに大きい熊の身体が浮いた。右足を戻し、軸となる左足を外側に回しながらその浮いた身体を右の廻し蹴りで打ち抜く。
(六回目っと)
骨が砕ける独特の感触と音がしてエレオノーレ五人分はありそうな熊の身体が強烈な打撃によって吹き飛んで転がり、小さな草木を薙ぎ倒しながら大きな木にぶつかって止まる。
熊の落着は地を揺るがし、周囲の木々で休んでいた鳥達が一斉に飛び上がった。ぴくりとも動かない熊を見つつエレオノーレは蹴りの余韻で回った己の身体、主に軸となった左足を回転で抉れた地面から戻しながら纏ったフードマントをはためかせる。
「やっぱり鈍ってますねぇ……」
数えていた回数は熊に致命傷を与える事の出来た数だ。昔、まだ先代に鍛えられていた頃と比べると全く動けていないとエレオノーレは思う。本来ならば今の三倍は攻撃を叩き込めていた筈なのだ。
単純な速度や力がかなり落ちている。勿論年齢を重ねたことによる肉体的な成長による底上げはあるが、
(やっぱり鍛錬してないとあっという間に筋肉落ちる……)
無い筋肉を付ける為に行った先代による死すら覚悟した鍛錬はしたくはないがやはり維持はしておくべきだったと今更ながらに思う。これでは有事の際に満足に動けない可能性が高い。
今度走りこみぐらいはしておくべきでしょうかと思いながらエレオノーレは蹴り飛ばした熊の方を見た。
体勢は変わっていない。四足の獣特有の四肢全てを身体の横に投げ出す格好で横たわっている。
殺してはいないはずだと思う。最後はどこかの骨を砕いてしまったようだが致命傷にはなっていないはずである。肋骨が折れた程度だろうか。折れた骨が肺に刺さっていれば良くないが呼吸は荒いではいるものの、正しく刻まれている。血の混じった泡なども吹いていなかった。
少々悪い事をしてしまったなと思う。腕を試すつもりだけであって、骨を砕くつもりなど毛頭なかったのでこの結果は望んだ結果ではない。少し迷ってエレオノーレはアイテムポーチから十センチ程の長さと親指程度の幅を持つ硝子で出来た薬筒を取り出し、栓となっているコルクを抜いて中身の薬を意識を失っている熊の口内に流し込んだ。
反応は劇的だった。気を失ったまま二、三口を嚥下した直後熊が飛び起きたのだ。それも悲鳴を上げて。
飛び起き、悲鳴混じりの咆哮を上げ、両腕を振るい、周囲の木々にやたらめったら咬み付くなど暴れまわった後に側で何事もなかったのように佇むエレオノーレを見て熊は、思わず腰が抜けるような情けない声を上げて一目散に逃げ出した。仕掛けては来たものの攻撃しようという意思はなく、突発の遭遇による自己防衛だったようである。確かに痛い目を見たら向こうから離れていくだろう。悪いとは思い薬を飲ませてやったのだが、
(野生動物にうちの薬は少々刺激的だったんですかねぇ……)
鼻を一回鳴らしてそう思った。
しかし身体が重い。次に何をするべきか決まっておらず、技術も衰えている。先代に鍛えられていた時と酷い落差だとエレオノーレは思う。
己の記憶にあるかつての自分は熊の身体を十以上のパーツに分ける事や、主要な骨を粉微塵にする事は朝飯前だったし、狩猟刀に血の一滴すら付けずに切り裂く事も出来た。それに現役時代は常に考えを巡らせていた頭も、最初に寸止めした後は何も考えていなかった。ただ反射で動いただけだ。
かつて血生臭い事ばかりしていた時と違って筋肉は落ちているものの成熟した身体はあるし、心も歳を重ねたおかげか余裕があるが平穏に慣れすぎて頭がお花畑になってしまったようだ。
「ま、おいおい戻していきましょうかね」
僅かに付着した狩猟刀の血を払い、革鞘に戻したところで狼の遠吠えが聞こえた。
仲間を集める時のものだ、とエレオノーレは思った。どうやら獲物を見つけたらしい。仲間を呼んで追い詰めて狩るのだろう。それが人か獣かは分からないが不幸な事だと彼女は思う。何故ならば、
「これも久々に投げてみましょうか……」
エレオノーレがそう思ってしまったから。スローイングダガーを手にかけて彼女は唇を舌で舐めた。