旅立ち(2)
前回の更新時に仕事が忙しくなるのでしばらく更新出来ませんというのを言い忘れていました。申し訳ありませぬ。八月の十七日過ぎたら更新ペース元に戻ります。
「服を着ろ。いやその前に身体拭け」
こめかみをひくつかせながらリンゼは、眠気覚ましの水浴びを済ませて食卓に着いたエレオノーレにそう言った。
「めんどくさいです。私は風邪引かないですし服着なくても死にませんよ?」
パンに食い付きながら、眠気を吹き飛ばしたエレオノーレは水が滴る身体をそのままにしてヴァーレの冒険者ギルドが発行している新聞の朝刊に目を通す。新聞に印刷された文字が手の水分や、毛先から垂れ落ちる水滴でどんどん滲んでいくがエレオノーレに気にする素振りは全く無い。
きっと浴室からここまで垂れた水の後が点々と残っているだろうな、とリンゼは思った。エレオノーレの家は増築をした箇所以外は古い所為か木と漆喰で作られており、今の家の主流である石床や煉瓦床ではなく木床だ。その木床に水がぼたぼたと、特に浴室やそれに近い廊下などは大量に水が零れているはずだ。
溜息を吐きながらリンゼは席を立ち、雑巾を手に歩き出した。木床に水を長い間放置する事は非常に良くないのでそれを拭くためである。エレオノーレの言によれば何回か水でカビて床が腐って抜けているらしく、所々に補修したと思われる新しい箇所が目立つ。
この行為自体はもはや毎朝やっている日課のようなもので、何度注意してもエレオノーレは改める気配すらない。言葉を言うのはせめてもの抗議だ。これが家族、故郷の家では長女だったリンゼならばこんな事をした弟妹は張り倒すが、エレオノーレは口煩く言われたところで流すだけだ。またリンゼ自身も作るのは自分とは言え、朝昼晩の食事をタダで食べさせて貰っている事と住まわせてもらっているという引け目もあり、あまり強くは出られない。
今度からバスタオル持って浴室の前で待ち構えよう。リンゼは拳を握り、強く思った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
溜息を吐いて立ち上がったと思えば急にしょぼくれた足取りになり、最後は尻尾と耳を立ててぐっと拳を握り、雑巾を手に居間を出て行くリンゼにエレオノーレは首を傾げたが、最後にリンゼが尻尾と耳を立てたのを見て別段気にする事もなかった。獣人が尻尾と耳を立てる時は緊張しているか、何か心の中で決意した時である。緊張は今更有り得ないので何かしら決断したのだろう。左手に持った所々濡れた新聞を一度振って持ち手の按配を良くし、空いた右手で箸を持つ。
箸という食器は非常に優れた物だとエレオノーレは思う。エルフの一族が食事の時に使う食器は人間と変わらぬナイフとフォーク、スプーンであり、エレオノーレも勿論それであったが先代に拾われてすぐにこの不可思議な二本の木の棒の食器、先代が言うところの箸に矯正された。最初の内は慣れず、食事をぽろぽろ落として幾度も手の甲を叩かれたが次第に馴染み、今ではまるで自分の指のような感覚さえある。二本の木の棒を食器として扱うエレオノーレをリンゼは、主に指運びを珍妙不可思議な目で見ていた。
その箸でフライドベーコンを取り、口元に運んで適度な大きさに噛み千切る。だがそのまま飲み込まず、ベーコンを皿に戻して箸を指で回し、逆手で握るようにすると、薬指と小指で箸を保持し、空いた中指と人差し指、親指でパンを掴み、噛む。朝市から時間が経ったこともあり、焼きたての暖かさは殆ど失われているが柔らかさは十二分にあった。綿の様な柔らかさが最初に舌にあり、次にほんのりとした、意識しなければ気付かないような砂糖の甘味が来る。質の悪い小麦独特の生地の粗さや粉っぽさもなく、さりとて別段高級そうな素材を使っていそうなわけでもない。つまるところ普通のパン。食材や料理に疎いエレオノーレでもそれぐらいは分かった。
フライドベーコンの塩気と脂、それに余計な味を乗せていない素材の持ち味重視のパンが口中で合わさり、とても美味い。飲めば一度で終わる筈のフライドベーコンの味が、パンに脂と共に染み込み、そのパンを咀嚼することで再び味が広がる。また、少々きつい塩気もパンで中和されてとても塩梅の良いものになっていた。純粋に美味しいと思いながらエレオノーレはエレオノーレは新聞に目を通す。
ヴァーレが発行する新聞の枚数は一組三枚が基本で、一枚はヴァーレ内で起きた事件や日常を報じるもの。二枚目は冒険都市と名乗るだけあって魔物や魔獣、新たな遺跡や魔窟の発見報告や、冒険者達の功績が報じられているもの。最後の三枚目は近隣の都市や国で起きた事が纏められている。
一枚目を読めば普段どおり取るに足らぬ情報だ。酔っ払い同士の傷害事件やどこそこの夫婦に子供が生まれたなどという微笑ましい話もある。
一枚目をめくり、二枚目を見れば注目の新人という箇所に見知った名前がある。幾人かの名前と共にアルフォンス・アスペルマイヤーと書かれてあり、その横には元は金糸の冒険者であったというギルド職員のコメントがあった。
『アルフォンス・アスペルマイヤーは将来が期待出来る有望株の一人である。彼は〝神術〟を他人に悟られる事なく使うことが出来、それはかの神術脳と呼ばれるエルフですら感知出来ぬものである。〝秘術〟というらしいその術は私が見たところ、今はまだ高位の術は秘して発動は出来ないようだが彼は発展途上であり、剣技やそれに伴う体捌きは十分な物とはいえないが今後次第でどんどん伸びるだろう。また他の者との連携に優れており、つい数日前までは単なる市井の者であった彼が言葉を言わずとも他者の望むや、己が取るべき行動を悟り、動く様はまるで何年も連れ添い、相手の何もかもを知った夫婦のようだ。選択を一つ間違えればあっという間に命を失ってもおかしくない危険な状態になる可能性がある、とある薬屋に積極的な行動を仕掛ける勇気もある。身に着ける冒険者の証は銅玉だが、後方支援に徹するならば銀糸級の活躍をする可能性もある。銅玉の諸君は彼を見掛ける時があったならば共同で依頼を受けてみてはいかがだろうか』
横書きで書かれたその文字列の下には、光と地の〝神術〟を以って作られた写真があり、照れくさそうに頭を掻いたアルフォンスが写っている。
(いやぁまだ銀糸には届かないんじゃないんですかねぇ……隙まみれですし飛び道具には脆弱ですし)
数日前からアルフォンスに乞われ、裏庭にて朝の僅かな時間に手合わせをしているエレオノーレはそう思う。武器はお互いの武器を模した木刀だ。加えてアルフォンスは〝秘術〟の使用が自由。但し大規模な攻撃系の術は家などに攻撃の余波が及ぶ可能性があるので禁止。
エレオノーレがアルフォンスに思うところとしては、神術の筋はいいしこちらが何をしようとしているのかを悟る頭の良さもある。だが、それに身体がついていっていない。昨日行った手合わせでは、エレオノーレが足払いで体勢を崩して心臓や喉と言った急所を狙おうとしているという考えは分かっているものの、それの防御策を何も考えていなかったのだ。
正確には、悟る事は出来ても思考が追いついていなかった。エレオノーレの接近を許した時点で彼女の格闘能力の高さと引き出しの多さに対応出来ず、パニックになってしまったのだ。
また、武器使用時の体捌きはあまりよくなかった。彼の獲物は始めてあった時から変わらないショートソードであったが、それより軽い木製の物にしてもどうしても武器に使われているという考えが拭えない。片手持ちの剣なのに何故か両手で持っていたし、全身の動きと腕が連動せずに腕だけで振っている状態だ。足も殆ど棒立ちに近い。また、武器を持った自分に対する変な自惚れのようなものなのか剣を振った後に残心がなく、何回切れるかなと考える余裕があった。今のところ切れる最高の回数は十六回である。手合わせの期間も短く、まだこれだけで判断するのは早計と言わざるを得ないが、エレオノーレが思った事は剣で戦うのは止めた方がいいのではないかという、冒険者は剣で戦うものというアルフォンスの思いにヒビを入れるものであった。
(アル君に必要なのは体力と速度と力と場数と警戒心と動じない不動の心ですね)
つまり冒険者に必要な色々が足りない。すっかり舌に馴染んだつい最近付けたアルフォンスへの愛称を使い、内心でそう思いながらもう一枚をめくる。
(ふぅん。緑泉郷の花は今が旬でしたか)
そう思う視線の先は色鮮やかな花吹雪が吹き乱れている写真を映しており、その写真の上には『緑泉郷の花嵐』と何も捻りのない写真のものと思われる題名がある。
(緑泉郷かぁ……久しく行ってないですね。最後に行ったのはお師匠様と一緒の時でしたっけ)
ベーコンとパンを同時に頬張りながら思う。
緑泉郷とは古今東西のあらゆる植物が揃う植物園だ。そこには遠方に行かねば採ることが出来ない貴重な薬草や花があり、薬師や花売り、同じく花を愛する人物がこぞって訪れる場所である。
また、割高だが金を払えば危険や労を伴わずにそれらを採集する事も出来る。勿論花を見に来た一般の客もいるので過度の採集は許されてはいないが、逆に節度を守れば何度でも採取出来る素晴らしい場所である。
読み進めるが、それ以上は所々が手の水分が裏から紙面に滲んで判読不可な箇所が多くなっているが、断片的に読み取れる情報からでは特に有益なことはなさそうだった。魔物という単語があるのが気になるが、緑泉郷には高価で貴重な植物を悪人や魔物と言った害を為す者から守る戦士団がいる。個々人がそれなりに強く、また集団の錬度も高いのでそこらにいる魔物程度では一歩踏み入れる事すら出来ないだろう。
(緑泉郷……うん、そうですね。ここにしましょう。この時期ならお目当ての花も咲いているでしょうし)
読み終わった新聞をテーブルの上に置くと同時に芯が無い木を折る時のような音が聞こえ、それと同時にリンゼの悲鳴が聞こえた。恐らくどこかの床が抜けたのだろうとエレオノーレは思う。補修は帰って来た時にでも頼もうとも思う。何しろ今日から少々忙しくなる。
――もう一度死返を作るのだから。




